第24話「嵐の気配」

 

 

 その島影はお椀を伏せたように丸っこく、決して大きなものではない。しかし湾になった正面は煌々と光を灯していた。

 森が切り開かれ、家が建てられ、港が作られ、桟橋が伸びている。幾つもの松明に照らされた男たちの影がここからでも見えた。


 島の周囲は一帯に海原で、トルテュ島だけがぽっかりと浮かんでいる。島の灯りが夜の底を照らしている光景は、思わず見惚れるほどに幻想的だった。


「おい、魔法使い」


 呼びかけにハッと意識を戻せば、船のへりにハニーゴールドが立っていた。


「来いよ、海賊島に招待してやる。死ぬまで酒場での自慢話に困らなくなるぞ」


 不思議なことだが、この世には生まれながらに奇妙な魅力を持った人間がいるのだろうと、俺は思った。

 ハニーゴールドは腕を組み、気だるげに立っている。だが瞳ばかりは力強く芯があり、一度、視線を合わせると、もう自分からは逸らすことができない。


 海賊島。

 ヘンリーがピストルを貸してくれたのはついさっきだ。それほどに危険な島に誰が喜んで行くだろう。恐ろしいだけじゃないか。

 そう思っていたはずの俺の感情は、煙のように潮風に吹き流されてしまったようだった。


 ハニーゴールドが、目尻に軽やかな笑いなんかを浮かべながら言えば、どんな男だってそれを断ることはできないに違いない。


 ハニーゴールドが、この男がそう言うなら、行ってみるのもいい。出会って間もない俺だってそう思うのだ。この船に乗っている海賊たちは、みんなこの男の魅力にやられてしまったのだろう。


 俺は背筋を伸ばして歩き出す。

 これまでずっと、周りに流され、誰かのために働いていた気がした。身体を縮こめ、自分を抑え、我慢し、息を潜めていた。記憶はなくとも息苦しさを覚えている。

 間違うことや挑むことを恐れ、ただ失敗せず、誰かに迷惑をかけないで生きていくだけの人生が、俺の後ろに伸びている。


 だが、それじゃ何も楽しくなかった。誰かにとって都合の“良い人”になりたくて生きているわけじゃなかった。


 こんなにも自由に、海賊という悪人として生きている男を前に、俺は小さな善人として生きることが急にちっぽけに思えた。


 風が吹く。ローブがはためき、髪が揺らめいた。身体の芯に詰まっていたものが流れ出したように、木の板を踏む一歩一歩に力が入る。


「海賊の島か、観光にぴったりだ」


 不思議とすっきりとした気分で話しかければ、ハニーゴールドはきょとんとしていたが、肉食獣のように目を細めて笑った。


「この日にあんたと会えたことには、意味があるんだろう。神なんて信じちゃいないが……改めて名乗ろう。俺はベンジャミン・P・ハニーゴールド。海賊だ」

「俺は」


 佐藤、という名を、口にしかけて、唇を閉じた。

 記憶に薄くとも、それは自分の名前だ。だが名乗ることで意識や存在が佐藤に戻る気がした。

 戻りたくないんだ、と思った。あんな生活に。あんな自分に。

 思い出せない記憶。だが忌避感とでも呼ぶべき息の詰まるような灰色の欲求がある。


 ここはあの世界ではない。

 自分ではない自分になれる機会は、普通ない。それが今、ここにある気がした。新しい世界に踏み出せる気がした。


「俺は––––プロスペロー。魔法使いだ」


 かちり、と噛み合う金属の音がどこかで響いた。錠に鍵を差し込んだみたいに。

 その時、ハニーゴールドは少年のようにあどけなく笑った。


「待ちくたびれたよ。ちょいと騒がしい夜になるかもしれないが、まあ、楽しんでいってくれ」


 ハニーゴールドは俺にウインクをすると、船の縁から垂れ下がる縄梯子を降りていった。船の真横には小舟が下ろしてあって、すでに水夫たちが乗り込み、オールを握っている。小さな海賊船ってところだろうか。


 俺もふらふらと頼りなく揺れている縄梯子にビビりながらも、足をかけた。船が波に揺れるたびに、縄梯子と一緒に俺も揺れる。背筋がぞわぞわとした。恐怖も一周すれば、なぜか笑いが込み上げてくるものだ。

 ふ、ふはは、とちょっぴり悪役らしい笑い声が出た。


 慎重に手足を運び、ようやく俺は船に降り立った。

 ハニーゴールドの声で水夫たちがオールを漕ぐ。小舟は島に向かって波に乗り出した。

 始まったばかりの夜の向こうに、重たげな暗雲が待っているのが見えた。横殴りの風が吹き抜けていった。

 びゅうびゅうと喚く風がいくつも重なり、黒く染まった海にいくつもの波が立っている。小舟の先端に掲げたランタンが照らすわずかな視界に、舳先に砕かれた白い泡が飛び散るのを見た。


「嵐になりそうだ」

 

 ハニーゴールドの呟きに、俺は「そりゃいい」と答える。知らず、笑みが浮かんでいた。

 ふと耳元でエアリアルが囁く。姿は見えずとも、彼女はいつもそこにいるらしい。


「ずいぶんと楽しそうですね、プロスペローさま」

「ああ、嵐は大好きだ」

「それはようございました。今夜の風は、少々荒れ模様になりましょうから」



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