第10話「悪い魔法使いが殺人現場に居合わせた場合」
「……し、死んでる」
呟いた声は暗い酒場のどこに沁みるわけでもなく居心地悪く浮ついていた。冗談めかした気持ちがなかったとは言えない。
許容量を超えた現実を受け入れるには、茶化すしかないときもある。
あくびでもしながら起きてくれ、という願いは叶わない。寝息も聞こえない。こめかみがぎゅっと絞まるような緊張感で目を凝らすが、グラウの背中は動いていない。呼吸をしていない。
ぴた、ぴた。
テーブルから滴る赤黒い液体は、太陽の光があれば鮮明な赤色をしているのかもしれない。
それを血液と認識した途端に、鉄錆と生臭さの入り混じった臭いを感じた。
俺はそろそろと足を動かし、グラウに近づいた。
グラウの背中が血に染まっていた。
外傷性。誰かが殺したということ。
その瞬間、背筋に寒気がはしった。
グラウは殺されたのだ。その犯人はもしかすると––––
そのとき、キッチンの奥から黒い靄が飛び出したのを俺は見るだけだった。血を這うように接近し、俺に向かって跳ね上がる。
「愚か、です」
エアリアルの冷たい囁きと同時に風が迸った。
空気が破裂し、突風が髪を逆立てる。黒い靄がキッチン奥の棚に吹っ飛んだ。酒瓶が雪崩れ落ちて割れる。
呆然と立ち尽くす俺の肩に、ふわりとエアリアルが腰を下ろした。
「お酒を飲んで意識をなくす。知性ある者の行いとは思えません」
「……俺、悪くなくない?」
「見ず知らずの地で気を抜いて眠りこけることが愚かではないとでも?」
「それは反論できねえ」
会話は頭の上っ面を通り過ぎるだけだった。
俺はゆっくりと腰を落としていつでも動けるように構え、視線は正面から動かさない。
殺人現場に居合わせて死体を目撃したことは重大な経験だが、殺人犯らしき相手に命を狙われている状況のほうが差し迫った危機である。
ガラス片が溢れる音ががちゃがちゃと鳴った。黒い外套を被った小柄な姿が立ち上がっている。外套の隙間から鈍色の刃物が突き出ていた。そこにべったりとついているのは血で間違いないだろう。
「この胃もたれするような脂っこい魔力は魔族でしょうね」
「魔力の食レポは斬新だな」
口は軽いが、俺の身体は重かった。逃げ道を確かめる。正面のドアから逃げるしかない。その時間を稼げるだろうか。
エアリアルが言うには魔族らしいそいつは、肩も顔も上下させずに床を滑るように歩いた。
俺はゆっくりと下がる。
狭いホールだ。逃げ場も障害物もない。刃物を持った相手に勝てるような心得もない。
これ以上近づかれるとやばい、と分かっている。相手は躊躇いなく俺を殺すだろう。その力がある。俺はあっけなく殺される……。
普通なら泣き喚いても良い状況で、奇妙なことに俺は怒りが湧いてくるのを感じた。別の感情をしまっいた箱を不意に開いてしまったように。
武器を持つヤツは傲慢になる。力があればなんでも出来ると思い込む。弱いヤツを虐げてもいいと考える。
俺に非があるならまだいいさ。
敵討ちだってなら文句はない。
だが目の前の野郎は、ただ自分に力があるから俺を殺そうとするのだ。己の傲慢さの発露のために、俺を虐げるのだ。
ムカムカとした怒りが鳩尾を熱くする。逃げようという恐れは闘争心に変わる。
いいさ、だったらやってやる。こっちにだって武器くらいある。
「なあ、反撃されたことはあるか? ないだろうな。弱いヤツを背後から襲うことしかできないヘタレ野郎だもんな」
「––––」
返事は行動だった。
魔族野郎は姿勢を低くして駆ける。霞むように速い。正面からでは目で追えない。
だがどうだってよかった。
俺は口を開くと同時に人差し指を振り、風を起こしていた。狙いなんてつける必要はない。前方一帯をまとめて風でぶん殴る。単純明快だ。
巨大な船を浮かすほどの風を、俺は––––プロスペローの身体は、行使できる。
巻き起こった風は目に見えぬ暴力となってすべてを吹き飛ばした。
椅子、床、カウンター、棚、幾つもの酒瓶、壁、そして天井……。
爆破された建物の側面が吹き飛び、隣の建物の壁から天井までを齧るような大穴を開けた。清々しいほどに星の明るい夜空へ何もかもが流れ出した。
無数のゴミの中に黒い外套がひらめいた。空中で姿勢を変えると屋根の上に猫のようにしなやかに四つん這いで着地する。
地上と、頭上と。フード越しに視線が絡んだ気がして目がそらせない。
俺は人差し指を向けた。
力を押し付けるなら、押し返すことに躊躇いはない。殴ってくるやつには殴り返すだけだ。
喧騒が耳に入る。叩き起こされた住人たちが騒いでいる。
黒づくめの魔族は自分から視線を切ると、あっという間に陰に消えてしまった。
「……なんだよ。あいつは」
俺はどっと脱力して肩を落とす。周囲はひどい状況だ。散乱したがらくたや木片の中に、鋭く輝くものが埋まっていた。
慎重に取り出す。あの魔族が持っていた凶器だった。
肘から指先までと同じくらいの細身の短剣だ。なんの飾り気もないただの武器だが、それは俺に手にはやけに重く感じられた。
「ここから離れたほうがよろしいかと思いますが」
と、エアリアルが言った。
「まさか逃げたふりして襲ってくるのか?」
俺は慌てて立ち上がって周囲を確認した。
どん、と扉が強く振動した。俺は魔族の襲撃に備えて咄嗟に短剣を突き出した。
扉を蹴り破って雪崩れ込んできたのは、どう見たって揃いの制服を着た人間の兵士たちだった。
あ、やべ、と呟く自分の声が、やけに間抜けだった。
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