第7話「ネズミの隠れ家」
扉をでると、体当たりの勢いのままに飛び出してしまう。甲高いベルと怒鳴り声が飛んできた。俺はそのまま走り抜ける。
すぐ後ろを、二頭立ての馬車が走り抜けた。御者が叩き鳴らす鐘の音を追えば、その先々で追いやられた通行人たちの怒鳴り声が遠くなっていく。
庭園の扉から繋がったのはどこかの街の通りだった。左右には三階まで重なる建物が連なり、人々が途切れなく行き来している。
ルスティカーナよりもずっと簡素なドレスを着た女性たちや、ジャケットに帽子と杖という身なりのいい男もいれば、毛むくじゃらの上半身を露わにした獣顔たちが繋がった足の鎖を引き摺りながら歩いている。
近代のような景色ながら、そこにちぐはぐなファンタジーの糸を織り込んだ不可思議なタペストリーを眺めるようだった。
俺の目の前を通りすぎていくスーツを着込んだ丸眼鏡の老人は、どう見たって俺の半分以下の身長しかなく、肌は緑で耳が尖っている。
通りの端に座り込んで煙草を吸う女の手足は剥き出して、黄色い毛並みの猫のように膨らんだ指には鋭い爪が伸びている。
それを興味深く見つける人間は誰もいない。むしろ道の真ん中で立ち止まってぐるぐると視線を回している俺こそを、ちらと見てはすれ違っていくのだった。
そのうちのひとりと危うくぶつかりそうになって、俺はさっと身を避けた。
「あ、すみません」
人はたしかに多いが、流れは分かりやすいし、隙間もある。通勤ラッシュの朝の駅内ほどの殺伐さもなく、肩で押し合うほどのものでもない。慣れ親しんだ動きのように、身体は勝手に動いていた。
ぶつかりそうになった男は驚いたように目を丸くしたが、そそくさと流れに戻っていった。なんだよ。
ここがどこかも分からないが、通路の真ん中にいたらまた馬車に跳ねられそうだ。ひとまず俺も人の流れに混ざり、どこに向かうとも知れずに歩き出した。
「どうしてニンゲンたちは狭い場所に集まりたがるのですか?」
と、右肩に軽いものが乗る感触と同時に、もみあげがくいくいと引っ張られた。そこに姿は見えずとも、エアリアルがいるのだと分かる。風の妖精であるエアリアルは自在に姿を消せるので、俺以外の人間がいるときはいつの間にか透明になっているのだ。
ルスティカーナのスカートの中に隠れたとき、こいつはどこにいたのだろうか。とりあえずそこに言及はしないでくれるらしいことに安堵しながら、俺は小声で答えた。
「物も人も集まってるほうが便利だからだろ」
「不快ではないのですか? どうしてここまで群れになりたがるのか、理解に苦しみます」
「そりゃ、快適じゃときもあるだろうけどな……」
歩きながら左右の建物を眺めるだけでも、文明の発展が現代に遠く及ばないことが分かる。
建物沿いの歩道には石畳が敷かれているが、中央は舗装もされずに土がむき出しで、穴ぼこや、泥水の溜まった水たまりもある。木造とレンガと石の入り混じるような建物はやけに屋根が尖っていて、壁には横に斜めにと木材が打ち付けられているが、それが補強なのか装飾なのかもよく分からない。
見知らぬ外国の古い街に観光に来たような気分だった。歩くうちに人の密度が減り、通りが広くなる。通行人は建物沿いの石畳の歩道に上がり、土路は馬車や荷車、馬に乗ったカウボーイのような男たちに譲っていた。
隙間もなく並んだ建物はどこも何かを売っている。商店街のような場所だろうか。ときどき、店の前にまで棚を並べ、そこで野菜や服を売っている。売り買いする客には人間と獣人が入り混じっていた。
人の声が絶え間ない。子どもたちがはしゃぎながら道に飛び出す。馬がいななき、馬車が止まり、御者が怒鳴る。向かいの通りではテラス席で昼間から酒を飲む赤ら顔の男たちが大いに笑っている。
「たぶん、集まると楽しいんじゃないか? ひとりだと寂しいだろ」
ふとそんな気がして答える。
「寂しい。そういうものですか」
「そういうもんだよ、人間って」
通りは緩やかに曲がっていく。建物にぴったりとくっつくように歩いていたから、その光景を見上げるのが遅くなった。
「––––おお」
幻想的、というべきか、圧倒されたというべきか。
曲がり終えた先に、二つの塔が見えた。左右には変わらず建物が連なり、それが上り坂に合わせて段々と上がっている。その屋根の向こうに、白亜の塔が高く天をついていた。
円柱ではなく角の目立つ塔は、現代的なものに例えれば高層ビルに違いない。ただ、その側面にはいくつもの巨大な窓が並び、屋上には王冠のようにツノが生え、ビジネス的な無機質さとは無縁の芸術的な意匠を纏っている。
青空を背景に聳え立つ二つの建造物は、塔の形をした城とでも呼ぶべき風格があった。
「あんた王都に来るのは初めてだろう」
「ふえっ」
意識外からかけられた声に思わず背筋が伸びた。いつの間にか隣に小柄な老人が立っていた。革の帽子のすぐ下に白い眉が森のように茂っていて目がどこにあるのかも分からない。
「あれは”双月城”じゃよ。並び立つふたつの塔は、ふたりの始祖王を象徴しておる」
「はあ」
「意外じゃろう? 王といえば普通はひとり。しかしの、この王国はふたりの王が並び立ち繁栄させたのよ。互いが補い合うそれは素晴らしい王たちであったとか」
「……それは、すごいっすね」
「そうじゃろう! こんな国は他にはない!」
ご老人はおおいに頷きながら話を続ける。
記憶にないはずなのだが、どうにもこうした状況に覚えがあった。こんなお客さんがたまにいた気がする。親切なのか話好きなのか、とにかく聞いてもいないことを丁寧に教えてくれるのである。なるほど、とうなずいているかぎり、その話は終わらないのだ。
仕事中であれば腕時計を見ながら切り上げるタイミングに悩まされるところだが、今ばかりはありがたい。おかげでここが王都であり、あのでかい塔が双月城と呼ばれる王城だと分かった。
「……というわけじゃが、最近の若いものは王家への崇拝の念が少なくて困る」
「なるほど、まったくその通りです。王家といえば、やっぱりアロンゾ殿下には期待できますかね」
続く老人の話の区切りに声を挟み、俺を呼び出すために手紙を送ってきた張本人の名前を出すと、ご老人は立派な眉を人差し指で撫でつけた。
「まあ、次代の王はアロンゾ殿下ということになろうがの。まーったく良い噂を聞かん。わしの倅は恐れ多くも王城に勤めておる。その倅があれはいかんと言うんじゃ、よほどひどいんじゃろうて」
「と、言うと……?」
そこで老人はきょろきょろと周囲を見てから、俺に顔を寄せた。
「––––殿下は、どうも戦争をしたいらしい。血の気の多いお人柄らしゅうてな、ずいぶん前からどこぞへ攻め込むという噂がひっきりなしよ。もう長く戦もしとらん、魔族も大人しい。ご立派な騎士団は金を食うばかりでただの飾り……軍閥に推されて、殿下も引っ込みはつかんじゃろうて」
「はええ」
戦争、軍閥、騎士団。なんとも縁の遠い言葉ばかりだった。しかし城下町の住人が話すのだ。それが妄言なわけもなく、言葉の持つ物騒な気配だけが胸のうちに残る。
「昔は心根の優しい方じゃと、よく話に聞いたんじゃがなあ……姉姫さまがお亡くなりになってしもうて、すっかりお人が変わられた。姫さまがいらっしゃれば、どれほどこの国が豊かになったことか」
やれやれと首を振る老人は、「なにもかも、あの”宮廷魔法使い”が流れてきてからおかしくなってしもうたのよ」とため息をついた。
その名前を、ついさっき聞いたばかりだ。ハリエットとルスティカーナが話していた。庭園に魔法をかけたとかなんとか。
「その”宮廷魔法使い”のせいだって言いたいのか?」
老人はふんと鼻息を荒くして、
「どうせ魔法とかいう訳のわからん呪いで悪さをしたに違いないわ。”魔法使い”とやらにろくなやつはおらん。特にプロなんとかいう魔法使いは、今では勝手に国境を支配しておるらしい。魔族と通じてこの国に攻め込むんじゃないかと噂されておる!」
「そんな魔法使いがいるのか! それは許せないな!」
「おお、お主もそう思うか! 人並外れた力を持ちながら他人に迷惑をかけるだけの存在なぞ、どうせろくでなしに決まっておる。顔が見てみたいもんじゃ!」
俺は大きく頷いた。
プロなんとかという魔法使いはなんてひどいやつなんだ! 許せないな!
と、そのとき、木材がへし折れるような音が響いた。馬がいななき、固いものが雪崩れて砕けるような騒音。
「おい! あぶねえぞ! 避けろ!」
誰かが叫んだ。土路を走っていた馬車が穴ぼこにはまって、車軸を折ったらしい。外れた車輪が地面を転がり、人々が大慌てて避ける。転がり、石畳の段差に弾み、ぐるぐると回転しながら、それはこっちへ––––
「って、あぶねっ」
俺はとっさに手をあげた。奇妙な感触があった。手のひらから伸びる見えない糸が、空中の車輪と繋がったかのように思える。反射的に拳を握りしめると、不思議と手のひらに何かを掴んだ感触がある。
見やれば車輪は空中でぴたりと動きを止めていた。それを俺はぽかんと。隣の老人は口をぱかんと開けて見上げていた。
いや、危なかった。このままだと俺たちに直撃するところだった。
ゆっくりと手を下げると、宙に浮かんだ車輪も地面に下がっていく。手を離せば、車輪はその場で横倒しになり、車輪の縁でくるくると地面に円を描いた。
その間、誰も何も言わず、唾を飲む音すらしない。けれど全員が車輪と俺とを見ているのが分かった。
「––––”魔法使い”」
と、隣で老人が呟いた。
魔法使い、魔法使い、魔法使い……と、周囲の人々が呟く。石を投げ込んだ水面に波紋が広がっていくように、人々の意識が順繰りに取り戻されていくのが分かった。そして。
「魔法使いだ!」
と誰かが大声で叫んだ瞬間、溜め込まれたものが爆発した。その歓声の大きさに俺は飛び上がり、とにかく逃げることにした。
「爺さん、ありがとな! 気をつけて長生きしてくれな!」
老人は口をポカンと開けたまま、こくこくと何度も頷いた。
俺はフードを深く被り直し、走り出した。
「たしかに集まると寂しくはなさそうですね」
喧騒に満ちた人々を見てか、エアリアルが興味深そうに耳元で言った。
「いや、こういうのはたぶん例外……」
苦笑いで言い返そうとしたとき、目の前から走ってくる兵士の小隊が見えた。庭園で出会った兵士といえば磨かれた金属の防具だったが、今度は革製の胸当てに鉄の兜といった質素なものだ。
兵士たちの目的はあの騒ぎに間違いないだろうが、ばっちりと目があってしまった。
「おい!」
と声をかけられたとき、止まるべきか、走るべきかと悩んだ。たぶん止まる方が良かった気がする。悪いことはしていないのだから。
しかし俺は真横を走り抜けてしまった。
「なぜ逃げるんだ! 待て!」
「なぜ逃げるのですか?」
「ついうっかりだよ! どいつもこいつも追っかけてくるから逃げるのが癖になってんだ!」
胸を張って言えることではない。しかしここ最近、逃げてばかりだったせいで、ひとまず逃げるという選択肢を選ぶようになってしまっている。
後悔してからでは取り返しがつかないことは多いが、官憲からうっかり逃げることはその筆頭だろう。今さら立ち止まって事情を説明しようにも、にこやかに話が進むとは思えない。
なにしろ俺、全身を黒のローブで覆っているのだ。傍目に見たら間違いなく怪しい。新しい服買おうかな……。
「ええい、とりあえず逃げきる!」
「つくづく変なことばかりする人間ですね、あなたは」
「褒めてくれてありがとよ!」
逃げるのにも慣れてきた。建物の隙間にできた横道を見つけると、すぐさま飛び込んだ。大通りよりもこういう細い道で視界を悪くするのが逃げるコツなのだ。
建物に挟まれたために薄暗い細道を、ゴミやら植木鉢やらを蹴り飛ばし、寝転んでいる人間を飛び越しながら走り抜ける。十字路を鮮やかに左に曲がる。後ろから兵士たちの声が追ってくる。
「ふはは。怪盗になった気分だな! 誰かに追われるっていうのも悪くない!」
完璧に冤罪だから追われる理由もないのだが、捕まったら洒落にならない大人の鬼ごっこはスリル満点だ。
「楽しそうなのは構いませんが、行き止まりでは?」
「えっ」
見ればたしかにそうだった。片方が二階建てになっているために、光が斜めに差し込んでいる通路の先は壁で埋まっていた。
息も絶え絶えに周囲を探す。大人ふたりがすれ違える程度の道幅だ。左右の窓も扉も木材が打ち付けられて開かなくなっている。見上げれば空が見えるが、そこに延びる梯子はない。
「袋のネズミって、こういうこと……?」
「羽があればよかったですね」
「アドバイスありがとよ……ッ」
隠れる場所もない。ここは急いで戻るしかない。道半ばまで引き返したとき、通路の向こうから兵士の声と荒っぽい足音が聞こえてきた。すぐそこだ。十字路まで走れば顔合わせになる。
やっべ……と足を止めた。さすがに血の気が引く。
こうなりゃいよいよ魔法で空を飛ぶという人類の夢に挑戦するしかない、と決意を固めかけたとき、ぎい、と錆びついた蝶番が鳴った。
「騒がしいねえ」
板で封鎖されていたかと思っていた扉のひとつが、横にズレて開いていた。赤い髪を片方の肩にまとめて流し、こんな場末に似合わぬタイトなドレスを纏った女が、眠たげな目で俺を見ていた。
厚ぼったい唇に咥えていた煙草を吹かし、くい、と顎をしゃくった。
「ほら、おいで」
目を丸くして突っ立っている俺に、女は感情を見せるでもなく、「来るの? 来ないの?」と気だるげに言う。
俺は慌てて頷き、扉の中に入った。そこがどこで、この女がどんな人間かもわからないが、兵士よりはマシだろう、という気がした。
背後で蝶番が軋み、扉が閉じられ、視界は真っ暗になった。
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