第28話「20年前のこと」
上下左右も見失うような一瞬の浮遊の後で、両足が地面を踏んだ。頬を水滴が叩いた。あっという間に身体が濡れていく。ひどい雨が降っている。
目を開くと、暗雲が立ち込めていた。夜ではなかった。けれど周囲は薄暗く、あちこちで煙が上がっている。
俺は村の中のひとつの家の前に立っていた。周囲には人が何人も転がっていた。その光景には現実味がない。人の形はしているが、まるで作り物のようにしか見えなかった。けれど、そこらじゅうに血の水溜りができている。
感覚が止まっていた。唐突すぎる出来事を受け入れる準備ができていないせいで、目の前にあるものをただ、あるがままに見ている。
家々の先には海があった。視界を埋めるノイズのような大雨の向こうに、影のように塗りつぶされた一隻の帆船があった。
子どもの叫び声と、何かがぶつかるような物音。
俺はほとんど反射的にその音に向かって走った。家を回り込んですぐ、その光景が見えた。
地面にへたり込んだ子どもと、その前に立つ大男。その手にはカットラスを握っている。灰色の景色の中で、その白銀だけが際立って見えた。
なぜ男が子どもに剣を振りかざすのか。その理由は分からない。
だが身体が勝手に動いた––––と言えば言い訳になるだろう。考えたわけではなかったが、俺は自分の意思で手を動かして、男の背中を指差した。その瞬間、降り注ぐ雨の一粒ずつまでが止まったように見えた。
魔法は訳の分からない技術だ。訳の分からないものより、知っているものの方が信頼できる。だから想像するのは科学の力で、それを再現するために魔法を使う。
ズボンに挟まっている金属の感触が強く意識された。それはこの世界の武器であるピストルだ。
向けた人差し指が風船のように膨らんだ錯覚……ぱん、と空気が破裂した。
雨が動き出した。ザッと、雨音が戻ってきた。
大男が宙を回転しながら吹っ飛び、泥を跳ね上げながら地面を転がった。
自分の息が荒くなっているのに、ようやく気づいた。喉がひりついた。
子どもに駆け寄ると、くすんだ金髪の少年が、呆然と座り込んだまま俺を見上げている。その顔は赤く腫れ、唇に血が滲んでいた。
「……あんた、何者だよ」
何者って訊かれてもな、と俺は頬を掻く。
「俺は、魔法使いだ」
と冗談めかして答えた。場を和ませたくてふざけて答えたようなものだ。
少年は笑いも怒りもせず、俺を見上げていた。それから吹っ飛んでいった男に目をやって、また俺を見た。
「助かったよ、魔法使い。命拾いした」
たったいま死にかけたばかりだと言うのに、少年は平然と立ち上がった。
「何があったんだ?」
「何って、見りゃ分かんだろ」
「……襲われたのか」
「はあ? おれだって海賊だ」
言って、少年は腰元からピストルを取り出してみせた。
「この村を、襲ったのか?」
「ちげえよ。この村のやつらが俺らを裏切ったんだ。襲ってきやがった。くそ、馬鹿なことするから」
少年は周囲の様子に舌打ちをした。
「なんだお前は襲われてたんだ? あの男も海賊だろ?」
「……女の子を捕まえようとしてたから」
少年は視線を周囲に向けて、ぶっきらぼうに言った。
「急に家から女の子が出てきて、それを獲物だって、あの馬鹿が。止めたら殺されそうになった。そんだけだ」
「止めただけで殺されるって……」
「海賊なんてそんなもんだ。クズしかいない。今だって、村に残った金目のものを探してたしな」
少年は自重するように言った。俺を見る目は曇天のように暗い。余計なお世話だと分かりながらも、俺は訊かずにはいられなかった。
「じゃあなんで海賊なんかしてるんだ?」
「……海の向こうが見たいから」
予想外の答えに、俺は思わずきょとんとした顔をしたに違いない。少年は俺を睨め付けた。
「なんだよ。あんた、海の向こうがどうなってるのか知ってんのか? でけえ大陸があって、その向こうにはまた別の何かがある。おれはそれが見たいんだ」
「……海賊じゃなくて良くないか?」
「仕方ねえだろ、今さら抜け出せねえ。船を動かすのだって金がいる。おれだってこんなことやりたくねえ」
呟くような答えはきっと本心なんだろう。だから見かけた女の子をとっさに助けようとしたのかもしれない。
「でも」
と、少年は俺を見て強く言った。
「おれは、いつかは自分の船を持つ。そしたらこんなことはさせねえ。海賊は海賊でも、良い海賊になってやる。それで、いつかは海の果てに行く。あんたに助けてもらった命は無駄にしない。だから頼む、見逃してくれ!」
「……いや、なにもするつもりないんだが」
「で、でも、魔法使いなんだろ? 助けた見返りに、魂をよこせって言うんじゃ」
「どこの悪魔だよ。いらねえよ魂なんて」
けれど少年があまりに必死なものだから、俺はつい笑ってしまう。
「……なんで笑ってんだよ」
「男は笑ってこそ、ってな。受け売りだけど。じゃあ助けた礼がわり教えてくれ。その家から飛び出した女って、黒髪だったか?」
「なんだよ、知り合いなのか? 黒髪だったよ、たぶん」
「どっちに行った?」
「あっち」
指差したほうを見るが、雨で視界は悪い。追いかけても見つかるかどうか怪しいところだった。
「仕方ない。一回戻るか」
「そういやあんた、どこから来たんだよ」
「どこって、まあ、扉の向こうから」
「はあ?」
首を傾げられるが、俺としてもそうとしか言えないのだから困る。
「お前、大丈夫か? 一緒に来るか?」
「いいよ。そこまで心配すんな。これでも上手くやってんだ」
「殺されそうになってたろ」
俺は周囲を見る。人が、死んでいる。雨が視界を悪くしていなかったら、俺はここまで冷静ではいられなかっただろう。薄暗い世界はまるで夢のようにぼやけたものになっている。
目の前の少年にとっては、これが紛れもない現実だ。けれど俺はこれ以上ここにいることが苦しくなってきて、出てきた扉に向かう。少女を追うべきと分かっていたけれど。
「なあ、礼はどうしたらいい」
「律儀だな。いいよ、別に」
「いいや、だめだ。魔法使いは対価を求めるんだろ。今は、何にも持ってないけど。いつか取りに来てくれよ。その時、俺がちゃんとした海賊になってるか確かめてくれ」
「分かった分かった。縁があったらな」
「絶対だぞ、約束だからな。おれの名前はハニーゴールド。あんたは!」
扉の取手に手をかけたところで、俺は振り返った。
くすんだ金髪の少年は俺を睨むように見ている。その顔立ちは、言われてみればたしかに、面影がある。
俺は思わず笑う。変な世界だな、まったく。
「20年後に教えてやるさ。あとは、そうだな、礼は煙草でいい」
少年をそこに置いて、俺は扉を開けた。白い膜が張っているのを確かめて、再び身体を押し込んだ。
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