ストレンヂ・ドッグ・デイズ
片栗粉
第1話
「これは、中々ヤバイ事態ですぞ……」
眼鏡を掛けたひょろひょろの男が、狼狽えるように隣を見た。
「知ってる。見てわかるよ」
淡々とした女の声がそれに答える。三白眼の、死んだ魚のような女の目がその中をじっと見つめる。
「どうすんだよ。マジで。こんな、これ、マジでどうすんだこれ」
後ろにいた大柄な男が酷く動揺していた。パニック寸前の男二人をよそに、女だけがどこか他人事のような、奇妙な冷静さでそれを見ていた。
「こういう時さ。どんな風に演出する?」
女が場にそぐわない頓珍漢な問いを投げた。
「はぁ? 何言ってんだよ。頭おかしくなったのか?」
「こんな時になんと悠長な……」
二人が信じられないと女を見た。
「黒いスーツの男達なら、ここで見て見ぬ振りして扉を閉じるだろうね」
女がそれに手を伸ばした。
「そして、ラジオからリトル・グリーン・バックが流れる」
———
赤松夏海は本棚に囲まれた4畳半の自室のベッドの上で汗だくで目を覚ました。
カレンダーを見る。ノストラダムスの大予言の1999年7月まであと1週間。
何だったら物凄い大災害とか大事件とかが起きて、このクソつまらない日常をぶっ壊してくれればいいのに。と物騒な事を考えるくらいには、この日常に倦んでいた。
額に張り付く髪を乱暴に掻き上げる。うなじに張り付くあの感覚が嫌で、ショートヘアにしたが、こうなったら坊主のほうがいいかもしれない。朝からこのまとわりつく様な暑さが苦手だ。
宮部みゆきや京極夏彦、村上龍からレイモンド・チャンドラーやジョン・ル・カレまでジャンルも作者もごちゃごちゃの著作がぎっしり詰まった本棚の上にある明かり取り用の窓は雲1つない蒼さを映していて、青一色のピエ・ト・モンドリアンの絵のようだ。
「夏海。早く支度しなさい。朝ごはん出来たわよ」
古臭い一枚板のドアの向こうから、苛ついたような母、栄子の声が聞こえて、夏海はのろのろとタオルケットを引き剥がしてベッドを降りた。
「おう、夏海、おはようさん。遅かったなぁ」
既に作業着姿で食卓に付いていた祖父の剛一が食後の茶を飲みながら笑った。既に朝食は済んでいるようで、視線はテレビ台のブラウン管の中に移っていった。
「おじいちゃん、おはよう。おばあちゃんも」
祖父の食器を片付けていた芳江が「なっちゃん、おはよう」と言った。祖母も祖父も、70を超えているが若々しく見える。
祖父は地元である蓮壁町で一番大きな建設会社を経営しているし、祖母は畑仕事に忙しくしている。そんな働き者だからだろう。
「夏海、朝ごはん早く食べちゃってよ」
満杯の洗濯かごを持った母が、咎めるように廊下から顔を出した。
今日は珍しく化粧などしている。
「ああ、うん。ごめん」
専業主婦の母は、いつも食事には手を抜かない。いや、抜けないのが正しいのか。
今朝も炊いたばかりの白飯、アサリのみそ汁、出汁巻、鮭の粕漬け。祖父にはもう一品多く付く。
食事のメニューの決定権は祖父母にあり、夏海にはない。なので洋食嫌いの祖父母により必然的に和食が多くなる。母の料理は美味いので文句はないが、たまにはオムライスやビーフシチュー、朝はお洒落なパンケーキやらを食べたいのは健全な17歳の当然の欲求である。
しかしながら、それを口に出さない位にはこの家での自分の立場を理解しているので、お盆に乗せられた朝食を取り、食卓へ着く。
「お母さん、どこか行くの?」
台所の裏口から洗濯物を干しに出ようとした母に、白米を頬張りながら言う。
「ああ、はす向かいの江波さんのところ。おばあちゃん亡くなったから。今日お通夜なのよ」
「ふうん」
この狭いコミュニティ内で生きていくという事は、他人の冠婚葬祭に死ぬ迄関わらなければならないという事だ。誰に初孫が出来た、誰の息子、娘が結婚した、誰が死んだ。その噂は無線でも介しているのかと疑うほどに素早く伝播する。夏海が高校受験に失敗した事も翌日には知れ渡っていた。
夏海にはそれが、ぞっとするほどに不快で、気味が悪かった。
「栄子さん、そういえば、正平はいつ帰ってくるんだか?」
食器を洗いながら祖母の芳江が言った。正平とは、夏海の父である。父は祖父の会社を継がず警察官になった。現在は他県にて単身赴任中である。
「さあ、今の仕事が長引いてるから、夏休みも取れないって」
「全く。嫁と娘ほっぽって、しょうもねえ息子だや」
芳江がぶつくさと言いながら洗い物を再開した。本当は息子の正平に剛一の建設会社、赤松建設を継がせたかったのだと、芳江は何かあるたびに文句を言っていたが、その期待は夏海の兄の春彦にも掛かっているようで、都内の大学を卒業した後の進路をどうするのかしつこく母に聞いていた。
夏海は心を無にしてひたすらに朝飯を流し込んだ。大人になっても、同居なんて絶対しない。いや、結婚なんて絶対したくない。
「あ、そうだ、今日は署長さんと懇親会だから、俺の晩飯はいらねえから」
祖父が食卓から立ち上がりながら言った。祖父は建設会社を経営する傍らで、町の商工会の会長や警察協議会などの役員を兼任していて、役場や警察署の偉い人との懇親会や会議やらにしょっちゅう出向いていた。
「あら、お義父さん。そうですか。わかりました」
祖父がいないとき、祖母は普段からため込んだ愚痴やら噂を炸裂させる。夏海はまた祖母の愚痴を晩飯の時も聞かせられるのかと思うとげんなりと肩を落とした。
テレビに眼を向ける。若い女性記者が失踪したというニュースを淡々とキャスターが報じている。
『……警察によれば、タチバナミドリさんはとある団体への取材へ行くと上司に報告した後に連絡が取れなくなったと……』
ふうん、と夏海は出汁巻を咀嚼しながらニュースを聞く。小説のいいネタになりそうじゃないか。と頭の中のメモに書き留めた。夏海が小説を書き始めたのは去年からだが、それを家族に言った事は無い。言ったとしてもどうせ冷やかされて否定されるし、自分の趣味をわざわざ否定されに行くのも馬鹿馬鹿しい。保守的で価値観が古い大人達の頭は、洋画の登場人物風に言えば三日前のフランスパンみたいにカッチカチなのだと嫌と言うほど知っている。
ニュースが終わり、祖母のいつもの習慣である連続ドラマのオープニングが始まると同時に、夏海は朝食を食べ終えた。
「いってきます」
慌ただしく動く母と、居間で朝のニュースを見ている祖母に声を掛け、制服姿の夏海は一軒家にしては広めの庭を横切って、車庫へ向かった。そこから愛車の黄色い原付バイクを出して、ヘルメットを被った。ショートヘアにしてからはヘルメットを被るのが格段に楽になった。母はもっと女の子らしい髪形にすればいいのにと渋い顔をしていたが。
「さあ、行こうか。ポアロ」
ポアロと言うのはこの黄色く塗装したスーパーカブの名前である。今は都心の大学に通っている兄の春彦のお下がりで、高校時代にやんちゃしていた名残でエンジン部分やら色々を弄ってあるみたいだが、見た目は普通の原付と変わらない。べたべたと車体に貼られたステッカーはまるでヴィンテージの旅行トランクのようにも見える。
キーを差して、スターターを蹴る。油蝉の大合唱よりも喧しいエンジン音が響いた。
ギアを入れてアクセルを開けると、ぐんと身体と共に車体が走り出す。
淀んだ真夏の空気を切り裂くようにポアロが灼熱の道路を駆け抜ける。
「あ~あ。お前がデロリアンだったらさぁ。200年後とかにタイムスリップしてやるのに!」
青々とした田圃と山に囲まれた農道を走りながらぼやいた。数少ない友人で映研所属の浅黄谷健(あさぎだにたける)から勧められた映画、バックトゥザフューチャーは夏海も非常に気に入った。ビデオテープをダビングさせてもらい、もう何度も観た映画だ。
農道を抜け、市街地に出る。夏海の住むG県蓮壁町は北関東の片隅にある癖にすり鉢状の盆地のせいで夏は濛々とした熱気と湿気に包まれ、まるで東南アジアの国かと言う位にはうんざりする暑さで、爽やかな避暑地というにはほど遠い。原付で走っていても爽快感の欠片も無いのだ。
『ようこそ蓮壁町へ!』という国道を跨ぐ歩道橋に仰々しく貼り付けられた看板を一体どれだけの旅行者、または移住者が見るのだろうか。若者よりも老人が多いこの街で。と夏海はいつも不思議だった。
市街地とは名ばかりの人家と、商店が点在するその場所を抜けて、地元役場が名山と誇る白蓬山を望む丘に、夏海が通う光耀(こうよう)学園はあった。
学校がある丘は、一本道で長い坂になっており、そこは自転車も原付も降りなければならない。自宅が学校から遠い場合は原付通学も許されていて、そこは夏海も助かっていたが、如何せん気分は漬物石を背負ったかのように重い。
そもそもこの高校は夏海が進学を希望した高校ではなかったからだ。
本当は、もっと大きな都市の進学校を希望していたのだが、運が悪い事に受験前日にインフルエンザにかかってしまったのである。
結果はボロボロで、地域枠で推薦を受けていたこの学校だけが残ったという訳だ。
(こういう所で、運の悪さを発揮するんだよね。私は)
汗だくで坂を上りながら、一年前の自らの暗黒の時代を思い出す。二年生になって感情の整理がついてきたが、一年の時は精神的にも散々荒れに荒れ、誰も友達が出来なかったという負のおまけ付きだ。
「おや赤松氏。おはようございます」
後ろからもう一人の数少ない友人その2である青木圭介が、後ろから声を掛けて来た。相変わらず寝癖なのか元々なのか分からないぼさぼさ頭、半袖から覗く生白い細い腕と肩にはパンパンになったリュックを背負っていて、この細い身体でどこにそんな力があるのか不思議であった。
「おはよ。青木。今日も大荷物だね。何持ってんの?」
狐を思わせる眼を細め、シシシ、と特徴的な笑い方をすると青木は「放課後の部活までのお楽しみですよ」と言った。
「あっそ。期待しないでおくわ」
青木はクラスこそ違えど、部活の部屋が同じだ。初っ端に「シリアルキラーの定義とは何かご存知ですか?」と聞いてきたヤバい奴だが、世界の犯罪史研究部というカルトな部の部長であり、夏海以上に変な奴だった。
「そういえば、赤松氏の新作、完成はまだですか? 僕は早く読みたくてしょうがないんですが」
「ああ、まだ二割かな。プロットがどうも決まんねーんだわ。ミステリーか、サスペンスか」
夏海はこの学園で唯一の小説同好会に所属している。会員は夏海一人であるが、同じ部屋の青木も浅黄谷も夏海の原稿を読んで感想をくれている。
「おいっす、今日もあっついなあ」
隣に大柄な男子生徒が並んだ。大柄といっても横にも縦にも大きい。まだ朝だというのに滝のような汗をかいて、首に下げたタオルで拭っている。
「おっす。タケ。この前貸してくれた奴観終わったよ。面白かった。グロさとか、馬鹿な女キャラが絶妙にB級だけど」
「馬鹿! それが良いんだろうが! 無駄なグロ描写とバカな金髪女はああいう映画になくちゃならない要素だろ!」
と熱く語っているのが映研所属の浅黄谷健(あさぎだにたける)である。浅黄谷だと長いので夏海はタケと呼んでいる。
彼は熱烈な映画オタクであり、毎月何十本と映画を見ているらしい。映画監督を目指しているらしいが、勧めてくる映画は何故かマニアックな映画が多い。
「おはよう。赤松さん」
「あ、おはよう」
二人組の女生徒が挨拶をしてきた。夏海も挨拶を返したが、正直、名前すら朧気である。あまりクラスメイトに興味がないというのが本音であった。
学校に繋がる坂を見上げる。白い夏服のセーラー服姿の女生徒がひしめいていた。
光耀学園は元々女子高だったが、夏海たちの年から男女共学になったのだ。といっても、まだまだ男子の割合は二割程度と言う所か。
また、生徒の多くが遠方からわざわざこの高校に進学してきているのも夏海には不思議だった。
青木と浅黄谷も同じく地元枠で合格したが、彼等はそもそも高校だったら何処でもいいというスタンスである。
「おい! 信号機トリオ! お前らが最後だぞ早くしろ!」
生徒指導兼体育教師である飯島の胴間声が響いた。相変わらずボディビルダーかというくらいにテカテカした褐色の肌は日サロか何処かで焼いているのだろうか。この街に日サロなんてものがあればだが。
信号機トリオと言うのは、赤松夏海の赤、青木圭介の青、浅黄谷の黄から由来したものだ。それくらいに三人が一緒にいるというのは教師達の間でも知られているらしい。
辺りを見れば、誰もいない。夏海たち三人だけが坂の中腹でもたついていた。
「すいませ~ん」
夏海が低い声で言いながら通り過ぎる。あとの二人も同じく頭を下げて続いた。
「赤松」
飯島の声が夏海の背に追いついた。
「何ですか」
「お前、次のセミナーには行くのか」
「あ~……すいません。塾があるんで」
「そうか。たまには顔出せよ」
「はぁい」
浅黄谷が小声で「塾なんて行ってねえくせに」と呟いたので夏海はじろりと汗みずくの丸顔を睨んでやった。
「誰が行くかよ。あんなん。気色悪い」
夏海がうんざりとぼやく。セミナーと言うのは、この学園独自のカリキュラムであり、成績優秀者または模範的な生活態度の生徒だけが参加できるものだ。一度だけ夏海も参加した事があるが、訳の分からない道徳やら理念の話ばかりで、殆どの記憶がない。その講師も学校内の教師ではなく、外部から来た講師で、張り付いたような笑顔が如何にも胡散臭くて気色悪かったことしか覚えていない。
「つーか、前はそんなのなかったじゃん。何であんなの始まったんだよ」
愛車を駐輪場に停め、カバンを肩に掛けながら文句を言った。
「仕方ありませんよ。赤松氏。学校の経営母体が変わったと前に話したでしょう。その母体が創愛会なのです。そこがこの学園の経営を引き継がなかったら破綻していたでしょうな」
「大人のシューキョー観を子供のウチらに押し付けないでほしいね。私は無宗教だけどさ」
「俺は信じてるぜ?」
浅黄谷がリュックサックから2リットルの水のボトルを取り出しながら言った。
「え、嘘。マジで?」
「アルフレッド・ヒッチコック教で黒澤明教だぞ俺は」
「出た。映画バカ」
「あ、ヤバいですぞ。予鈴が鳴り始めておりますぞ!」
「やば」
「走れ!」
バタバタと走る三人であったが、その背中を睨みつける視線があった事はこの時はまだ誰も知らなかった。
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