第30話「嵐」
扉を抜けて目を開けると、そこはまたしても船の上だった。ただ、今度は見知った顔がある。俺は片手をあげて挨拶した。
「よお、遅れたか?」
ハニーゴールドが––––少年でなく、すっかり老けた渋い男が、驚いたように目を丸くしていた。その表情が何だか面白く、俺はにやりと笑ってみせる。
「お前は、まったく、どうなってんだ?」
「どこでもドアが得意なんだ」
「何を言ってるのか分からねえが……とにかく助かった。なあ魔法使い、風を起こせるか?」
再会の挨拶も済まさないうちに、ハニーゴールドが空を指差して言った。
「また無茶振りかよ」
「風がなきゃ、船は動かない」
ハニーゴールドが両手を挙げて降参とでも言いたげなポーズをした。言われてみれば、海の上だというのにちっとも風が吹いていない。普通は波で揺れているはずの船上なのに、まるで陸の上に立っているのようだった。
「この船の周囲だけ風を止めているようですね」
姿の見えぬエアリアルがそっと耳元で囁いた。
「昼間の、あの魔法使いか?」
「だろうな。海軍船までやって来てやがる」
俺の呟きに答えたのはハニーゴールドだった。親指で指された方を見やれば、暗い海の中に浮かぶ灯りが船のものだと分かる。
「……七隻?」
「海賊にも海軍にも嫌われてるんだ。カシラは海賊らしくない海賊だからな」
舵輪手の男が真顔で言った。
海賊らしくない海賊。その言葉が耳に残った。
ハニーゴールドを見る。皺が増え、無精髭を生やし、身長なんかは俺よりもでかい。けれど目元にも、雰囲気にも、たしかにあの少年と同じものを感じた。
「なんだよ、そんな熱っぽい視線で見たってベッドは別だぞ」
「ちょっと見ない間に大きくなったなあ」
「はあ?」
訝しそうに見られたが、俺の気持ちは高揚していた。時間と場所が入り乱れた奇妙な体験に思わず笑いが込み上げた。
「すげえよな、あんなことが起きるんだ、そりゃ俺にだって魔法くらい使えるよな。魔法使いなんだから」
「おい、どうした? 大丈夫か? 何かやったか?」
いつだって余裕を崩さないハニーゴールドが、今ばかりは心配そうに俺の顔を覗き込んでいる。それもまた何だか面白くて、俺は肩を振るわせた。
「大丈夫だ。ええと、なんだっけ、風か。よし、風だな」
俺は両手を広げた。その格好に別に意味はない。ただ、船で風を感じるといえば、このポーズだという気がしたのだ。古い映画で観たような気がする。
風を吹かせる。
どうやって?
吹くと信じれば、それで吹くはずだ。
なにしろこの世界はそうできてる。扉を抜ければ別の次元に繋がるような世界だ。だったら、風ひとつ起こすくらい、大したことじゃない。
全身の毛が逆立つような奇妙な感覚があった。熱く、重く、じっとりとした赤い空気がこの船の周りを覆っている。それを押し流すように手を動かした。
ひとつの風が吹く。
波が起きる。
船が揺れる。
帆が膨らんだ。
「カシラ! 風だ!」
「野郎ども! 備えろ! 出航だ!」
男たちの歓声が聞こえた。俺は風を捕まえた感覚をそのままに、さらに引っ張る。背中をどんと押される感覚。ローブがばさばさと揺れるほどの風だ。
重たげに動き出した船はぐんと速度を上げる。固まった海を砕くように顎をしゃくりあげ、上下に弾むように動き出す。
その時だった。
夜の海に赤い火が見えた。正面にも、左右にも。爆発音が遅れて届く。砲撃音は土砂降りの雨のように連発した。
視界にこびりついている光景がある。
たった今、見てきた。物のように転がる人間だったものと、雨に流される血の溜まりと。
ふと、胸の奥をついて出てくるような感覚があった。
俺はずっと良い人でいたかった。誰かに遠慮し、自分を押し殺し、誰かを傷つけないようにと生きていた。そうすれば他の人も同じように遠慮し、配慮し、誰かに傷つけられずに生きていけると思い込んでいたから。
けれど、それは違った。
この世界にはどうやら、どうしようもなく悪人がいる。自分のために誰かを傷つけることにためらいがない人間がいる。悪だろうと構わないと、欲求のために他人を蹴落とす人間がいる。
この訳のわからない世界で、人は人を殺すことを選ぶ。船を沈めるために、砲弾を打ち込む。何発でも。この気持ちのいい男を、あの日に出会った少年を、どこのどいつとも知れない奴らが、殺そうとしている。
「カシラ! 当たります! 砲弾、数え切れません!」
「避けろぉ!」
騒ぐ男たちの中で、俺はどうしてか定まった心をしている。
自分が自分でないような感覚がある。
時間が緩やかに捩れ、色は混ざり合って灰色となる。世界はこんなにも曖昧だ。
「プロスペローさま」
耳元に囁く声が、やけに透き通って聞こえた。
「私は風の妖精、あなたは嵐の魔法使い」
闇の夜を裂くように無数の砲弾が飛んでくる。
「あなたがそう望むのであれば、私は嵐を呼びましょう」
エアリアルが手を伸ばす。その動きに重ねるように、俺は手を上げる。
誰かが俺の大切なものを傷つけるのであれば。俺だけが良い人である必要はない。
誰かが俺の大切なものに悪意を向けるのであれば。俺だけが善意を持つ必要はない。
どうして気づかなかったんだろう? 簡単なことなのに。
ふっと笑いが込み上げて、ためらう覚悟は無くなった。ずっと堰き止めていたものが流れ込むのを感じた。
俺は指をさす。
砲弾をひとつ、ふたつ、みっつ、たくさん。
エアリアルが俺の周りをくるくると回る。風が巻き上がり旋風となる。飛んでくる砲弾は風に捕まる。
「カシラ! た、弾がぜんぶ止まってます! ど、どうなってんだこれ!」
撃ってきたなら、撃ち返される覚悟もあるよな––––?
エアリアルの見様見真似で、俺は指を振った。空中に止まっていた砲弾はハンマーで叩かれたように打ち出された。昼の海で意図せずしてしまったことを、今度は自分の意思で再現する。
砲弾は四方八方の夜に飲み込まれて消えていく。遠くで何かが砕ける盛大な音が聞こえたが、見るまでもない。
エアリアルは光の塵を引きながら周囲を回る。輪はだんだんと広がり、船を囲うように回り出している。船員たちが輝く光輪を唖然と見上げている。
「なあ、ハニーゴールド。夢をまだ憶えてるか?」
俺が問いかけると、ハニーゴールドは一瞬だけ呆けて、ニッと笑った。その笑みはあの少年の名残りそのままだった。
「––––もちろんだ。俺は行くぞ、海の果てに」
「だったらこんなところ、さっさと抜けちまおう」
俺も笑い返して、手を振り下ろした。
突風が吹く。海から巻き上げた夜の水が船の周囲を囲う。どこかで雷鳴が響き、ぽつぽつと床を濡らし始めた水滴はあっという間に猛烈な雨に変わった。
「あ、嵐が来やがった!」
水夫たちが騒ぐ。海が荒れ、船が揺れる。
船が高波に持ち上げられ、帆が嵐を掴み、ふっと身体が軽くなった。中空に跳ねた船は波を失っても落ちることなく前に進む。俺たちは海を、いくつもの船を見下ろしていた。
「カシラ! カシラ! 俺たち浮いてます! いや、これもう飛んでるぅぅ!?」
「最高じゃねえか!」
ハニーゴールドの笑い声が高らかに響いている。戸惑っていた船員たちも、やがてつられたように笑い出した。肩を組んで歌いだす奴らもいる。誰も彼もがびしょ濡れだ。
砲撃音がした。けれど砲弾は風の壁にさらわれてあらぬ方に吹き飛んでいく。
眼下に海軍の船が見えた。嵐の海に翻弄されている七隻の頭上を、俺たちは飛び越えていく。船員たちの歓声が夜の海に響いた。それはきっとよく聞こえたことだろう。
嵐と共に船は進む。海の果ての水平線が白んでいた。それはみるみる内に鮮やかになって、朝陽が顔を見せ始める。
ずいぶんと遠くまで進んだような気がして、俺は風を弱めた。船はゆっくりと高度を下げ、緩く海に着水する。暗雲と雨を脱ぎ捨てるように置き去りにして、船は晴れた朝の海に乗り出した。
雨は止まり、俺たちは濡れそぼったままだ。嵐の過ぎた静けさを感じながら並んで朝陽を眺めていたが、ハニーゴールドが俺の肩を叩いた。
「あんたにはあの日、命を助けられた。今日はうちの仲間たちもだ。礼をさせてくれ。今なら金もある」
「いらないって。使い道も分からないし」
「無欲なやつだな。俺の命は煙草以下か?」
「そんな顔するなよ」
苦笑して、俺はローブのポケットからシガレットケースを取り出した。飯を食った時にハニーゴールドから受け取ったものだ。俺に渡したきり忘れていたわけではなく、俺に礼としてくれたものなのだろう。俺が知らぬ間に、ハニーゴールドは律儀に約束を守っていたらしい。
「これで十分。それにあんたが立派な海賊になったのも確かめた」
「……お前は変な魔法使いだな。よし、わかった。だったらもうなにも言わない。その代わり、一本くれ」
朝陽に照らされた渋い男のウインクをくらって、俺は不覚にも見惚れそうになった。これだからイケメンは嫌なんだ。
俺はシガレットケースを開け、煙草を渡した。自分もひとつ手にとる。指先に火を灯し、二人で先端に吸いつけた。
波のひとつひとつに朝陽が反射し、光が千の粒に砕けて散っていた。海の先の先まで、島の影ひとつ見えず、世界はどこまででも繋がっているように思えた。
二人して煙草の煙を吐いていると、船室の扉が開いて、船員がひとりの男を引っ張ってくる。
「カシラ、さっきからこいつがやかましくて」
「あれ、リチャード?」
そこにいたのは船室で監禁されていたときに話したクマ顔の商人だ。
「なんでそいつが残ってる? 人質は全員、島に下ろせと言ったろ」
「それがどうも隠れていたようで」
「実はあなたを勧誘したんです!」
とリチャードが前に出た。
「いや、窓から見ておりました! 海軍やら海賊に囲まれたときはもうだめかと思いましたが、空を飛んで抜け出すとは! あなたには運がある! 実力もある! 素晴らしい船と船員です!」
短い腕を振るって熱弁するリチャードを、ハニーゴールドは興味深そうに見つめていた。
「当商会は新しい航路を開拓するべく、長らく腕利きの船乗りを探していたのです! 勇猛かつ律儀で信頼のおける船長など夢物語かと半ば諦めていたのですが……ついに見つけた! どうでしょうか、僕と一緒に冒険商人となりませんか!」
ハニーゴールドは肩を揺らすように笑い出した。
「海賊の次は冒険商人か、面白い。どうせこの海からはおさらばだ。やってもいいが、条件がある」
待ち構えるリチャードに、ハニーゴールドは言う。
「航路は海の果てまで伸ばすぞ。着いて来れるか?」
「それこそが望むところです!」
ハニーゴールドとリチャードが握手をする。やれやれ、羨ましいことで、と俺は苦笑した。
「お前もくるか、魔法使い」
「せっかくだけど、遠慮しておくよ。俺には荷が重い」
海の果てまで大冒険。少年の心をくすぐる言葉だったが、俺にはそこまでの熱意がないことは明らかだった。
果てしない海の先まで続く情熱を持った男たちに、憧憬を抱くのが精一杯だ。
「だったら、また会いに来てくれ。お前にはどこでもドアとやらがあるんだろう?」
「そうするよ。たまに遊びにくるのがちょうどいいんだ、海って」
ハニーゴールドが手を差し出した。俺はそれを握る。分厚くて力強い、海の男の手だった。
「お前の探し物が見つかることを祈ってる、プロスペロー」
「あんたも海の果てまで安全にな、ハニーゴールド」
握手はあっけないほど簡単に解かれた。
そこでふと、俺は気まずい問題に気づいた。空気が完全に別れの雰囲気になっている。
周囲には船員たちが集まり、どうにも見送ってくれるような様子だ。荒くれの男たちが優しい目で俺とハニーゴールドを見守っている。
俺としてはもうしばらくこの船にいたい気持ちだったのだが、この流れの中で居座るほどの度胸がなかった。空気を読むという習慣は俺の行動を制限するのだ。
「ええっと……じゃあ」
「ああ、またな」
困ったな、どうしよう。と周囲を見渡す。空を飛んでも周囲は海しかなく、結局、頼れるのは扉だけだ。
俺は歩いて向かい、ノブに手をかけた。なんとかなれ、繋がれ、と祈りながら扉を開くと、白く輝く膜が張っている。助かった。魔法万歳。
一度、振り返る。船員たちとハニーゴールドが笑って見送ってくれている。
まったく、不思議な冒険だった。海賊と船に乗ってきたなんて言っても、誰も信じてくれやしないだろう。
俺は男たちに手を振る。自然と笑みが浮かんだ。
そして扉に飛び込んだ。
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