第2話「俺は誰? いや、お前も誰?」
頭を抱えて呆然としたとき、こめかみを貫通するような強烈な痛みがはしった。
男の姿が見える。
スーツを着ている。いつも自慢していた。イタリア製だか、オーダーメイドだか。男は椅子に座ったまま、机に置かれた書類を人差し指で叩いた。
「これを君に任せたい。他に信頼できる人がいないんだ。頼むよ」
「……分かりました」
すでに俺の抱えている仕事は山になっている。先月にも二人が辞めている。放り出された仕事は、残ったやつに回ってくる。当然のことだ。
「君は良いやつだ。これからも期待してるよ、佐藤くん」
男は白い歯を見せて笑った。
佐藤。俺は、佐藤か。
「プロスペローさま。こちらを」
はっと意識が戻った。
男はいない。けれど妖精はいる。おまけとばかりに、真っ黒な布が浮いている。
「驚くのにも回数制限があるらしい。何も思わなくなってきた」
「何も思わない? それがプロスペローさまではございませんか。さ、お着替えを」
妖精が指を振ると、宙に浮かぶ布が俺の胸に飛び込んできた。咄嗟に受け取る。どうやら服のようだ。
俺はプロスペローじゃない、佐藤だ……と言いかけて。
どう見ても幻想の存在である妖精に対して、純平凡な名前を伝えることがちぐはぐに思えて、俺は黙って服をたぐった。袖に腕を通し、前を合わせる。
裾は地面を擦るほどに長い。
あちこちの布がたっぷりと余っていて、明らかにサイズオーバーだ。
それでいて生地は軽く、手触りは絹のように滑らかで、控え目に言っても着心地は最高だった。
「……まるで魔法使いだな」
「まさに。プロスペローさまこそ世界一の魔法使いでございます」
「それお世辞だよな」
「そんなまさか。契約で嘘は禁じられておりますので」
「飲み会で俺が先輩をヨイショするときと口調がそっくりだったぞ」
すっと口から流れた言葉に、自分でも不思議な感覚を覚えた。言葉は出てきても、その情景の記憶が思い当たらない。
「頭痛がする。無理に思い出さないほうがいいみたいだ」
「それが良いでしょう」
妖精が人差し指を振る。背中に垂れていたフードが持ち上がり、ぱさりと俺の頭を覆った。目の下まで隠すほど大きい。
「では参りましょう」
と、妖精は飛んでいく。
俺は言われるがままについていく。
扉を出ると、狭い廊下が弧を描いて左右に伸びている。廊下には窓がない。代わりに壁掛けのランタンがあって、そこに奇妙に青白い光が灯っていた。
通り過ぎるたびに、クスクスと笑う声がした。
子どものような甲高い声は、間違いなくランタンから聞こえてくる。
よく見ればそれは炎でも電球でもなくて、ぽかりと浮かぶような光の玉だ。笑い声に合わせて光の玉は震えている。
いくつかの扉を通り過ぎた。どれも閉じられていたが、一目で分かるほどひとつひとつの扉に違いがある。
ある扉は草木に覆われている。
その次は幾何学的に彫られた紋様が赤黒く脈打つ。
いま通り過ぎた扉はひっきりなしに震えて、男の低い唸り声が聞こえた気がした。
俺は無意識にローブをかき合わせて腕を組んだ。背が震えているのは、廊下に満ちた冷え冷えとした空気のせいばかりではなかった。
扉を十も通り過ぎて、妖精はひとつの部屋の前でくるりと止まった。
宙に浮かぶ小人の目線は、俺と同じ高さにある。
「こちらでお待ちです」
「……誰が来てるんだ?」
妖精はなんの説明もせず、扉に向けて指を振った。するとドアノブが勝手に動き、軋んだ金属音とともに開く。
広い部屋だった。奥の壁には暖炉があった。薪の上に子猫のように大きな蜥蜴が丸くなって燃えていた。比喩表現ではなく、本当に、炎と混じり合うように燃え盛る蜥蜴がそこにいる。
暖炉の前にしゃがんでいる背中がある。蜥蜴を見つめていたらしいが、俺たちが入ったのに合わせて立ち上がり、こちらに向き直った。男だ。
その顔は死人のように青白い。見上げるような長身に、彫りの深い顔。頬は痩け、白髪を腰まで流している。
だがそんなことよりも、俺は男の額に目を奪われていた。
角が生えている。
黒々とした山羊のようなツノが、目の上の額から耳の上にかけて捻れていた。
「ふん。相変わらずの不気味な姿だ」
と、男は顎を逸らし、俺を見下すように言った。
仕事をする上で重要なのは人間関係だ。社会には色んな人間がいる。相手がどんな人間か、そして自分をどう思っているか。そういうものが表情や声で分かることがある。
男は堂々と俺を嫌っている……ように見せてはいるが、どこか態度が不自然だった。
怜悧に整った容貌は彫像のようだが、瞳だけがちらちらと揺れていた。まるで俺を直視することすら我慢できないとでもいうように。
男はわざとらしく鼻を鳴らす。
「返事もなしか。大層な“魔法使い”ともなると、気安く言葉も発せられぬようだ」
侮辱する声音をここまで使いこなす人間はそういないだろう。
普段なら聞き流せるかもしれないが、今の俺は感情がいっぱいいっぱいだった。
訳のわからない状況。知りもしない男からの喧嘩腰の言葉。
今までの人生で、俺は誰かと争うようなことはしなかった。
誰かに気に触る事を言われたとしても、苦笑いを浮かべて黙っているばかりだった。怒ることは苦手で、空気が悪くなることはしたくなかったのだ。
だというのに、腹の奥から急に込み上げるものがある。現実離れしたこの状況のせいだろうか。
掴んで止める間もなく、言葉は自然と口から出ていた。
「いや、誰だよお前」
ぴき、と空気にヒビが入る音が聞こえた気がした。
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