第30話 旦那様、崩壊(1)



 私室のソファでユフィに髪を梳かしてもらいながら、タバサに疲れた身体をほぐしてもらいます。とても気持ちがいいですわ。


 と、そういう寛ぎの時間に、屋敷の中で大きな声が聞こえてきます。旦那様の声です。


 どういうことなんだ、とか、いったいどういうつもりだ、とか、なんでそんなことをしている、とか、おそらくスチュワートに向かってだと思いますけれど、叫んでいますわね。

 そして、とても、とてもとても、残念なことに。


 その騒ぎの音は、どうやらこの部屋へと近づいてきているようです。


 おやめください、とか、うるさい、とか、これ以上はいけません、とか、そこをどけ、とか、もうそこの扉のすぐ外側から聞こえてきますわ。

 タバサもユフィも手を止めてしまって、私の貴重な寛ぎの時間が……。


「静かになさいませ、みっともない!」


 女性の声での一喝。

 ぴたり、と静かになりましたわ。さすがはオルタニア夫人ですわ。


 そして、扉をノックする音。

 タバサが動いて確認し、オルタニア夫人が入ってきます。


「奥様、旦那様がお話をしたいとのことですが、どうなさいますか?」


「……執務室で話しましょう」

「執務室、でございますか?」


「……はっきり言えば、旦那様をあまり、この私室に招きたくないのよ」

「……奥様。そういうことは、はっきり言わずに済ませてくださいますよう」


 オルタニア夫人はそう言うと、一礼して出て行く。


 私はユフィとタバサに着替えさせてもらい、執務室へと向かうと、すぐにクリステルとアリーも合流して、同行してくれます。


 執務室のソファには不機嫌そうな顔を隠しもしない旦那様が座っています。いけない、イケメンフェイスを直視してしまいましたわ。


 ……あら? それほどの効果がございませんわね? 不機嫌だからでしょうか? これならばずっと、不機嫌な顔をして頂くと良いかもしれませんわね。


 オルタニア夫人が旦那様の向かい側を手で指し示すので、私は旦那様と向かい合うように座ります。オルタニア夫人の立ち位置はまるで審判ですわね。まるで、ではなく、ある意味ではまさに審判なのでしょうけれど。


「リストから聞いたよ、リーナ」


 不機嫌そうな顔の中で口が動きます。この際ですから、この不機嫌イケメンを見慣れるように努力するべきかもしれませんわね。


「君は、ダンスくらいで嫉妬して、スラーの家に圧力をかけているそうじゃないか! リーナ!」


 私は不機嫌なイケメンから、オルタニア夫人の真正面に立つ、スチュワートへと視線を向けました。


「スチュワート」

「はい、奥様」


「……ウェリントン侯爵家においては、嫉妬、という言葉に、何か特別な意味があるのかしら?」

「いいえ。そのようなことはございませんが?」


 あら、違うのね? ……でも、本当かしら?


 私はスチュワートの反対側のオルタニア夫人へと向き直る。


「オルタニア夫人」

「はい、奥様」


「スチュワートは本当のことを言っているのかしら? ウェリントン侯爵家において、嫉妬、という言葉は、何か、暗号のような、特別な意味があるのではなくて?」


「いいえ、奥様。ウェリントン侯爵家において、嫉妬は嫉妬、辞書通りの意味しかございません」

「あら、そうなのね……」


「奥様、地味に信頼されていなくて、落ち込むのですが……」


 スチュワートが何か言っているけれど、放っておきましょう。


「何をふざけているんだい、リーナ?」

「ふざけていませんわ、旦那様」


 旦那様へと向き直ります。ああ、いいわ。不機嫌な顔は、まったくクラクラしません。このままずっと怒らせておきたいわね。


「旦那様、私が嫉妬などと、そのようなことはありえません。スチュワート、何か、私が嫉妬などしないということを旦那様に教えてあげて」

「え?」


「有能なスチュワートならできます。ほら、早く。しっかり言えたら私からの信頼度は高まるわよ?」


「あぁ、もぅ……はい。旦那様、奥様は、旦那様のことを微塵も、好いておりません。微塵も、です。本日の夜会へ向かった馬車ですが、始めから旦那様とは別の馬車に乗るつもりで、かなり早めにお支度を始めてらっしゃいましたし、御者のドットのエスコートで乗り込む時に、馬車の中で旦那様のうざい自慢話を聞かなくていいなんて最高だわ、とおっしゃっていましたよ。そんな奥様が嫉妬なんてするはず、ありません。断言できます」

「なっ……」


 ……スチュワート。私のつぶやきが聞こえていたのね。これからは気を付けましょう。


「オルタニア夫人も、何か、旦那様に、教えてあげてもらえるかしら?」


「はい、奥様。旦那様、奥様は、領地での夜会と、前回のライスマル子爵家の夜会、そして、本日のヨハネスバルク伯爵家の夜会、その全てにおいて、旦那様のエスコートを受けた時に、旦那様に触れた手袋はみな、侍女に命じて厨房のかまどで焼却処分されております。本日も、先程、シェフから完全に燃え尽きたと報告がございました。旦那様とのダンスができないから嫉妬、などというのは妄言です。それどころか、旦那様に触れた手袋は汚らしいからと、焼いてほしいと、そうおっしゃいます。嫉妬というものは、相手に対する好意があって、生まれる感情でございます。奥様はどちらかと言えば、旦那様への嫌悪感しかございません。嫉妬など、ありえません」


「は……?」


 あら嫌ですわ、オルタニア夫人ったら。その話をするのね? 仕方がないでしょう? 性病の病原菌があったら困りますもの。それと、私、「汚らしい」などと口にしたことはございませんわ。「焼いてほしい」とは言いましたけれど。






  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る