第8話「木材臭い酒の声」
突然の暗闇と無音に、神経がぴりぴりと逆立った。視覚は効かない。手に触れるものはなく、足の裏だけが地面についている。役に立たない視覚から、耳と鼻にリソースを回したらしい。急にどこかから湿ったカビとアルコールが香り、女の足音と衣擦れがやけに大きく聞こえる。
女が俺の横を通り過ぎた。
「なにを突っ立ってんの」
「……いや、なにも見えなくて」
「あんた、ただの人間? 夜目も効かないなんて信じられないね」
がたがたと棚を漁るような音の後で、しゅっとマッチが擦られた。眩い光に女が照らされている。壁に引っ掛けられていたランタンを取ると、その中に火を移した。ガラスは煤汚れですっかり曇っている。
ふっ、とマッチの火を吹き消し、女が俺を見た。上から下までざっと値踏みされたことがわかる。
「街中で兵士に追われるにしちゃ、覇気がない。なにしたの。女の首にでも噛みついた? こわ」
「噛みつかねえよ!?」
「吸血鬼でもないのか。ますます変なの。ここの通り、呪いがかかってるから、普通の人間は入ってこないはずなんだけどね」
まあいいか、と女は気だるげに息を吹いた。煙草の煙がもくもくとランタンに照らされ、それもすぐに消えてしまう。
「こっちおいで」
女はランタンを持って廊下を進む。暗闇にひとりで残されるのは心細い。俺はあとを追うしかなかった。
薄暗い廊下を進む。角を曲がると、扉があった。女が開くと弱い光が流れ込む。ここよりは広い空間につながっているようだ。まるで洞窟から抜け出したような安心感。
そこは酒場だった。カウンターがあり、ホールがあり、壁際には箱型のピアノらしきものが置いてある。
古びた調度品のせいか、店全体に漂う薄暗い空気のせいか。場末の、くたびれ、さびれた……褒め言葉ではない感想ばかりが浮かんできた。
女は俺の様子に気を払うでもなく、カウンターの裏に入って行った。ランタンを置き、煙草を咥えて両手をあけると、当たり前のように慣れた手つきで戸棚からグラスを取り出し、並んだ酒瓶から選んだひとつの栓を抜いた。
ととっ。
グラスに注がれる液体の音。
女はカウンター越しに手を伸ばしてグラスを置いた。
「飲みな。最初の一杯はサービスにしてあげる」
「……どうも」
カウンター席まで歩き、脚の長いスツールに腰掛けた。
グラスを見れば琥珀色の液体が指二本分ほど注がれている。グラスを取って鼻を寄せると、煙草の焦げた煙の香りに混じって、強いアルコール臭がした。舌先で舐めると、痺れるような刺激と、木製の樽を噛んだような味がする。度数の強い蒸留酒というよりは味のついた消毒液だった。
思わず顰めてしまった顔を見られたらしい。女は喉を掠らせるような笑い声をあげた。
「あんた、良いとこの育ちでしょ。こんな不味い酒は飲んだことがないって顔してる」
「いいや、こんな美味い消毒液は初めてだって思ったんだ」
はは、と女は顎を逸らし、煙を吹きながら笑った。
「ここ、酒場か?」
「見りゃわかることを聞いてちゃつまんないね。ただの掃き溜めさ」
「掃き溜めにツル」
「ツル?」
「いや、なんでもない」
急に思い出した言葉は通じない。
蒸留酒を舐めて口の中を消毒し、俺は店の中を眺めた。玄関扉の横に小さな窓がついていて、そこから差し込む薄暗い光だけが外とのつながりだ。
「なあ、どうして助けてくれたんだ?」
女は煙草の先を灰皿にこすり付けて消すと、新しいグラスに酒を注いだ。
「兵士が嫌いでね。追いかけられてるやつを助ければ、兵士が困るでしょ。そうしたらあたしは気持ちよく酒が飲める。それだけ」
言って、女は酒を煽った。ひと口で流し込んでしまう。髪をかきあげながら漏れた満足げな吐息は扇情的だった。
「この国はね、いまおかしくなってるのさ。誰も彼もが暗い顔をしてる。男どもはすぐに言い争っちゃ喧嘩をするし、裏道じゃ人がのたれ死んでる。人生は最悪、酒でも飲まなきゃ正気じゃいられない。酔えればね、味なんてどうでもいいのよ」
グラスにお代わりを注ぎながら女は言う。そしてまた一息に飲んでしまった。
よく見ると、カウンターの裏には空いた酒瓶が何本もあった。ここは酒場だ。客が飲んだものもあるに違いないが、尋常でないペースで酒を煽る女を見ると、もしかしたら、と心配になる。
蒸留酒なんてストレートでがばがば飲むものではない。酔う酔わない以前に、身体に害しかないと思うのだが……。
止めるのも余計なお節介だろうと黙って酒を舐めている間に、女は瓶を逆さに振るって最後の一滴までをグラスに移し、くいっと飲み干してしまった。
はあ、と心底、嫌気がさしたみたいに息をついたかと思うと、ふらつきながらカウンターを出て、店の奥のテーブル席に座った。腕を枕に突っ伏してしまう。
「……なあ、おい、大丈夫か?」
「だいじょぶ、だいじょぶ。帰るときはそこの扉からね、裏は閉めたままにしといてえ」
語尾にぼやけた甘ったるさを引っ張って、女はすぐに寝息を立ててしまった。
不審者を連れ込んでおいて、あまりに無防備な振る舞いだった。いや、なにかするつもりもないけども。
「感覚を麻痺させて意識を失うようなものを、どうして自ら飲むのです? 理解できません」
星屑のように光の粒子が瞬いたかと思うと、エアリアルが姿を見せた。カウンターをととんと軽やかに歩き、俺が持つグラスの縁に手をのせて覗きこんでいる。
「いろいろあるんだよ、大人にはさ……」
「格好つけても似合いませんよ」
「うるせえやい」
エアリアルにデコピンをお見舞いしようとするが、当然のように避けられてしまった。
グラスを持ち上げ、かといってもう飲む気にもなれず。木材臭い蒸留酒をグラスの中で揺らしながら、頬杖をついている。
慌ただしく逃げ回ってばかりの一日だったな、と思い返している。
こうして腰を落ち着けてしまうと、急に立ち上がるのが億劫になってしまった。
どことも知れない場末の酒場のカウンター。
こんなところまで逃げ出したのは、俺の小市民の心臓のせいだ。いや、やっぱりプロスペローのせいだ。
黒山羊とかいう魔族から手紙の返事をせっつかれていたのも、殿下とやらから呼び出されているのも、プロスペローが悪い魔法使いだからである。
なんでか知らんがプロスペローと成り代わってしまった俺がその尻拭いをするのはおかしい話だ。だから逃げたって当然なのである。
とはいえ、逃げたからといって、行くあてもやるべきこともないのが実情だった。
呼び出されたのだから王城に謁見に行くというのもタスクリストに入っているが、さっきの爺さんの話が正しければ、行ったところで歓迎されそうもない。
やはり元の世界に帰るべきだ、鍵を盗んだあの少女を探すのだ……と、意気込むのが正しいと分かってはいた。けれどどこかやる気が出ないのは、俺に記憶がないからだろう。
あやふやながらに過去の記憶が蘇ることはある。便利な道具、快適な部屋、うまい食事を恋しく思うこともあるが、うっすらと「そんなものもあったな」と思うだけで、喉から手が出るほどではない。
どこかに帰りたいと強く願うのは、そこに執着があるからだ。家族とか、恋人とか。自分の居場所だと信じられる繋がりが残っているからこそ、その糸を手繰り寄せたくなる。
だが、そこら辺を思い返そうとしてもさっぱり手応えがない。すっからかんの脳みそが空虚な音を響かせるだけである。
思い出せないだけか、そもそも繋がりがないのか。
どちらにせよ、自分でも不思議なほど、どうしても帰りたいと思うほどの欲求がわかないのだ。なりふり構わず必死こいて少女を探すほどの熱量がないからこそ、俺はここでぼうっと消毒液みたいな酒を飲んでいる。
と、そのとき、鐘の音が聞こえた。銅鑼を叩き鳴らすような腹に響く重たい音だった。街のどこかで教会が鳴らしているのだろうか。
その音に合わせたかのように、店の扉がぎいと開いた。
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