第9話「酒は飲んでも記憶は失うな」
入ってきたのは人間ではなかった。いや、顔立ちは人間そのもののおっさんなのだが、その頭の左右には垂れた茶色の犬耳がついていた。
船ではアライグマの顔をした人間を見たし、街でも様々な顔貌があったが、獣人の存在は何度見ても慣れない。
外からの光を背負って男は店内に入り、俺と見て眉を上げた。
「なんで人間がいる。グラウのつがいか?」
「……いや、たぶん違う。困ってるところを助けてもらったんだ」
「なんだ、いつものやつか」
テーブル席で寝息を立てている––––どうやらグラウという名前らしい女を見て、垂れた犬耳の男は我が家のように慣れた動きでカウンターの奥に向かうと、棚に並んだ酒瓶からひとつを取った。
俺の隣の席に腰を下ろし、自分のグラスに酒を注ぐと、そのまま俺の空いたグラスにも流し込む。
「名前も知らねえが、ひとりで飲むんじゃつまらねえ。付き合ってくれ」
「店主が寝てるのに勝手に飲んでいいのか?」
当たり前のことを訊いたつもりだが、犬耳の男は苦笑した。
「起きるまで良い子で待ってちゃ酔うこともできねえだろ。あいつはいつもああさ。酔って正気を失ってるか、寝て意識を失ってるか」
そうしてぐいと酒を飲み干し、再びグラスに酒を注ぐ。
「ほら、飲め。人間が気にいるかは分からんが」
含みのある言い回しが気になってグラスを取れば、アルコールに混じって鼻の粘膜がぴりぴりするような香りが立っている。おそるおそると舐めてみる。
「かっらいなあ……」
「俺たちにとっちゃこれが普通の味なのさ。人間の飲む酒は味が薄いんだよ」
笑われる。香辛料をいくつも混ぜ合わせた酒は、舌を焼くような辛味のあとに複雑な風味がいくつも重なっていた。飲み干すと食道から腹までぽかぽかと暖かくなった。
唐辛子というよりかはジンジャーのような辛さは、一口目にはなんだこれと顔を背けたくなる。しかしちびちびと舐めてみると、だんだんと悪くないな、と思い始め、グラスを空にしたときには、もうちょっと飲みたいな、と名残惜しくなった。
「なんだ、イケる口じゃねえか兄ちゃんよ。ほれ、もっと飲め」
「……うぃっす」
グラスに注がれるおかわりを見て、薄ぼんやりとした記憶が刺激された。
酒の席、上司から注がれる酒、続く説教……楽しくもない場ながら、帰ることもできない苦痛。記憶は曖昧だが、その時の感情が込み上げて胸を押さえた。
どことも知れない場末の薄暗いスナックで、初めて会ったばかりの獣人と並んで、変な味の酒を飲んでいる。
それがちっとも嫌じゃないことが、妙に嬉しかった。
「つまみが欲しいな」
俺がぼそっと呟くと、犬耳のおっさんも頷いた。
「食い物も勝手に漁っていいのか?」
「グラウはそんなことで怒りゃしないさ。ただな、ろくなもんはねえだろ。グラウは料理ができねえからな、まともな食い物が出てきたことがねえし」
俺は酒を飲み干し、グラスを置いて席をたった。カウンターの裏に回る。度数の強い酒が頭をふわふわと揺らしている。気分が良かった。あと何か食いたかった。
グラウが灯してくれたランタンを持ってカウンターの中を探る。狭いカウンターの中で、わずかばかりのキッチンがある。ガスコンロのわけがなく、箱型の七輪のようなものが置いてあって、中に灰と燃えかけの薪が残っている。
「冷蔵庫はどこだ?」
独り言のような呟きだったが、おっさんには聞こえたらしい。犬耳だからだろうか。
「そこにあるのが見えるだろ、なにしろここは王宮だからな」
けらけらと笑う声は冗談に違いなかった。
「……そうか、ないのか、冷蔵庫」
氷を使った冷蔵庫だって、一般家庭に普及したのはそう昔じゃない。この世界の不便さが垣間見えて、俺はため息をつく。
手近な扉を開けてみると、調味料の入った陶器や、干し肉の包み、煉瓦のような塊のチーズ、紙に包まれた半円のパン、缶詰、萎びた野菜なんかが見つかった。新鮮な生肉や魚はもちろんない。
凝った料理は難しいが、酒のあてくらいなら事足りそうだ。
しかしあまりに素材のままでは物足りない気もして、ひと手間くらいは掛けたくなる。
俺は七輪に向き合い、残った薪に人差し指を向けた。集中して意識の中の火打ち式を叩く、指先から迸った火花が炎となった。
引き出しから見つけたナイフでパンを薄切りにし、火で炙っていく。あちち。
縁の欠けた丸皿に置き、鉛筆を削るように頭上からチーズを落とした。固い干し肉を切り出してフライパンで焼き、それをパンの上に置いていく。オリーブオイルと塩があったので、それを味付けの仕上げにする。
焼いたパンに具材をトッピングしただけの料理だが、イタリアではブルスケッタと呼ばれる立派な料理なのだ。
格好をつけるには食材がシンプルだが、酒を楽しむならこういうので良い。
空いたスペースにチーズと干し肉を切って盛り、火を指に吸い取って後始末し、おっさんのところに皿を持っていく。
「これ、簡単なやつだけど」
「……おまえ、料理ができるのか! すげえな」
「このくらい誰でもできるって」
良い歳をしたおっさんが目を丸くするものだから、俺は苦笑してしまった。
「こんなもん食うのは初めてだぞ、おれは……貴族さまの食い物みてえじゃねえか、手で食っちまっていいのか?」
「大袈裟だっての。こうやってさ」
手本を見せるようにひとつをつまみ、きゅっと丸めて具材を包み、大口を開けて放り込んだ。
焼いてから時間の経ったパンは固いが、焼いたことで香ばしい麦の香りがした。干し肉は歯応えがあり、思っていたよりも塩っ辛い。けれどほんのりと溶けたチーズの濃厚さとカビ臭い風味と合わさると、それが意外にもちょうど良かった。オリーブオイルが味の隙間を埋めてくれている。
こんな場所で食べるにしては、出来過ぎなくらいに美味い。それとも、こんな場所で食べたからこそ美味いのかも知れない。
人間の俺が美味いと思う味だが、獣人がどう感じるのか気になっておっさんを見る。ちょうど口の中にブルスケッタを放り込むところだった。
何度か噛み締め、目を丸くして動きを止めてしまう。犬耳がぴくぴくと上下した。すごい速さで顎が動き、頬が膨らみ、慌てたようにグラスに酒を注げば、それをぎゅっと飲み干してしまった。
ぷはぁーっ、と息をついて、おっさんは俺を鋭い目で見た。文句でも言われるのかと背筋を正したところ、
「––––お前、天才。いますぐ料理人になったほうがいい」
「……その顔で言うなよ」
「だはは、美味すぎてびっくりしちまったよ」
おっさんは急に相好を崩した。
本当に美味い、これは酒が進む、と、おっさんはブルスケッタを齧り、酒を飲み、よく笑った。
機嫌良く飲む人が隣にいれば、こっちも酒が美味くなるのだから不思議だった。おっさんが遠慮なく酒を注いでくれるもんだから、俺もついつい飲んでしまう。
瓶が空になると、おっさんは新しい酒瓶を持ってきた。
つまみがなくなると、俺が適当に焼いたり煮たりして作る。
何かを話していたはずなのだが、内容はさっぱり覚えていない。おっさんのくだらない冗談で馬鹿笑いをした楽しい気分だけは残っていた。
おっさんはめちゃめちゃ酒に強く、俺はそこまで強くはない。
どこで眠気を感じたのかすらわからないまま、俺はいつしか眠ってしまっていたらしい。
ふと目が覚めたとき、室内は静けさに沈んでいた。扉の明かり取りの向こう側は真っ暗で、すっかり夜になっているようだった。ランタンの明かりが弱々しく室内を照らしている。
俺は寝ぼけた頭を起こす。酒が身体の芯にまで染み込んでいるようで、ズキズキとした頭痛が不快だった。隣にいたはずのおっさんはいつの間にかいなくなっている。
「つぅ、頭いてえ」
水が欲しい、と椅子を引いて腰を浮かせて、その中腰の状態で俺は動きを止めた。
「……マジ?」
暗闇の中でランタンの光を反射する赤い液体がテーブルを染めていた。ぽたり、ぽたりと、縁から垂れた液体が床に巨大な水溜りを作っている。
その中心に、俺を助けてくれた親切な女––––グラウが力なく突っ伏していた。
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