第2話

 退屈の極みのような授業が終わり、夏海は校舎三階の一番端にある『生物準備室』に向かった。この学園は何度か増改築されており、古い空き教室が各階にある。夏海が小説同好会として使っている生物準備室もその一つであった。

 放課後ともなれば三階に用のある生徒はほどんどいない。此処には移動教室でもあまり使わない部屋ばかりだからだ。

 開け放した窓から女子ハンドボール部の掛け声が聞こえてくる。この暑い中よくやると夏海はグラウンドを走り回る女子たちを見ながら思った。

 暑苦しい青春や、華々しい学園生活なんてものには毛ほども興味はないし、今都会で大流行りのギャルファッションやJPOPの流行歌だってどうでもよかった。

 赤松夏海には唯一つだけ目標、いや野望があるからだ。

 生物準備室の扉に手を掛ける。やはり開いていた。

「お、来ましたね赤松氏」

 入り口に背を向けるようにして座っていた青木がこちらを振り向いて言った。古い木製の机の上には何やら新聞や雑誌の切り抜きが広げられているようだ。

「何してんの。青木氏。それ、英語?」

「ふふふ、分かりますか。これが。昨年米国で起きた事件の記事ですよ。只今英語辞典で解読中なのです」

「ハァ~。好きだねェ~そういうの。犯罪史研究の幅が広すぎない?」

 青木圭介は犯罪史研究部の唯一人の部員であり、部長だ。といっても、夏海の小説同好会も会員で会長は一人だが。

 青木はちちち、と気取ったように人差し指を振ると、にやりと笑った。

「甘いですぞ赤松氏。犯罪とは時代が進むにつれて絶えず変化しているのです。それを研究せずにどうするのですか」

「まあ私もネタが増えるからいいけどさ……そういやあのリュックの中身ってなんなの?」

「ああ、それは浅黄谷氏が来るまでの……」

「うぁー! あっつい! アイス喰いてえ!」

 がらりと勢いよく浅黄谷が入ってきて、夏海と青木は思わず吹き出していた。

「なんだよ。二人して」

 浅黄谷が憮然としながら二人を見る。

「いいや。何でもない。タケのタイミングが良すぎてさ」

「浅黄谷氏、頼まれていたブツを持ってきましたぞ!」

「マジか! やった! 流石だぜ青木大明神!!」

 青木がリュックを開ける。中にはぎっしりと詰まったVHSテープ。

「なにこれ。エロビ?」

 夏海の言葉に青木と浅黄谷が何言ってるんだお前。という顔をした。

「馬鹿! これは日本で一般公開されてないドラマのテープだよ! 海外ドラマのテープって中々手に入らねえの!」

 ふーん。と夏海がテープの一つを手に取る。東欧の寒村で起きた猟奇殺人を捜査官が解決するというドラマのようだ。

「中々面白そうじゃん。小説のネタになりそう」

「お前が映画の脚本書いてくれればいいんだけどなあ。ミステリーでさ。俺が監督。青木が助監督」

「はぁ? ウチらで映画? 無理無理私そんな脚本なんて書けないし」

「小説同好会なんて立ち上げなくたって文芸部があるじゃねえか。何で入らなかったんだよ」

 浅黄谷が不思議そうに言うと夏海は顔を盛大にしかめた。

「あんな高尚ぶったお嬢様たちの中じゃ私は場違いだよ。なぁにが太宰治がどうだ、村上春樹はどうだ。だよ。私は純粋にエンターテイメントとしての小説が書きたいの」

 最初、興味もあり文芸部を覗いてみた事がある。部員たちの殆どは女生徒で、いわゆる文豪の作品を読み、その内容を考察するという夏海にとっては非常に退屈な活動で、面白い小説を書こうという同志には巡り合えなかった。

「赤松氏はどちらかと言えば大藪晴彦系ですからな。ダークでノワールで皮肉の効いたモノがお好きですから」

 図星をつかれて夏海はう、と声を上げた。

 高校を卒業するまでに小説の新人賞で賞を取り、このクソみたいな田舎から脱出する事。が当面の夏海の野望である。

「なんだよ。スコセッシとかカーティス・ハンソンとかおすすめは腐る程あるぞ?」

 浅黄谷の言葉に苦笑する。仕方なく小説同好会と言う名目で部の立ち上げを申請した時、教師の一人にこの教室を勧められた。

 渋々この教室に入ったら、既に彼ら二人が居たというわけだ。青木も浅黄谷も、同じ変人と言う部類で、言いたい事をズバズバと言い合えるし、夏海にとっては同じクラスの女子たちより此処にいる方が心地よかった。映画も嫌いではなかったし、何より二人とは趣味や価値観が合うからだ。

 いつだったか、ベストセラー作家になって都内でデカいマンションに住んでやる。と二人に言った事がある。浅黄谷と青木は笑うどころか「じゃあ俺ら養ってくれよ。そこの一室に住ませてくれればいいからさ」と言うではないか。夏海は照れ隠しもあり「ふざけんな死ね」と言い放ったが。

「さてさて、上映会といきましょうか」

 青木がビデオテープを古いビデオデッキに入れる。視聴覚準備室で埃を被っていたVHSと8ミリテープが再生できるデッキを、浅黄谷が無断で持ち出し、修理して使えるようにしたのだ。浅黄谷は手先が器用で、簡単な機械なら修理してしまえる特技の持ち主であった。

 再生ボタンを押し、ノイズ交じりのオープニングが始まった所で勢いよく教室の扉が開かれた。

「おーう、いたか三原色トリオ」

 酒焼けかタバコのせいか分からないがしゃがれた声によれよれの白衣で現れたのは、今年来たばかりの理科教師、黒井であった。坊主頭の額の際が上がっているのがとあるハリウッド俳優そっくりで、夏海は黒井の事を密かにブルースと呼んでいた。

「何だァ? 裏ビでも観てんのかァ?」

 黒井は理科教師にあるまじきべらんめえ口調に、そこらの不良も逃げ出すほどの威圧感と迫力の持ち主で、夏海たちは最初黒井はカタギではないのではと疑っていた。それは今でも晴れることはない。逆に何故教師などになったのか不思議でしょうがなかった。

「ぶ……黒井先生、私と言う女子がいるのにそんなもの観るわけないでしょう」

「かー! 赤松が女子なんて言う柄かァ!? 笑っちまうね!」

「うるせえな! クソ教師!」

「赤松氏! お口が悪いですぞ!」

「女子……という柄じゃないよなやっぱり」

 口々に黒井に同調する二人に「うるせえ!」と一喝して、椅子に座り直す。普段から口が上品な方ではないが、書いている小説の主人公の口調が現実にもうつってしまう事がある。今はノワール系の小説を書いているので、必然的に登場人物の口が悪いのも無きにしも非ずと言った所か。

「で、黒井先生は何しにここへ? どうせ競馬中継でも聴きにいらっしゃったのですか?」

 努めて慇懃無礼に言ってやると、黒井は「腹立つなオイ」と言いながらも白衣のポケットから小型ラジオを取り出した。

「マジで聴きに来たよこの人。仕事しろよ不良教師」

 呆れたように言う浅黄谷に、黒井はイヤホンを付けながら「いや~俺、最近スペシャルウィークが来ると思ってんだよね~」と言い放った。

「まぁいいや、上映会しようぜ」

 浅黄谷が再生ボタンを押す。幾らかのノイズが出ていたが、観る分には影響なさそうだ。

 字幕も無い、制作国の現地音声のみなのでストーリーの細かいところはわからないが、若い女性捜査官が寒村で起きた猟奇殺人を追っていくうちに、寒村を根城にする恐るべきカルト教団と対峙するという内容なのはわかった。

「うーん、この展開、どっかで見た気がするんだよなァ」

 夏海がすっかりぬるくなってしまったスポーツドリンクのボトルを飲み干してから言った。

「まぁ、この手の話は実際にも起きていますからな。米国でもカルト教団に絡む事件は多いのですよ」

 犯罪史マニアの青木が得意げに話し始めるのを夏海は「はいはい」と流す。

「カルトなら日本でも起きてただろ。あのほら、地下鉄のやつ」

 浅黄谷がテレビの画面を見つめながら言った。夏海も覚えている。テレビのブラウン管の中で、何か尋常じゃない事が起きていると息を飲んでそれを自宅で見つめていた。

「あれは非常に特殊ケースですよ。ですが、あの事件は完全に日本のテロ対策に激震が走りましたぞ。世界的に見て戦争状態でもない国での、無差別の化学兵器テロはあれが初めてですからな」

「事実は小説よりも奇なり、か。やっぱり現実にはかなわねーなぁ」

 既にブラウン管の中では主人公の女性捜査官が銃を手に教団の本拠地に潜入しようとしている。今の話を聞いていたら、なんだか嘘くさくチープなものに見えて来た。

 背後では黒井が「あァー!!!畜生負けたァ!」叫んでいて、夏海達は溜息を吐いた。

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