第6話「ドレスの下からの脱出」
年ごろの女子のスカートの下に入れと言われて、従える人間がいるだろうか? そんなことを受け入れられるわけがない。
「早くなさって」
「は、はいっ」
ルスティカーナの言葉には不思議な力があった。人に指図して従えることに慣れた人間だけが身につける言葉の魔法とでも言うべきだろうか。
他に良い隠れ場所も逃げ場所もない。今にも誰かが来て俺を見つけてしまうという危機感が背中を蹴り飛ばしたこともあり、俺はその場にしゃがみ込んだ。
ルスティカーナが座る椅子には背もたれがなく、椅子そのものを覆い隠すように裾は広がっている。ルスティカーナは左側の裾を手早く手繰り寄せてまくり上げた。椅子の下の空間と、その奥に白いストッキングに包まれた細い足首が見えた。
「狭いですが、堪えてくださいね」
俺はできるだけ視線を真っ直ぐに向け、椅子の下に身体を押し込んだ。すぐに裾がおろされ、視界は真っ暗になった。
ルスティカーナとは十字に交わる形だから目の前には何もないが、それで落ち着けるわけない。変な緊張に襲われている。
できるだけ身体を小さくするために亀のように丸まっているとき、足音があっという間に近づいてきた。
「ルスティカーナさま! ああ、ご無事でいらっしゃいますね!」
なにやら香水のようなかぐわしさがたち込める暗闇の中で、俺は息を殺して耳を澄ませた。年配の女性の声に、ルスティカーナはドレスの下に男を匿っているとは思えぬ平然さで返事をする。
「まあ、ハリエット。淑女はいつも粛々としていなければならない、というのがあなたの口癖でしょう」
「それほどの非常事態なのですよ! そのお姿をこの目で確かめ、その声をこの耳に聞いてようやく落ち着けます!」
はあっ、と安堵するようなため息がすぐそばで聞こえた。
「ハリエットが少女のように駆ける姿が見られたのですから、その非常事態に感謝しなければいけませんね」
「笑い事ではございません! 侵入者があったのですよ、それもこの庭園のすぐそばだと言うのですから」
「侵入者、ですか。それは悪い方なのですか?」
「なんでも頭まで闇のように黒く、それは凶悪な顔だったとか。逃げ足は風のようで、兵は見失ったそうです。きっと魔族に違いありません」
「まあ、魔族?」
と、驚いた声音にはどこか弾むような雰囲気が混ざっている。
こいつ、絶対に楽しんでるな……。
「宮殿の兵が捜索にあたっておりますから、すぐに見つかるでしょうけれど……とにかく、ルスティカーナさまは今すぐにお部屋に」
それはやばい、と思わず声に出してしまった。
その瞬間、丸まっている俺の腕をルスティカーナの踵が小突いた。いてっ。
「いま、何か声が……?」
「お腹の音ですよ。夕食が待ち遠しくて」
「まあ! 食事に興味のないルスティカーナさまが! 喜ばしい! 量を増やすようにシェフによく言いつけましょう」
「……ええ、ありがとう。がんばって食べます」
ルスティカーナがちょっぴり不服そうな声で言った。ごめんって。
「申し訳ないのですけど、今から伝えてきていただいて良い? 夕食まで間もないから」
「それは構いませんが、お部屋に戻りませんと」
「私、もう少しここで風にあたっていたいの」
「危のうございます!」
「まあ、ハリエットは”宮廷魔法使い”さまを疑われるの?」
「お、お戯れを!」
ハリエットと呼ばれる年配の女性が、悲鳴にも近しい声をあげた。
どうやら宮廷魔法使いとやらはかなり怖いやつらしい。
「”宮廷魔法使い”さまがこの庭園に魔法をかけたのは知っているでしょう? 許されたものでなければ道は抜けられず、乗り越えることもできない。兵ですら入ってこれないのだから、部屋よりもここの方が安全です」
ハリエットはうめくように喉を鳴らした。
「ね、安全なこの場所から移動するほうがきっと危ない。じっとして動かない方がいいと思うの。代わりに、リリアナに私がここにいると伝えてくれる? あの人がそばにいてくれたら安心でしょう?」
「……分かりました。すぐに呼んで参りますから。決して庭園を出ないようになさってくださいまし!」
「約束する」
と、足音が遠ざかっていく。
それが聞こえなくなって、無音の間がいつまでも続くかと思われたころ、裾が上がって光が差し込んだ。
「もうよろしいですよ」
「……どうもお邪魔しました」
俺はもぞもぞと椅子の下から這い出した。なんとも言えない奇妙な体験をした。
暗かったことと、やたらに長い裾もあいまって、どうもこたつの中に潜り込んだような気分だけれども。
それでも知らず身体に力が入っていたのだろう。どっと疲れが肩に乗った。椅子の脇で腰をべったりとつけて体育座りをする。すぐに立ち上がる気力がない。
ルスティカーナはたおやかにドレスの裾をさばいて椅子から降りると、俺の正面にふわりとしゃがみ、膝に手を置いて小首をかしげた。
「お嫌でしたか? 申し訳ありません、ほかに案がなくて」
「いや、いや」
と俺は慌てて手を振った。
むしろお礼を言いたいほうで、と咄嗟に言いかけて、それはどうにも危うい意味を含んでしまいそうだと口を閉じた。
「匿ってくれて助かった。ルスティカーナがいなかったら、俺は今ごろ牢屋で冷たい床に転がってたかも」
「お役に立ててよかった」
精緻な美貌が微笑む。髪も肌も透けるように美しく、それゆえに青い目と桜色の唇が華やかに目を惹く。改めて相対すれば、圧倒的なまでの美に目を逸らしてしまいそうになった。
「ええと、そうだ、なにかお礼を……っても、いまは何もないんだっけ。ごめん、急に飛び出してきたもんだから」
ローブの懐やポケットを叩いてみる。財布もスマホもあるわけがないのだが、予想に反して硬い感触があって、俺はおやとポケットに手を入れた。
冷たい金属の感触を引っ張り出すと、それは銀のシガレットケースだった。
「……吸う?」
一応、訊いてみると、すごく困った顔をされてしまった。
「未成年に煙草をすすめるのはよくなかったよな、ごめん。海賊から貰った煙草しか持ってないんだ、俺……」
「かいぞく!」
「うわ、びっくりした」
急に声が跳ね上がった。
見れば、先ほどまで静謐とした空気を纏っていた少女の目が輝き、頬には赤みが差している。
「プロスペローさまは、海賊の方とお友達なのですか?」
ずい、と膝の上に身を乗り出している。
友達?
「友達といえば友達、だな、たぶん」
「では、海を見られたこともおありなのでしょうか!」
「見たことがあるっていうか、つい最近まで一緒に船に乗ってた、けど」
「––––!」
途端、ルスティカーナが両手で口を押さえた。目をまん丸にして俺を見る目線は、さながら大スターを目撃したかのようですらあった。
戸惑う俺などに構う様子もなく、ルスティカーナは膝を前につき、さらにずずいと身を乗り出す。
「海とは本当に果てどなく続いているのですか?」
「え、そ、そうだな」
「湖とは違うのですよね。水がしょっぱいとは、本当でしょうか」
「ものすごく塩っ辛い」
「海とはどんな谷よりも深く、その奥底には巨大な魔物が棲むというのも? お見かけになられたことはありますか?」
「いや、それは、ない」
ずい、ずずいずい、ずずずい。
ルスティカーナは床に手をつき、足を送り、どんどんと顔を寄せてくる。その迫力に思わず後ろに退くと、空いた分だけの距離を詰め、ほとんど四つん這いのようになっている。視線は決して俺から逸らさず、片手でドレスの裾を引く動きは見事なものだった。
あ、っと思った時には、追い詰められていた。
背中が柱にぶつかった。逃げ場がない。
ルスティカーナは止まらず、息がかかるほどにまで顔を近づけ、好奇心に輝く瞳で俺を射抜いた。
「海とは、どんな色をしているのでしょうか」
どんな色、と聞かれ、こんな状況であっても意識はあっという間に記憶に潜る。ハニーゴールドとの船旅の中で、さまざまな海を見た。夜に沈み何かが迫り来るような暗い海、朝焼けに輝く真白い海、それから、晴天の空にどこまでも伸びるあの色はまるで、
「––––きみの瞳の色と同じ色をしてたな」
そこにあの海を見つけたような気がした。
ルスティカーナはきょとんと動きを止めたかと思うと、ふと冷静さを取り戻したらしい。秋の夕暮れと同じくらいに鮮やかに顔を染めた。
あわ、と口を波打たせて、あまりにも俊敏に、それでいてあくまでも優雅に身体を引き離した。
「ご、ごめんなさい! はしたないことを! あの、う、海が! 憧れておりまして! ハリエットにもよく注意をされるのですが、あ、悪癖で!」
先ほどまでの楚々とした雰囲気が一変して解け、背筋をぴんと伸ばしながらも必死に釈明する姿には、年相応の少女然とした華やかさと可愛らしさがあった。
「海を見たことがないって?」
「は、はい。お話には聞いたことがあります。吟遊詩人の方や、旅の芸団の方が、それは美しい場所だ、と。物語も……とくに、海を冒険する方々のお話が、好き、です……」
最後のほうにはごにょごにょと言葉が小さくなり、顔はうつむいてしまった。真白い髪がカーテンのように視線を遮るが、その隙間から見える首筋には赤みが残っている。
その姿が微笑ましく、俺は少し笑いながら言う。
「そんなに好きなら見にいけばいいのに」
「……いつかは、そうできたら、と願っております」
向けられた顔に、自分の言葉が無神経だったと気付かされる。出会ったときと同じように取り繕った笑みは仮面のようで、ほんの一瞬だけ触れられた彼女の本心を覆い隠してしまった。
「ごめんなさい、お引き止めしてしまいました。ハリエットがすぐに人を差し向けます。どうぞ、お逃げになられて。プロスペローさまはなにか、不思議な翼をお持ちなのでしょう?」
間違った言葉を選んだことが分かっても、その訂正をするには時間がなかった。ルスティカーナの言うとおり、今にも誰かがやってくるだろう。またスカートの中に隠れるわけにもいかない。
立ち上がったルスティカーナに合わせて、俺も腰を上げた。
相対していくらか言葉を探すが、別れを惜しむには深めた仲が浅く、ただ去るには心残りが深い。ではまたと再会の約束をするのもためらわれる。
ルスティカーナは両手で左右のドレスの裾を持ち上げると、片足を引いて膝を落とすようにして優雅な一礼をした。
「どこかでまたお会いできる縁が紡がれていることを願っております」
過不足のない見事な別れの言葉だった。
俺はそれに相応しい返事を持ち合わせていなかった。誤魔化すように後ろ頭をかき、ひとつきり頷いて踵を返した。
来た道を帰るにはまたあの迷路を抜けねばならない。ハリエットがやってきた奥の方へと進んでみる。
東屋を抜け出ると暖かいほどに眩しい日差しに目が眩んだ。光が敷き詰められたかのように磨き抜かれた石畳を進み、ふと振り返ると、東屋の陰の中にルスティカーナが見送ってくれている。
俺は片手を上げ、
「ありがとな」
と声を投げた。
ルスティカーナは胸元で小さく手を振り返してくれた。
俺は手を下ろし、なにも掴めぬままに軽く握り、正面に向き直って駆け出した。
植え込みを曲がると、この道の先も入り組んだ迷路に繋がっている。だが植え込みの端にガラス張りの小さな温室を見つけた。曇りガラスの向こうに鮮明に咲く花々と緑が透けている。もちろん、扉があった。
と、通路の正面の迷路から小走りに駆けてくる足音が聞こえる。金属が擦れるような音も。その姿が見える寸前に、俺は体当たりをするようにして温室の扉を押し開いた。
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