第31話「嵐のち晴れ」


 静けさがあった。あれほど強かった潮の香りがなくなって、湿気たカビの臭いがこもっていた。水平線に顔を出した見惚れるような朝陽も、抜けるような青空も、ここにはない。小さな箱のような石造りの部屋に俺は戻ってきた。


 長い旅行から帰ってきたような余韻があった。けれど、ああ我が家はやっぱり落ち着くなとも思えず、身体はここにあれど、心だけがまだ海の上に取り残されているような気がした。


「戻ってもよいのでは?」


 光の粉を舞わせてエアリアルが姿を見せた。まるで俺の心を読んだかのような物言いに、思わず苦笑が漏れた。


「いや、良いんだよ。今から戻ったらなんか間抜けだろ」

「そうですか……」


 いつもの無表情ながら、エアリアルの眉尻がほんの少しだけ下がっている。そんな小さなことに気づけるくらいには、この妖精のことも見慣れてきたようだ。


「残念そうだな。お前、もっと向こうにいたかったんだろ」

「そんなことはありません。くだらない憶測です」


 つい、とエアリアルは顔を背けた。たまには分かりやすい反応もするらしい。

 名残惜しい気持ちは俺もあるが、別れてすぐに船に戻るのも間が悪い。それに、探していたあの少女は別の扉の先に行ってしまったのだ。これ以上、海の果てまで冒険したって見つかりはしないだろう。


 自分を納得させるように言い聞かせながら、俺は扉を閉めた。扉の枠からは白い光が漏れていたが、それも残照のようにうっすらと消えてしまうと、部屋は寒々として寂びしいだけの場所になってしまった。


 残り惜しい気持ちに扉をひとつ撫でた。踵を返し、階段を上がっていく。

 わずかな時間しかいなかったはずなのに、塔の中を懐かしいと感じるのがおかしかった。緊張が抜けつつあった。曲線状の廊下を歩きながら、手に取れるほど色の濃い眠気がだんだんと身体を重くしつつある。


「一階にベッドってある?」

「ございません。寝室は最上階です」

「ここ、階段崩れてるよな? どうやって戻ったらいいんだ?」

「どうして人間には羽がないのでしょう。不便ですね」


 エアリアルが見せつけるように宙をくるんと回った。まさか人生で妖精に羽マウントを取られる日がくるとは想像したこともなかったな……。


 なんだか妙におかしくて、俺は笑う。わけが分からない世界で、見覚えもない塔の中を歩きながら、見たこともない妖精と会話をしている。

 あれほど混乱して喚いてはずのそれらを、今はただ面白いと楽しんでいる自分がいて、それがまたおかしく思えた。


 ずっと抱えていたものがあった気がする。自分の中に溜まって、膨れ上がって、息苦しいほどに澱んでいた。どこかに逃げ出すこともできず、誰かの言うように容易く解消することも難しい。そんな感情とずっと生きていかなきゃいけないのだ思っていた。

 けれど、いまは清々しかった。もう何年も、もしかしたら十何年も忘れていたような気安い心で、俺は塔を歩く。足取りは軽く、視界は鮮明だった。


 自分はなんだってできる。そして、いつだってそうしていい。

 ずっと忘れていたのは、子どものころに持っていた感情のような気がした。

 どこまでもいける、いつまでも夢中になれる、やりたいことは何でもやる……いつからそれを自分で押さえ込んでしまったのだろう。あの日々は、それこそ魔法のように可能性に満ちていたのに。


 廊下の窓から外を見れば、白い雪が降り積もっている。いつまでも雪風が吹き付け、この場所を埋めている。その景色に息苦しさを覚えた。

 眠気はますます強くなっている。しかしこの雪に埋もれた一階で安眠できるのかは不安だった。閉塞感というか、押し潰されそうな気持ちがする。でも上に戻る方法がない。


 と考えて、俺はふと良いことを思いついた。

 廊下にはいくつもの扉が並んでいる。もっと大きな窓から、広い景色を眺めたいんだよな、あの部屋みたいに––––想像しながら手近な扉を開くと、


「……できた」


 そこには白い膜がある。もはや慣れたもので、恐れもなく身体を押し込むと、ふかふかの絨毯を踏んだ。この塔に来て早々に、黒山羊の角を生やした男と出会った客間だった。暖炉には変わらず赤い火が盛り、中心には火に炙られながら蜥蜴がくつろいでいる。


「俺は、どこでもドアを手に入れた」


 子どものころに抱いた夢が不意に叶ったのだ。思わず感動に打ち震え、ちょっと泣きそうになった。


「……さすがです」

「なんでちょっと残念そうなんだよ」


 ため息をつきながらエアリアルが俺の肩に座る。

 俺は窓を押し開けた。冷気が一気に流れ込んで、頬が針の束で刺されたようにチクチクした。見晴らしの良い景色を期待していたが、塔を囲むように吹き荒ぶ雪嵐のせいで、景色は真っ白だった。


「ひゃああ、冷てえ」

「人間は変な生き物ですが、あなたはその中でも特に変です」


 見れば、エアリアルの身体を包むように透明な蒼い膜のようなものができている。寒さから身を守っているらしい。


「便利そうだな、それ」


 つんつんしてみると、風船のような弾力があって楽しい。


「つつくのはやめて下さい。その身体には魔力があるのですから干渉されます。やめて下さい。ちょっと……もう!」

「いて!」


 エアリアルが指を振ると、見えない塊が額を弾いた。ひりひりする。


「悪かったって」


 謝るのだが、エアリアルはツンと顔を背けた。妖精と言えど女の子に変わりはなく、女の子の機嫌を損ねるのはいつだって男の無神経な行動が原因だ。


「機嫌直してくれよ。なんでもするから」

「……なんでも、と言いましたね?」


 エアリアルが横目で俺を見上げた。


「できることなら、なんでもする」

「––––スープ」

「スープ?」

「またあの温かいスープを、飲んであげてもかまいません」


 俺は吹き出してしまうのを堪えた。お姫さまのようにずいぶんと偉そうなお願いだ。けれど自分の作った料理を気に入ってくれたのだ。悪い気はしない。


「機嫌を直してくれるか?」

「まだ分かりません。妖精は気分屋なので」

「それは困ったな。よし、スープよりも美味いものも作ってやろう」

「スープよりも美味しいもの」


 エアリアルが目が丸くして俺を見た。自分の反応を恥じるようにすぐにまた逸らされてしまったが、その尖った耳がほんの少しだけ色づいているのは、寒さのせいではないだろう。


「……仮にそんなものがあるなら、機嫌も直るかもしれません。可能性の話ですが」

「それなら試してみる価値はあるな」


 俺は堪えきれずに笑った。エアリアルが雪よりも冷たい目で俺を睨みつけるが、恐ろしさはもちろん感じなかった。

 窓枠に肘を乗せてもたれかかる。どこかも知れない世界の果てのような塔の最上階で、妖精と他愛もない会話をしている、悪い魔法使いになった自分。まったくヘンテコな状況なのに、それも悪くないと思える。


「なあ、エアリアル」

「なんですか、人間」

「ちょっと呼び方に愛想がないな。まあいいや––––ありがとな」


 返事がない。見ると、きょとんとした顔でエアリアルが俺を見つめていた。初めて聞いた異国の言葉の意味を測りかねているみたいに。


「さっぱり訳のわからない状況ばっかりだったけど、お前のおかげで助かった。感謝してる」

「……使い魔に礼を言う魔法使いなど聞いたことがありません」

「俺とお前は対等な契約者、だろ? 改めてよろしく頼む。これからも俺を助けてくれ。お前がいてくれないとやっていけない」


 肩に乗っている相手にやるには不格好だが、俺はぺこりと頭を下げた。

 返事がないので不安になって、ちらっと様子を見てみる。


「……」


 エアリアルは笑っていた。人形のように端正ながら、どこか作り物めいた冷たさを感じさせる顔に、今ばかりは春の陽だまりのような温もりのある微笑みが浮かんでいた。


「––––仕方のない人間ですね。あなたは目を離すとすぐにくたばってしまいそうですから、優秀で慈悲にあふれた私がお世話してあげます。くれぐれも感謝を忘れないように」

「……へいへい」

「返事に敬意が感じられません」

「はい。ありがとうございます。幸せです」

「よろしい」


 ふふん、と自慢げに背筋を伸ばすエアリアルにバレないように、俺はこっそりと笑う。

 元の世界に戻るための手がかりも失ってしまったが、エアリアルがいるなら、まあなんとかなるだろう。そう楽観できた。


 ふと雪嵐の勢いが弱まった。日差しが差し込み、俺たちを柔らかく照らした。雪の隙間から澄んだ青空が覗く。

 見る間に雪雲は晴れて、眼下に広がる壮大な山嶺が見下ろせた。それはまるで俺とエアリアルの前途を祝福するかのような––––うん?


「なあ、エアリアル。俺の見間違いか? あそこ、なんかさ、軍隊が来てる? 夢だよな?」

「襲撃者かもしれませんね。以前もたまにありました」

「遠方の親戚が訪ねてきたくらいの気安い返事をありがとよ。なんでこの塔が狙われてるんだ?」

「プロスペローさまはそれは名高い悪の魔法使いですので。悪き者を滅すれば善行とされるのがこの世の習わし。悪いやつはいつだって標的にされるということです」


 エアリアルの分かりやすい解説に、俺はがっくりと肩を落とした。

 どうしろっていうんだよ、この状況。

 まったく解決策も思いつかない。叫びたくなるような状況だ。しかしそこで、ふとハニーゴールドの顔が思い浮かんだ。

 男は笑ってこそ。それを体現していた男の姿を、俺も見習おう。


「フッ、面白え」

「……その気持ち悪い笑み、大変良いと思います。悪役らしくて」

「格好つけようとしてんだよ!」


 指摘されると気になってもう笑えない。俺は繊細なんだ。頬をぐにぐにと揉んでほぐす。

 眼下に広がる山麓に、黒く集う群れがある。そう遠からずここにやってくるだろうが、まだ時間はある。


「どうしますか?」

「もちろんもてなしてやるさ」

「今のは良い台詞でした」

「そうだろ。俺も気に入った。あとでメモしておこう」

「お世辞です。それでまずなにを?」


 どこか弾んだ声でエアリアルが言う。こいつ、新しい問題にわくわくしてないか?

 だが俺はもう限界だった。


「ひとまず、寝る」

「寝るのですか」

「眠いからな。睡眠は大事だ」

「寝て起きたら囲まれているかもしれませんが」

「なんとかなるだろ。俺とお前がいるんだから」

「……そうですね。あなたはともかく、私がいますので」

「頼りにしてるよ、相棒」


 胸を張る妖精に苦笑をこぼして、俺は窓を閉めた。

 まあ、なんとかなるさ。どこだって、なんだって。楽観的にそう信じることができるようになった自分にちょっとした驚きを感じながら、俺はあくびをして窓を閉じた。

 


 

 第一章 おわり

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