第6話「記憶はなくとも料理はできる」
いまだに自分の名前すら思い出せない有様だが、なかなかどうして、食材を切る手つきはよどみがない。自分でも驚きだ。
病人に作るスープだ。とりあえずみじん切りにしてまとめて煮込めばいいだろう。
適当に刻み、ちょっとずつ口に運ぶ。
なんだか思ったのと違ったな、というズレはあるが、概ね味は悪くない。飛び抜けて苦いとか、クセが強くなければ問題ないはずだ。
俺は囲炉裏に向かう。手近な場所に火かき棒が立てかけてあった。
それで鍋を取ろうと取っ手に引っかけると、思いもよらず吊るしていた鎖ごと移動した。
吊るされている上の方に滑車があるらしい。意外と便利だ。
鍋の中は空っぽだ。
棚から木彫りのジョッキを取り、水瓶から組み上げた水を鍋に流し込む。
熱々のフライパンに水を流し込んだのと同じ音。猛烈な湯気。2杯目を流し込むとすっかり静かになる。
みじん切りにした野菜を放り込む。棚に並んだ小瓶が調味料だと当たりをつけ、ひとつひとつ中を覗いた。
確認のためにひとつひとつ舐めてみる。
塩、砂糖、黒胡椒、唐辛子、油、酢……味わったことのないハーブ、やたらと苦い粉末まで試して、置いておく。別に美食が作りたいわけじゃない。持て余すだけだ。
塩と黒胡椒、それから悩んで唐辛子も取って、鍋に向かう。
唐辛子を少し入れれば、体温を上げるのに役立つだろう。目分量で鍋に入れて、火かき棒でずらして鍋の底を火に当てる。
「見事なお手並みです」
「ありがと。でもな、たぶん物足りないんだよな、あれ」
「と、言いますと」
「出汁がない」
「だし?」
「コンソメとか、鶏ガラとか。鰹節でも昆布でもいいんだけどな。顆粒でくれとまでは言わないが、なんかないかな」
目をきょとんとさせたエアリアルをそこに置いて、俺は再び棚漁りに戻った。
野菜を煮込んだだけでは、どうにも美味そうではない。身体を温めるためなのだから、そこまで味にこだわる必要もないのだが、無駄にこだわってしまうのは性格だろうか。
三つ四つと袋をあけて、お、と目を引くものが合った。
「なんかの骨だな。こりゃいい」
牛の骨に似たものが袋いっぱいに入っている。片手で持てるだけを取って戻り、また引き寄せた鍋の中に骨を放り込んだ。
これで煮込めば多少は出汁が期待できるだろう。骨というのは煮込めば旨味が出てくると相場が決まっている。
やることをやって、俺はふうと息をつく。
やけに静かな部屋の中に、薪が燃える音と、雪風が鳴る音がかすかに聞こえるだけ。
空白のような手持ちぶさたに耐えられず、俺は少女の様子を見るために近寄った。
血の気のない顔は死人のようにも見えたが、唇にわずかな赤みが戻っている。そっと耳を近づけると、呼吸が聞こえた。まだ、生きている。
病人を前にすると、例えようのない居心地の悪さがある。なにをしてやることもできない無力さが身に染みるのかもしれない。
鍋でスープが沸騰し、ぐつぐつと煮える音がする。俺は火かき棒で鍋を火から少しずらして火力を調整した。
触れられそうなほど濃い湯気が沸きあがっている。
美味そうな匂いがした。
骨から染み出した牛骨出汁と、煮込まれて柔らかくなった野菜が溶け合っているのだろう。
俺は丸椅子を引っ張ってきた。
長いローブに苦労しながらまたいで座る。腰を落ち着けると、今までの状況を振り返る余裕ができた。
何もかもが異常だった。
異常すぎるがあまりに、かえって冷静になれたとも言えるが……。
ため息をつく。腕を組む。天井を見上げる。石造りだ。こんな古びた建物をまじまじと見たことがない。
見たことがない、ということは分かるのに、自分の名前を思い出そうとしても、佐藤という苗字しかわからない。
家族の名前も、友人の名前も、恋人……はいたかどうかもわからないが。
とにかく、俺は記憶喪失のようだ。だったら、エアリアルが言うように俺はプロスペローなのかもしれない。
本当は悪い魔法使いで、こことは比べ物にならないほど技術が発展した場所で会社員として働く夢を見ていた、とか。
「プロスペローさま」
「うわっ」
突然、視界に小さな人間が飛び込んだ。
何度見ても妖精という存在に慣れない俺が、魔法使い?
やっぱりないな、ないない。ありえない。
「なんだよ」
「そちらの人間が、目をさましたようですが」
言われて、俺は慌てて顔を向けた。
少女が目を開いていた。首をかたむけ、ぼんやりとした瞳で俺を見ている。
その焦点がだんだんと合うにつれて、表情が驚きへと変化していくのが分かった。
なにか声をかけるべきかと迷う。気の利いた言葉が出てこないのも、きっと記憶喪失のせいだろうと言い訳をして。
「––––熱いスープでも飲むか?」
と、俺は言った。
そして少女の悲鳴が響いた。
……なんでだよ。
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