第5話「渡り鳥との出会い」
見つめ合うと言葉は止まる。何かを言うべきではあったが、その瞳の湖のような美しさに、俺は息を呑むばかりだった。
エアリアルは人間離れした作り物めいた美しさがあるが、その姿は小さな人形のようで、違和感を感じることはない。人形の造形が美しいのは当然だからだ。
しかし目の前にいるのは、紛れもなく人間の少女だった。だと言うのに、その容貌は一点の瑕疵もなく整っていて、圧倒的な美を前にした人間が得てしてそうなるように、俺もまた口を開けて呆然と見惚れていた。自分が圧倒的な不審者だということも忘れて。
少女はまだ夢見心地なのか、まぶたに力は入っておらず、眠たげな柔らかさを目尻に残している。でなければ早々に悲鳴を上げられていたに違いない。
俺の顔と、俺が花びらを摘むために差し出したまま固まってしまった手をぼんやりと眺めながら、少女はもそりと身体を起こした。頬や髪の上で羽を休めていた花々がふわりと舞い落ちて、床に広がる真っ白なドレスに点描の色彩を生んだ。
寝起きにも関わらず、少女はぴしっと背筋を伸ばし、膝の上に両手を重ねた。マナーに詳しくない俺が見ても、一目でこれが正しいのだと分かるような、洗練された空気がある。
少女はぱちぱちとまばたきをして、差し出されている俺の手を確かめると、その開かれた親指とそれ以外の指たちの合間に、真白い手袋に覆われた細指を揃えて、すっと差し込んだのである。
「えっ」
「?」
ひんやりと冷たく、柔らかい手だった。
「––––いや、なんでだよ。不審者に手を差し出すな」
「……不審者、なのですか?」
きょとんと首を傾げて見上げられる。
「どう見ても不審者だろ、俺」
「どこがでしょうか」
「どこがって……知り合いじゃないだろ」
「知らぬ相手はたくさんおります」
「急に現れたろ」
「私が眠っていたせいです」
「えーと、ほら、これ! 黒い髪に真っ黒のローブ! 黒づくめで怪しいだろ!」
「……?」
俺がローブを引っ張って主張すると、少女はふむと頷いたかと思うと、自分のドレスの裾をちょこんと摘んで示し、頭をかすかに振るった。白い絹かのように光沢の美しい長い髪が揺れる。
「でしたら私は白づくめで怪しいですね」
微笑まれた。
俺はぽかんと口を開けて呆けてしまう。
話が通じないというわけではない。しかし俺が何を言ってもひらひらと風を孕んだカーテンのように受け流される奇妙な感覚だ。
常識離れしているというべきか悩むが、ズレているというより、器が大きいという印象を強く感じる。俺が気にするような小さなことに頓着しないのだ、この子。何でか知らんが手を握ったままだし。
離すべきなのか、離すとそれはそれで失礼じゃないのか、俺の方が混乱しているせいで決めることもできず、俺は真っ白な少女の手を支えたまま身動きが取れない。いい歳したおっさんが何をやってるんだろう……。
動きを止めた俺を、少女はただ見上げている。
「なさらないのですか?」
「え、何を?」
「挨拶をされる方はみな手の甲に接吻をなさいます」
「はい?」
またまたご冗談を、と苦笑して見返すが、少女はしっかり真顔だった。ふざけている様子もなく、本心でそう言っているらしい。
「……みんな、手の甲に?」
「はい。もしや、他に正しいやり方があるのでしょうか。存じ上げなくて」
わずかに目を伏せ、自らの無知を恥じるような仕草。
俺は慌てて頷いた。
「合ってる! たぶん合ってる! 俺のほうが悪い!」
少女の言う、手の甲にキスという挨拶を思い浮かべる。自分に関わる記憶は曖昧でも、こういう時にはふとイメージが出てくるのが不思議だ。
大昔のヨーロッパ風の格好をした男女がいる。男が地面に跪き、女は少し偉そうに手の甲を差し出す。男は恭しくその手を取って口づける……それが一体どんな意味と理由を持つのかは分からないが、そういう文化があることは知っていた。
そのイメージが正解なのかはわからないが、他に参考にできるものもない。俺はぎこちなくその場に膝をついてみた。視線が下がり、少女と距離が近くなる。
何だってこんなことを……と照れが勝るが、相対する少女は涼やかに平然としている。
相手が当たり前だと構えている所作で俺だけがやたらに戸惑っているのも間抜けに思えて、俺はええい、とひと思いに少女の手に唇を寄せて、記憶の朧げなイメージだけを頼りに口付けた。絹のすべやかな手袋越しに、柔らかい人肌の感触が唇に触れた。
「ひゃっ」
「えっ」
急に手を引っこ抜かれた。動揺した小さな悲鳴が響く。少女のものと、俺のものである。
見やれば、少女が手を胸にかき抱き、ぎゅっと握りしめていた。その頬が花びらと同じように色づいている。白い肌にその色合いはよく目立った。
逆に俺のほうは血の気が引いて青くなっているに違いないのだけれども
「……悪い、何か間違えて、ました?」
思わず敬語の俺である。なにしろこれ、立派なセクハラだ。
「……取り乱して申し訳ありません。ほんの少しだけ、あの、情熱的だったものですから」
「情熱的? ……あっ」
そういうものだと思い込んでいたのと、緊張も相まって、俺は思い切り唇を当ててしまったのだ。挨拶というくらいなのだから、もっと軽く、触れるくらいにするのがマナーだったのかもしれない。
「ええと、すみません」
「いえ、こちらこそ」
ふたりして頭を下げあう。やっちまった、と思いながら、様子をうかがうようにおずおずと顔をあげると、少女と目があった。どうやら向こうもそう感じていたらしい。そして少女もまた、俺が同じ思いでいることを察したし、お互いに察したこともまた、俺たちは理解していた。
東屋を囲う陽の光は鮮やかに白く、青い陰に埋まっている東屋の中でふたりしてちぐはぐなことをしている。それを出会ったばかりの相手と共有していることがささやかにおかしく思えて、俺たちはほとんど同時に笑い合っていた。
「悪い。慣れてないんだ。というか、初めてやった」
「日ごろはどのようなご挨拶をなさっているのですか? 私はこれしか知りません」
「ええと、そうだな」
他の挨拶といっても、言葉を交わして会釈するくらいしか……と思い直し、俺は右手を差し出した。もちろん手の甲を上にするのではない。
「握手かな」
まあ、となぜか少女は目を輝かせた。
「男性の皆さまがしてらっしゃいますね。私がしてもよいものでしょうか」
「いいんじゃないか? 怒る人もいないし」
「では、ぜひ」
やけにわくわくとした好奇心を瞳に閉じこめて、少女はおずおずと俺の手を握った。いや、握るというより、添えたくらいのもので、力はまったくこもっていなかった。
唇を押し付けてしまった俺とはまた別の不慣れさを感じる。不慣れだからこそ力をこめないというあたりに、俺とは違った奥ゆかしい品の良さを感じた。
「俺はプロスペローだ。よろしく」
「プロスペロー、さま?」
少女はわずかな間に瞳を揺らしたが、すぐに目を細め、ゆっくりと頷いた。その動作は外見に似合わず落ちついていた。人と触れあうことに余裕を持っているのは、そこに俺とは比べられないほどの慣れがあるからかもしれない。
「お目にかかれて光栄です。私はルスティカーナと申します」
「お姫さまみたいな名前だ」
「古い言葉で素朴を意味するんですよ。名は体を表すと言うでしょう?」
冗談めいて笑う少女に、俺もつられて笑みが浮かんだ。ルスティカーナの外見はどうみても素朴ではないが、そうした物言いが互いの距離感を近づけるようである。
そのとき、植え込みの向こうから人が走る物音と、男たちの声がした。すぐそこまで追っ手が迫っている。
ああ、やばい、どうするかな。
離してしまった手の置き場と、少しの名残惜しさを感じてしまったことを誤魔化すために、わざとらしく頭など掻く。
「追われているのですね」
「ちょっと誤解があってさ。本当に不審者じゃないんだ。信用できないかもしれないけど」
俺は膝をついたままである。両手を挙げて無抵抗を示してみる。
ルスティカーナは怪しむでもなく、穏やかな目で俺を見ている。
「私の命をお求めではないのですか?」
「とんでもない!」
俺はぶんぶんと首を左右に振った。そんな物騒な。
冗談かとも思ったが、ルスティカーナはときどき幼子がそうするように、やや首をかしげてただ不思議そうな目を向けている。
「では、連れ去りに? それとも呪いを?」
「んな悪魔じゃあるまいし。俺はただ道に迷っただけなんだけど」
戸惑いながらも答える。ルスティカーナは目をぱちくりとさせた。
「ただ道に迷われただけ、ですか」
「そうなんだよ。たぶんこの辺りって立ち入り禁止だろ? うっかり入ったところを兵士に見つかってさ、逃げてたらここに迷い込んじゃって」
「うっかり?」
「うっかり」
俺とルスティカーナは顔を見合わせたまま動きを止めた。植え込みのあちこちで鎧が慌ててこすれるような音がする。
あは、と。
ルスティカーナが耐えかねたように笑った。
これまでの笑いは、彫像のように意図して整えられた愛想笑いだったのだと、いま気づいた。
あまりの純白さのためにどこか浮世離れして感じられた雰囲気が途端に華やかに色づいた。目の前で色彩が弾けるように視界が明るくなったような錯覚。そんな経験が本当にあることに、俺は驚く。
ルスティカーナは口元に指を当て、眩しいものを前にしたみたいに目を細めた。その視線がどうしてか俺の首筋の後ろをぴりぴりとさせる。
「うっかりで、この”
「褒められてる?」
「もちろんです。プロスペローさまは渡り鳥のような翼をお持ちなのですね」
ルスティカーナは近づいてくる物音に目を向けた。
「先ほどまで人払いをしていましたが、すぐに集まりましょう。うっかりなのでしたら、どうぞ今のうちにお立ち去りください」
「ぜひそうしたいんだけども……」
俺は周囲を見回した。手入れの行き届いた植え込みと花壇に囲まれた東屋は見惚れるほど美しい場所だったが、扉がひとつも見当たらない。扉さえあればそれこそ渡り鳥も真っ青になるくらいどこにだって行けるのだが。
「なにか事情がおありなのですね」
ルスティカーナは察した様子で頷いた。身を乗り出すように顔を寄せて、内緒話のように小声で訊いた。
「捕まると、お困りでしょうね?」
「はい、お困りです」
俺は素直に頷いた。
走って逃げ出せばどこかで扉を見つけられるかもしれないが、土地勘もないうえに、どうやら周囲はもう兵士で囲まれているようだ。明らかに立ち入り禁止の場所にいる不審者に対して、丁重なおもてなしは期待できまい。
「ルスティカーナさま!」
と、俺が来た道とは逆のほうから女性の声が響いた。姿は見えていないが遠くはなく、その声には焦りがある。
すぐにここにやってくる、と俺が慌てて立ちあがろうとしたとき、ルスティカーナが素早く俺の腕を制した。
「プロスペローさま、私のトレーンの中へお隠れになってください」
「と、トレーン?」
言葉を知らず訊き返した俺に、ルスティカーナは真剣な表情で、周囲に広がっているやたらに長いドレスの裾を摘んでみせたのである。
「––––マジ?」
そこ、トレーンって言うんだ……。
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