第29話「予兆」



いかりを巻き上げろ! 魔法使いは来たか!」

「見えません!」


 マストの上の見張り台から声が返ってくる。ハニーゴールドは舌打ちした。

 船着場に魔法使いは来なかった。港に降りた船員たちが集まり、追手がいる以上、いつまでも待っているわけにもいかず、すでに全員が船に戻っていた。


 出航準備を急がせながらも船着場を見張らせているが、魔法使いは姿を見せない。追っ手に捕まったか、不可思議な魔法で姿を消したか。どちらにせよもうここには戻ってこないのかもしれないとハニーゴールドは思っている。


「帆を張れ! 囲まれる前に出るぞ!」


 甲板で忙しく動き回る水夫にハニーゴールドが檄を飛ばす。いくつもの港を巡って集めてきた水夫たちはよく訓練され、細かな指示を出さずともそれぞれが的確な仕事をやってのける。滑車が周り、男たちが綱を引き、マストには帆が下がるが、風を受けて膨らむ様子はない。


「船長、風が止まりました」


 舵輪手の男が無表情のままに言った。


「見りゃわかる。この島はいつから無風帯になった?」

「さて、俺が知る限りは初めてですね、こんな凪は。で、どうしますか。風がなきゃ船は動きません」

「前から気になってたんだが、お前は女を口説くときどうしてるんだ? その顔のまま愛を囁いてるのか?」

「部屋を暗くします」

「そいつは名案だな」


 ふたりは顔を合わせて小さく笑った。


「カシラぁ!」

「魔法使いが来たか!」

「そいつはまだです! ”跳ね鹿”と”白十字の乙女”が島の右手側から来ます! 港の”海鳥の嘴”と”紅の貴婦人”も帆を開きました!」

「海賊連合が出来上がったってわけか。全員で接待してくれるなんて嬉しいね。そんなに俺のことを愛してるなら言ってくれりゃ良かったのに」

「船長、くだらない冗談はさておき、なんであいつらの船は動けるんでしょう。風は止まってるはずですが」

「そりゃ、誰かがこの船だけを邪魔してんだろうさ」

「そんなことをできる奴がいるとでも? それはもう人間じゃないでしょう。天候を操るなんざ神の仕事だ」

「でなきゃ説明がつかないだろ」


 ハニーゴールドは笑って帽子を取り、顔に風を送った。

 あおげば風は生まれるが、船を動かすにはもっと巨大な風が必要だ。無風であれば船は動かない。人間にはどうしようもない。


「カシラぁ!」


 再びマストの上の見張り員が声を張った。


「今度こそ魔法使いか!」

「そいつはまだです! 沖から船が七隻! 海軍です!」

「このクソ忙しいときに」


 と、ハニーゴールドは肩をすくめた。

 空は暗く、海は暗黒の地面が延々と続いているように見える。

 かつてこの海に栄えた古代人は、暗い海の水が地上に流れ込むことで夜が訪れると信じていた。夜に何が見えるかと聞けば、水だけが見えると答えた。


 沖に向けたハニーゴールドの視界には、まさに暗い海の水だけが見える。

 今ではそこに七つの灯りが浮かんでいた。見る間に灯りが増していく。潜伏する必要がなくなったと、灯火管制を止めたのだろう。


「いつの間にか俺は大海賊になったらしいな」

「海軍七隻ですか。海軍のやつら、本気のようだ」

「どうせ伯爵の阿呆が煽られて契約でもしたんだろう。だが政府は海賊との契約なんぞゴミと思ってる。俺たちの仲間割れにも期待してるだろう」

「”跳ね鹿”と”白十字の乙女”が砲門をこちらに向けてます! ”跳ね鹿”から灯火信号! ……『降伏しろ』!」

「返信してやれ。『クソ食ってくたばれ』以上」

「『クソ食ってくたばれ』了解!」


 帽子を頭に被り直し、むっつりと黙り込んでしまったハニーゴールドの横顔を、舵輪手が見つめている。二人は長い付き合いになる。かつては同じ海賊船で働いていた仲だ。ゆえに、ハニーゴールドが何を考えているのかを察していた。


「誰も降りないと思いますけどね」

「なに?」

「希望者はいますぐ下船しろ、って言うかと思いまして。でもね、この船に乗ってる奴らは、海賊なのに海賊らしくないアンタについて来た馬鹿ばっかりだ。馬鹿ってのは降りどきが分からないんですよ、賭けも船も。出来るのは、勝つか負けるかだけです」

「……俺はその馬鹿どもが好きでね。ここで無駄に死なせちゃ惜しい」


 舵輪手の男がふっと笑った。それは滅多に見せることのない素直な笑みだった。


「アンタのおかげでいい夢を見れた。誰も後悔しちゃいないですよ」


 目を丸くしたハニーゴールドに、見張り台から声が飛ぶ。


「カシラぁ!」

「魔法使いか!」

「そいつはまだです! おれたちを見くびらないでほしいですよ! おれは降りませんよ! この船より居心地のいい場所はないんです! そうだろお前ら!」


 甲板に問いかけると、男たちの野太い返事が投げ込まれた。

 誰もが笑っている。それはハニーゴールドがいつもそうしているからだ。どんなに切羽詰まっても、男は笑って乗り越えてきた。だからいまこの時も、たとえ船を動かす風がなく、周囲を囲まれ、旅の終わりが近づきつつあるとしても、海賊たちは笑うのだ。


「……生意気を言いやがる」


 ハニーゴールドも笑った。少し帽子をずり下げて、目元を隠した。

 


 #



「魔法使い殿、どうですかな」


 艦橋の中心に据えられた椅子に深く腰掛けたまま、ドゥルーマン少将は傍に立つ赤髪の魔法使いフォティアに問いかけた。

 フォティアは椅子の横に立っている。かざした両手の狭間に何の支えもなく杖が浮かんでいるのを、室内の船員たちが物珍しさと畏怖を合わせた目で窺っていた。


「標的の周囲の風を止めています。動けないでしょう」

「まこと素晴らしい! 魔法使いは風を操ることができるのですな!」


 フォティアは首を左右に振った。


「あたしにできるのは限られた範囲の風を止めるだけです。マゴニアに残る伝承では、強い力を持つものは嵐を起こす者テンペスタリィと呼ばれたと聞きます。その力は嵐さえ自在に操ると」

「ほう、古の魔法使いは天候まで制御できたと? それは神をも恐れぬ所業ですな。だがその力の一端でも、こうして海賊を手中にできるというわけだ」


 周囲より一段と高くなった椅子から眺める景色に、ドゥルーマンは満足げに鼻息をついた。小さな海賊島に五つの船影がある。普段であれば鼠のように雲隠れする海賊たちが足を止めている。


 海賊たちはハニーゴールドというエサを差し出しているつもりだ。自分たちもエサだとは気づいていない。こちらが七隻もの船を連れて来たことで疑念を抱くころだろう。だが今さら遅い。すでに逃げ道は塞いでいる。


 ここで諸共、沈めてくれよう。いや、何人かは生け捕りにして財宝の在処を聞き出さねば。海賊たちはあちこちの島に隠していると聞く。

 これまでに何度も繰り返した思考は、ドゥルーマンの頬を緩めた。素晴らしい想像だった。それがもうすぐ現実になるのだということが、気分をますます高揚させる。


「砲撃準備せよ」

「はっ、砲撃準備」


 ドゥルーマンの指示により、艦橋の伝声管から指示が送られる。同時に伝令が走り、各艦に指示が共有される。砲の射程にはまだ遠いが、準備が整うころにはちょうど良い。ハニーゴールドだけでなく、海賊船すべてに打ち込む……社会のゴミを一掃するのだ。これほどの善行はあるまい。


「––––えっ?」


 その瞬間、フォティアが戸惑うような声をあげた。暗い海の真ん中に孤立した悪人の船。魔力の乱れを感じると共に、その甲板上に小さくも眩い光が現れたのを見た。

 


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