悪役魔法使いの改心
風見鶏
第1幕「わるい魔法使いのはじめ方」
第1話「妖精が善良とは限らない」
「プロスペローさま。目を覚ましてください。……寝るしか能がないんですから。この役立たず」
辛辣な声に目が醒める。
起きたくない。しかし起きなければいけない。
遅刻をすればまた怒鳴られる。たとえ帰宅が終電だったとしても、翌朝には誰もが平然とした顔で出勤しているのだ。
みんながやっているのに、俺だけが寝坊しましたとは言えない。
ああ、嫌だな……起きたくない……。
と、いつものように考えて、ふと違和感に気づいた。
俺はひとり暮らしだ。彼女もいない。テレビも見ない。なのに、どうして女の子の声がするんだろう。
「いっそそのまま永遠の眠りに––––おはようございます、プロスペローさま。良い朝ですね」
「いや、聞こえてたぞ、前半の本音」
霞んだ視界に、寝ぼけた自分の声。
何度か瞬きをして見れば、どうしてか不思議な光景が広がっている。
「……小さい人間がいる」
「わたしは標準的な妖精です。人間がでっけえのです」
「妖精?」
目の前に浮かんでいる小さな人間。妖精と言われたらそう見える。
二十センチほどの身長はフィギュアみたいなもので、なのにその造形は精緻で、生きている人間と遜色がない。
ただ、あまりに整った容貌は、身長以前の問題で人間離れしていて、どうにも作り物めいて見えてしまう。
「プロスペローさま。寝起きの間抜けヅラ……失礼しました。涎がこびりついた呆けヅラのところ申し訳ないのですが」
「それ言い直した意味あった?」
俺は慌てて口元を拭う。と、やけにゴワついた袖が気になった。
昨日は寝巻きに半袖シャツを着ていたはず。しかし今、どうしてか俺は、袖の余り余った灰色の服を着ていた。
「来客が参っております」
自称妖精は軽やかに宙を舞った。
身長よりも長い髪の毛の動きに合わせて、七色の煌めきが散る。
背中には透明が羽が付いている。おとぎ話から飛び出してきたような姿だ。
「俺は夢を見てる。たぶん、疲れすぎたんだ。そうに違いない。パワポとエクセルの画面を交互に八時間も見てたせいだ」
「ぱわぽ? えくせる? それは新しい
「あのさ、そのプロスペローって、俺のこと?」
「他にどなたかいらっしゃいますか?」
中空に浮かんだままの妖精は、声音だけに呆れた感情を見せた。
整いすぎた容貌が人形のように思えるのは、妖精の表情がちっとも変化しないからだった。話すのにも唇だけが動いている。
俺の夢にしちゃ、愛想がない。
なんだかな、夢の中でくらいもっと優しくしてくれたって……ぶつぶつ。
「いつものようにご自分の内面世界に篭られるのは結構ですが、お客さまがお待ちです。ご対応ください」
「ご対応って、そもそも俺はプロスペローなんて名前じゃないんだけど」
「でしたら何とお呼びすれば?」
「そりゃ……」
自分の名前を言おうとした。途端に頭痛がする。
こめかみに竹串が差し込まれたようで、俺は頭を抱えた。
「……思い出せん」
「でしたらあなたはプロスペローさまです。さあ、早くお立ちになってください」
「わかった、わかったから。顔の周りを飛び回るなって」
自分の状況も把握できず、名前すら思い出せない夢の世界で、妖精に急かされて俺は立ち上がった。
ベッドは柔らかいが、マットレスのような固い反発力がなく、まるで綿のくたびれたクッションのようだ。
縁から足を下ろすと、ふんわりとした毛並みが裸足に触れた。
ベッドの前にはくすんだ青色の絨毯が敷かれている。窓から斜めに差し込んだ陽の光が、絨毯の途切れた先の石の床を照らしていた。
「……」
立ち上がろうとしていた力が抜けて、俺はぽけっと室内を見渡した。
ワンルームだった自分の部屋よりも広い。けれど薄暗く、空気はどこかじめっとしている。
壁も床も石で出来ている。右手の壁は本棚で埋まっていた。収まりきらない本が床にまで積み上げられている。
向かって正面に机と椅子。やけにデカく、アンティークのような面持ちで、机の上は本や紙切れ、ペンに皿とコップと節操がない。その机の悲惨な有り様が、まるで自分の部屋のように思える。
床には衣服が脱ぎ散らかされ、部屋の隅にもまた、山となった洗濯物。その隣には木箱がある。りんごの芯らしいものと、ワインボトルのような空瓶、何かを包んでいたような油紙に、黒く汚れた雑巾やらのゴミが放り込まれていた。
心安らぐ雑然さ。俺は掃除にマメな方じゃなかったし、整理整頓が行き届いた部屋よりも、散らかっている方が気が楽だ。
それでも散らかし方というのが人それぞれにあって、汚ければどこでも落ち着けるというわけじゃない。むしろ、男臭い友人の散らかり放題の部屋なんかは苦手だ。
だというのに、この部屋には不思議と落ち着きを感じた。散らかっている。けれど、部屋の主なりのルールがあって、そのルールの価値観は俺に似ている。
俺は奇妙な感覚に襲われた。まるでこの部屋を見たことがあるみたいな……。
「プロスペローさま。幼子のように甘えたいという気持ちはお察ししますが、口を開けて惚けるのは後でどうぞ」
「だから、俺はプロスペローとかいうやつじゃないって」
妖精は俺の返事に取り合わず、宙を滑空して扉に向かう。そこでくるりと身体を反転させながら止まった。
「プロスペローさまの悪名とはっきりしない態度のせいでこのような客が幾人も来るです。さっさと追い払うか、諦めて受け入れるか、決断なさいませ」
「はあ……?」
俺は立ち上がる。柔らかな絨毯の感触はあまりにリアルだった。
寝ぼけた意識も流れてしまえば、さすがに理解せざるを得ない。これはたぶん、夢ではない。
けれど、だったら、ますます訳がわからない。
わからないことが多すぎると、かえって人間は落ち着くのかもしれない。
俺は床に転がっていた靴下を取る。においを嗅いで無事を確認してそれを履き、ベッドの足元に揃っていたブーツに足をつっこんだ。
「いや、マジで、どこなんだ、ここ」
「先ほどから、何かわたしを試していらっしゃるのですか? おっしゃることの意味が理解できません」
妖精は初めて不審げに、あるいはどこか不安げな様子で首を傾げた。
「……試してるとかじゃなくて、状況を把握したいだけで」
「状況。でしたらどうぞ、そちらの窓からご覧くださいませ。ここがどこかを存分にご理解できるかと」
そういうことでもないんだが、と思いつつも、俺は言われた通りに窓に向かう。
磨りガラスというより、ただ粗悪なためにくすんだガラスの窓を押し開ける。
途端、肌を刺すような冷気がなだれ込んだ。
「さっむ!?」
風には雪が混じっている。それが頬に打ち付けられ、溶けて水滴に変わる。
「7月に雪が降るわけ……」
俺は言葉を止めた。窓の外の光景が、いやでも目に入ったからだ。
寒さも雪も気にならない。身体は窓枠から乗り出す。それは無意識に景色をよく見ようとしたのか。それともただ、現実を理解できずにふらついた結果か。
窓の外は雪風が渦巻いていた。けれどその向こうには晴々とした青い空が広がっていた。眼下に雪を冠した白い山々と、遠い先に緑の野がある。
俺は真下を見る。石壁が続くずっと下が白い雪風に霞んで見えない。
どういうわけか、俺は雪山の中に建つ、石造りの高層建造物にいる。それだけは分かった。
いや、なんで?
「ここは魔と人の領地を区切る辺境、ヘルデア山脈に建つ“魔法使いの塔”」
いつの間にか俺の肩に腰掛けた妖精が、耳元で言う。
「そしてプロスペローさまは、塔の主にして、この世界でもっとも恐れられているわるい魔法使い』でございます」
「……フッ、そうか、なるほどな」
俺は重々しく頷いた。
そしてゆっくりと窓を閉める。
雪風は遮られ、一息をついて。
「いや、どういうこと?」
俺は頭を抱えた。
さっぱり意味がわからん。
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