君と隣りあわせて

児玉二美

全篇 (ある種クリックレス)

 その『夢』から覚めました。

 姿勢はそのまま、焦点が合わない目で俺は一点を見てた。


 飯の支度の音が聞こえる。俺も行く準備しよう。

 授業はもう、あってないようなものだ。体を連れていって机で座らせとけばいいだろ。仕事も本番は四月から。ここでオタついたら劣敗よ。



  昼が息をつき


   影が去るまで



 なぜ、このタイミンときグなのかを知りてえ。


 考え考えチャリ移動し――着くといつものところにはほかのやつのチャリが駐められてしまっている。三年になってから、ときどきこうだ。校舎の角を折れてもっと奥に場所を探した。

 鍵を抜いて靴箱に向かいながら、もう一度思いめぐらした。


 見事に遠のいてる記憶。


 たしかに近くにいたあいつ。体感時間がちがったや、いままでだと小っせえ砂時計のぶんもないぐらいが、今朝のはいやに……長くて。


 今度のは、 ‘手続き‚ のスパンと絡んでないって――どういうことだよ?

 教えてくれい、太助。真友。


 頭の中に、けだるい系ロックミュージックとどことなく相通う音色が響きわたっている。そして太助たすけ。この肩の上で、俺の頭を撫でさするおまえの手の感触、それはまざまざとよみがえる。


    ୦


「あらどうしたの、福留ふくとめちゃん。他覚徴候発現か」

 そいつ藤野は机の前に来て言うと、眠そうな顔でもって苦笑いを浮かべ、さらに言った。


「聞きたくもなるよ、いつにもなくそんな顔してりゃさ」


 俺の喉が、犬のごとくにうなった。

「なんでもグォロナと結びつけやぐゎる」


「じゃない、ウイルスじゃない。vacワクから来るんさね」


 そのスラング調がなおさら青スジ立たすんじゃ、「いー、いい、いい。そう言って、話が布教に発展するんだろ」

 おまえはへんな御教えにかぶれてるからいやなの、マジに。


 俺の親――別居中の、いや。俺とスッパリ別れた二親も、同じ団体の構成員とくる。


 地理的に、集会所は別々なんだろう……っていって交流がないかとなると、わかりゃしない。

 近年まで鳴りをひそめとった新々興宗教、御倉総神山みくらそうしんざん。校内にかぶれてるのはまだいる。藤野の彼女までが染まっている。御倉のなにがおまえらの血を沸かせるんだか知らんがよ。

「んで、どんな面してんの俺」


「いまのいままで、頭の中がヘチマになったようなお顔してたよ。俺、心配になっちゃったねっ」


 ヘチマだ? ひでえや。やっぱりおまえはひですぎるよ。


「熱はござらぬな……どうしたのかなぁ福ちゃんは」


――気持ちいい。

(認めたくないが)

 肩を叩かれたことならあったが、こいつに顔の一部を触られるのはいままでになかった。

「いいのか? 藤野。四条が見てないところで俺におタッチなんかして」


「おや? 照れてませんか? 福留ちゃん」


「そーよ、僕照れてるの。って、なるかい、いちいち。おまえ、なんで二時間目から出てきたの? それも、いつにもなくマスク着けて入ってきたよなあ」俺でさえ、マスクはずしてるのに。


 登下校に休み時間、頑強にマスクをしようとしてこなかった者のほぼ全員を占める御倉信者。授業中にはずしてたときすらあった……。それで連中は学校と揉めたりもした。

 三年になるまでクラスのちがった藤野とは、この一年間テキトーに関わってればいいぐらいに思ってたんだが。

 こいつと話すとへんに熱の入った談義になることがある。


 藤野は上着のポケットに手をやって言った。「保温だよ、これは」

 言いながら、ふあっとあくびをした。「今朝はすこぶる寒かった……残業したから一番サッブい時間に自転車漕いできたんだぜ? サミーネミー」


 寝すごされたか。


 半分に折りたたんだマスクを取り出すと、「これはそんじょそこらの ‘顔おむつ‚ とはちがってな。特殊なアマ科の植物繊維のつむぎ糸を用いて縫われたすぐれもので」


「いい、いい」

「宣伝しようなんて思っちゃいないさ。おまえに宣伝するとなったら、プレゼントしないことには気がすまなくなる。ンでもって、あいつにも、こいつにも…………と」


「ほら、鐘が鳴ったよ。席にもどれよ」


「悲しいかな、いまんとこ、俺は、俺とさつきの分で手いっぱいでな」


「たーのーむーから。着席しやがれってんだ」


 藤野ふじのけんは、年度の変わり目に四条しじょうさつきと婚姻届を出すことになってる。

 二学期の期末テストあけ、さつきは体育の授業中に救急搬送され、そこで妊娠と診断された。通学時のリスクが懸念されて、ぱたりと彼女は登校しなくなった。

 藤野は深夜の仕分けバイトをはじめた。それまでやったアルバイトとは毛色がちがくて、当初は苦戦したもよう。いずれ就労時間を増やして、当面そこでやってくようだ。


 俺は俺で、同じ会社で夕方からバイトしたことがある。二年の夏休みにはフルタイムでも働いた。教習所にいく金を貯めるためだった。


    ୦


 前の空いてる席の主は陽性が出て、自宅で療養中。解熱はもうしてて、今週中に出てこれないこともないらしい。


「しっかり飯食ったかーい?」


 言いながら前の席の椅子に、藤野が横へ足を出して座った。


「ああ」


 俺は午後カットでも食べて帰る組。特にきょうは、ほうれん草の卵炒めがおいしかった。

 のはいいんだが、今朝は伯母ちゃんが呼びとめてくれてなきゃお弁当を持って出忘れていた。この頭ほんとにヘチマになった疑惑。

 浮かせていた椅子の前足をもどして、すこし机に引く。


「どんなときでもがっつり食うよ、弁当は。俺がここにいるってのは、そういうことだ」


 どういう意味でもないが、後半をすこし小さめの声で言った。


 あの夢で真友たちに会うのはきまってコロ注した次の日だった。連動してたから日付を忘れにくいんだが、今度はどう覚えようか。そうだ、生徒手帳。

 右手を胸に当てた。生徒手帳に一日一行、見開き二ヶ月の予定表がついてたじゃないか。

 あとでなにげに書きつけとこう。


「あのね、あのね」


 布教でなければなんだよ藤野。もったいつけよる。


 藤野は、

「さつきがさ。卒業見込めそうなんだ」


「ほう」

「オンラインで補講してくれる。きょうあたり、二者面談にここに来ることになってる」


「それはそれは。もったいないもんな。よかったじゃん」


 きょうフケずに出てきたの、四条が来るかもしれなくてか。

 入り組んだ気分がもたげる。

 一年だったころ、黄金週間あけに新型コロナウイルス感染症で亡くなった生徒がいたことは、藤野、おまえも知るところだろう。


 それが中川なかがわ真友まゆなんだってこと、おまえは知ってるんだろうか。

 俺の伯母ちゃんは、真友を覚えてた……伯母夫婦宅へ、離居の荷物を運び入れたときに仲間と手伝ってくれたことがあったからだ。


 そもそも俺らのあいだ柄を、藤野は知らないって思う。夢のことにしろ――俺はだれにも話せてないんだし。

 藤野に言った。


「まあ、無理するな……って言っても無理すんだろうけどよ、頑張るよな、おまえも」

「あんがとさん。無理は全然してないよ。生きがい――って言うのが大ゲサなら、はり合いさ」


 出た、藤野節。負けるわ。


「福ちゃんは、バンドの話したのって、覚えてる?」と藤野。


「ああ。新々々新興宗教の青少年信者バンドだろ?」

 俺にも以前、声がかかったんだったが一蹴したんだぜ。


「わはは、痛いな。そっちのほうは、バンド名も決定しないうちにド亀の歩みモードに切り替わったがな。やむを得んわ」

「ふむ」

「俺がいったん抜ける申し出は却下されて……ありがたいっちゃありがたい」

「だっておまえが抜けるってのは、実質、空中分解ってことだろ」


「あん」


「ほかのやつらは華に欠ける」


「福ちゃんが俺をそう評価なさるのけ? 意外すぎてコワイ」


 ていうか、新々々新興宗教の青少年信者バンドなんざ、絵にならんっての。いっそ無期限休止にすべきだぜ。俺は心の中で思った。


 俺がこいつを拒絶しないのは、挨拶してもちゃんと返してくるところがあるからだ。

 非信者を、ちゃんづけで呼ぶ傾向あるのが鼻にはつくが、ナメてるわけでも、正義感からでもない感じがしている。

 ほかの御倉信者たちってなると、たいがい俺やなんかを侵略的外来種でも見るような目つきするから降参まいるんだよ。わかりやすいのはいいんだがな。馴れあわなくてすんだんで。


 非信者イコール味方、っちゅーのでもないけど。

 福留家の近隣には、当家庭を路地端首脳会談(て俺のいう、)のテーマにしてるかたがたがいたもんだった。遊び仲間の親までが、中にはいたんだ。



「さっちゃん、私服で来る許可を得てんだと。スカートが合わなくなって」

「あぁ俺も絶賛成長中だからなんかわかる、いまさら買い替えるかよダヨナ」


「ところで、福留ちゃんは……これからもvac受ける気なの?」


「それなんだよな。どうしたもんかなーあ」


 わざと遅めにずらしたことならある。なぜなら、そのまた次との間隔がせばめられた。

 お注射の針が大好きで2回目以降も受けつづけてきたわけじゃあゼンゼンない……。

 真友がいない現実を突きつけられて、真友とあそこで会ったのが接種の翌日だったから、次を期待したんだ。単純とも、不純ともいえそうな願いではある。

 でも、ここへきて状況が変わった。


 今回の夢は、ワクチン接種日との関係がない……接種の翌日でないうえ、直近の接種から日が浅すぎるんだ。

 したら、打つ必要性はどこに――


「『おまえが言うと説得力がない』って言われるんだろうけどさ」


 その声で、ふっとまた机のわれに返る。


 藤野が後ろ向きに椅子にまたがって、俺を見すえていた。

「ただワーギャー言ってんじゃない。自分をいじめるのはよしな。次はもう見送れ」


 言われたのは、一学期のころ以来だった。


 なんだよこいつ。『いーんじゃナイ? 打ちたいと思って打つんだから自己責任』ってつき放したんじゃなかったか?


 俺はひと呼吸した。


「今度のとこの職域接種がどうなってるのか未確認なんだわ、考えてみたら。まあ、慌てて打つことはないな。それそうと、おまえの仕事先っていま検温はやってるの?」

「けんお――あぁ、モニターがあるにはあるな。素通りしてるけど」


「ふーん。だよな、一旦2類から引きさげられたらそうなる。計れるようにはなってるのね」


「もしも熱が出りゃあ連絡はするけどね。なんで?」


「今度のとこが自己申告制だったからどうなのかなってさ」

 と俺は答えて言った。「俺が夕勤してたころは毎度毎度着いたら計って、紙に記入してたよ」


 高二の夏にはそれがたち消えたから、管理の杜撰化との区別がつかないままで契約満了していた。


「賢――」


 前側の入口から、男子の呼び声が人もまばらな教室の空間に響いた。


「おう、行くよ」

 と藤野が反応して、椅子をもどす。


「じゃな。福ちゃん、変異株はすっかり弱体化してるぞ」


 安心させるために言ってくれてるのはわかるがな、猛威が強力なら打ってよし、か? 聞きかたによっちゃ、そうもとられるぞな。

 それって、一〇〇パーセント感染しないっつー話ではないだろ。

 一〇〇パーセントこじらせないって意味でもないよな。


 今後打たない決心をしたとは、俺は言ってない。

 正統的とかってことじゃなくてさ。俺はそのへんが判断できるほど情報収集してもいなけりゃ、おまえら御倉信者のごとくには、世にいう陰謀論なるものも奉じてない。

 人類はいつ牛耳られたよ。ホロコーストの再来ってナニソレ、の地平なんだよ。俺はね。


 今週はまた、内定先の実習に行くことになってる。

 俺は生きているので、生きてくために職を得て働く。


 『大卒は使いものにならん』って、昔俺の父親が言ってるのを聞いた。

 会社選びをミスったんだ、ってそのときは思った。そうでないならそいつはきっと俺のように、なにがなんでもこれをやりたい、ってものが見つからない人間なんだろう。


 出世とか栄進とか、なくていいよ別に。


    ୦


 校門を出かかったところで、反対方向の空をちょっと仰いだ。


 真友が暮らしてた家は出身の小中学から見ても、俺の親元宅より手前にある。俺が伯母ちゃんちに移り住んでからは、徒歩で三〇分強。五倍かかるようになった。

 通らなくなってずいぶんになる。

 行ってみようか。


 いや、やめとく。

 生前の真友んちの前まで行かないと夢で真友に会えない、ってパターンが形成されるのは勘弁してほしい。


 俺は左に向けペダルを踏み出した。


 中川家に年賀状は出してないが、就職がきまった時点で、近況報告のハガキを出した。返事を期待しなかっただけに、おばさんの字でハガキをもらったときは単純にとても嬉しかった。よくあんな俺のヘタ字に。

 驚いた中に、新しい住所から届いたってことがあった。

 出すのが遅ければ転送されなかったかもしれないんだ。届いただけでも超絶ありがたい。


 ていうか、真理に気づいてしまったよ。

 保障がないんだ。行けばこの先――

 必ず会えるっていう保障が。


「福留くんだ。ひさしぶりい、元気そうだね」


 塀づたいのところで、ひとり歩いてくる女の子が俺を呼んだ。

「お、四条じゃねえか」

 前よりか低いとこで髪をひとつに結んで、藤野のとおソロいっぽい顔おむつ……いや、マスクを装着している。保湿か?


「超しばらくだーな、バスで来たのか」

「だよ、始発だからずっと座ってたー。そのマフラーいーねえ。合ってる、色といい柄といい」


「あ、面談なんだよな? きょう聞いたぜ、補講であがれるんだってな」


「そうなの、四月に食いこみそうでね。ひときわ社会弱いのがふがいないわ」


 校門のほうを振り返った。


「やつのお出迎えがないな」

「あたしが言ったの、中にいなさいって。バスは絶対遅れるんだから。そう、福留くん、よかったらこれ食べてー」


 小さなチョコバー。に、リボンシールがついてる。


「おう。ありがとう」


 サドルからケツをおろして受けとった。

 ポケットの飴をやろうと思ったが、何日か前につっ込んだ飴だしノンシュガーだからイヤミになってもナンだ。

 バスの混みぐあいがどんなだったかは知らないが、これ以上無防備に……俺に接近してくれるなよ、四条。


 御倉の信者は、コロナ既接種の人間と密になると健康被害を受けるって、本気で思ってるはずだ。被害によるとする皮膚症状の写真は俺も目にしちゃいる。

 とりあえずいまの俺――顎から下は着こんでるけど。その有害物質とやらが繊維の目を通りぬけるのを、想像しないわけにいかない。


「放課後なのに、またバラまくのか」

「ふふ、ことしはさらにピンポイントでね」


 四条さつきとは、二年でも同じクラスだった。

 去年チョコをくれたとき、この子は日ごろの感謝って言ってた。女子にも配っとった。

 機に乗じてるにすぎんのだよな? 年度末にも近くて。聖バレンタインデーのいわれ……古典古代に殉教した聖人だとか、近代日本に風習をもたらした菓子メーカーだとか、未来の大人にチョコレートを配った進駐軍人だとか。そういうのを、つべこべ持ち出すのはよすんだ。


「一緒に暮らすのは、これからか」

「んー。いまんとこ、なんかあいつがこっちに顔見せてくれてる。毎日必ずじゃないけど」


「ふむ」


「具体的にはまっさら状態なの。しばらく親と同居するかどうしようかも……ねえ、そういえば、あたしたちってみんなひとりっ子だね!」


「そういや、そうだな」


 真友もそうだった。


 さつきんちは、親が職場恋愛なのと、子供が生まれてから御倉に入信した点が、俺のとこと共通してる。

 ただ、さつきの両親は彼女が中学のときに御倉を離れている。


「この子はどうなるかなァ、なんてね。さてー、行ってきますか。まだ一五分前、余裕余裕」

 とさつき。


「階段とか気をつけな。ちゃんと手すりにつかまるんだぞ」

「あはは、大丈夫。ありがとうね。福留くんも気をつけて」


 パンツに、ビット靴ないでたちで、彼女は先を見て歩いていく。

 お腹の様子は、言われてみればそうなのかなって感じで、ちょっと俺には気づけなかった。


 今度のことはともかく、へんな宗教さえやってなけりゃかぎりなく普通なのにな、四条。

 漫然と引きこもってはいないだろうから、きっとなにかやってる。アンケートに答える在宅ワークってガラでもなさそうだが。



 しかし、おかしなもんだな。藤野を見ても思ったが、四条がマスクすると違和感ある。

 今後顔の一部にするつもりじゃなかろ?


 同じ違和感を覚えた記憶はないから、体育の時間に倒れたときも、四条はマスクしてなかっただろう。

 運動部には、マスクを着けて走りこんでて、救急車を呼ぶはめになったやつがいる。はたまた彼女のようなケースもある、この……ままならなさ。


 学校から一番近いコンビニの前では、ノーマスクで通してきた顔ぶれがきょうも買い食いをしている。在学中見てきたかぎり、店はずっと黙認していた。アホクサい……


 バイトしてたところの宅配の自転車リヤカーが躯体をゴトつかせながら、滑るように俺とすれちがった。


    ୦


 台所の洗い桶に、箸とともに弁当箱を浸した。


タクちゃん、おかえり」


「ただいま。洋子ようこ伯母ちゃん、朝はごめんね」俺は言った。


 俺あてに届く郵便物や宅配物は、みんなここん家に配達される。

 だから、町名番地のあとには ‘尾形おがた様方‚ がつくって仕組み。


「なんともないならいいのよ。心あらずだったねえ」

「はは、きっと朝だけ。ありがとう、ごっそさまでした」


「お昼近くに、お母さんが来てたんだよ。議員さんのチラシを置いてったわ」


「あ、そう」


 義伯父ちゃんに見せてから捨てるかきめるんだろう。

「懲りないな」


 最低月一やってくる実の母親。まもなく養育費を渡す必要もなくなるぜ。せいぜい、すとれーと水で割らずに成育したことに感謝するこったな。


 俺が会いたがらないからではあるが、高熱で寝こもうがなんだろうが放置されてる。

 コロワクの副反応ゆえ自業自得だヴァカめ――ぐらいに思ってんだろうよ。

 今度親と顔を突き合わせるのは、どっちかが……俺かやつらのどっちかが死んだときかもしれない。



 伯母ちゃんが化学物質過敏症だとかで、人体への負荷を抑えた洗剤使ってるから、洗ってもらってる衣類は実のとこ香料臭くないのが気に入ってる。


「そういえば、このうちも家の中じゃマスクしなかったね」

 と俺は、襖の柱に手をかけて伯母ちゃんに話しかけた。


「そりゃそうよ。咳とかやばいならまだしもよ、効果のほどなんて、ちょっと考えればお母さんじゃなくたってわかるもの」

 と干し物をたたみながら、俺を見て伯母ちゃんは言った。


「うん。おとなりの奥さんもしないんだろうか」と俺。


「はずしてたでしょうよ、ごみ出しのときにしてなかったんだもん。郵便受けもね」

「知らなかった」


 隣の泉谷いずたにさんは清掃パートや児童見守り隊の活動なんかをしてて、ノーマスク姿を見かけたことがない。

 俺がここに移り住んだころにはすでにひとり暮らしになっていた。

 通話手段がいまだに黒電話オンリーなのは知ってる。


「形だけの遮断でも、気持ちのものだと思うのよね。うつさない、うつされないっていう。そんな願いの意思表示だわよ」


「うん、うつしたくない――うつされたくないね」

 俺は伯母ちゃんの考えにきわめて近い。


 マイクロ飛沫、煙霧質……呼びかたいろいろのようだが。

 二メートル離れたところに歩速で移動、そしてそこに停滞する “そいつ„ を吸いこむのって、容易にシミュレートできやしないか?

 長時間同じのを着けてりゃ不衛生なのだってわかりきってる。俺は午後になっても替えないほうだけどな、もったいないから。

 とにかく俺、ビンビン……いやピンピンしてるよ。


 洗面台で鼻の穴をすっきりさせたついでに、鏡の自分を見た。いつも髭剃るの、えれえかったる……。俺だめ。おれゎもうだめ。髪の毛の色いじるとか以前に、髭のばしたいンじゃ……。剃るけど。

 左右反転像の、見ようによっちゃあイケてるこいつは――

 母親似と言われるが、父親の血も、等しく引いてるのがわかる。


 ため息が出た。


「真友」

 オレたちハ、こんどイツアエルノダロウ。

 故人と夢で会うのは、俺があいつらの息子だからっていう……わけわからねー特異な立場だからなのか? 俺たちふたりのあいだのことだから、そうは思えないし思いたくないンだな。

 御倉のやつらをうらやましく思うときは、ごくごくたまにあった。真友はマスクしてたって意味なかったんだから。



 もとは結婚したイトコの使ってた、この部屋。住みついてしばらくは落ちつかなくて、個別に真友を通すことがついになかった。

 ラジオの電源を入れる。


「 “キリスト・御仏とともに。この番組はみなさまの道しるべ、御倉総神山の提供でお送り„ ――」


 速攻チューニングダイヤルを回し電源を切った。


「くっそ。15時前かよ」


 ベッドへ体を投げたとたん、鈍い音をともなって、窓枠で打った頭に痛覚とジョリ感が来た。あぁ、ああ。ふんぞっても――うつ伏せっても うずくまっても――ろくなことがねえ。起きあがって首を振る。

 ベッドの上方を頭にして横たわった。


「うたた寝のあいだだけでもいいから。会いたい。糸デンワでもいい。おまえは……ここにいないの? 元気でやってるんなら」


 目を塞いでる腕を離せば、天井があった。


 幸せにしてるならいい。


 ここに、物理的に遺っているもの。

 二枚のバレンタインのカード。どっちも葉っぱの形をしている。

 手編みの帽子が入った袋。『寒くなったらかぶってね』って、四月になってから受けとった。


 それから自分の機種変前のスマートフォン、プラス未使用純正バッテリー……以下割愛。

 置いてる写真立ては、昔の仲間に交じったレアめのショットだ。


 思えば、中三のときだけでもあいつの誕生日とホワイトデーにそれらしきものを渡しててよかった、なにもしないよりは。一応よろこんでくれてた。


 半月ちょっとのあいだ通学手段が自転車に切り替わったにすぎなかったような、あの子の高校生活。

 俺が死んだら この記憶はどこへ行く


 あたりまえだが、その年も俺の誕生日は四月二一日だった。

 曜日は水曜だった。

 週末に会えなくなると――――月曜になっても会えないと、俺も思わなかった。


 悠長に脳内で、連休の計画なぞおっ立ててたんだ。

 たしかに鼻をぐずらせてた。

 『とうとう花粉症かも』って本人は言っていて、俺もそのくらいに思ってしまった。

 汗の吹いた額が目に焼きついている。

 環境の変化が近因の汗ではなかった。


 『帰るぞ』って教室で声をかけたら――顔をあげ、何秒間か不思議そうに俺を見て『卓ちゃんだよね』って言った。

 それに対して『眠いの?』ぐらいしか口に出さなかったのは、せめてもの救いだ。


 みんなコロナウイルスのせいにできれば、どんなにか。


 わァってんの。罪悪感 ≧[大なりイコール] 喪失感なのは。



「いいよ、いいよ、それくらい。私にやらせなさい」


 飲んだコップを洗おうとすると、伯母ちゃんが分け入った。


「おねがいします。いや、にんじんジュースだからすぐ落とさなきゃって思って」

「今夜はカレーにするのよ。米粉のカレールーなんてあったから、合わせてみる」


「うほほー。カレー。まってまジュル」

 なんでもおいしいけど、伯母ちゃんの料理の中じゃ、俺はロールキャベツとシチューが好きだ。

 母親の姉妹なのにはちがいないけど、最初のうちこそ異郷の味覚……ってったらいいのか、そんなんだった。


 家を飛び出してかくまってもらったとき、義伯父さん、それから伯母さんが一肌脱いでくれてなかったら、いまの俺はこうしてない。


 本当に、感謝はしてるんだ。


    ୦


 夜、神社の参道の夢を見た。



 追憶が生む夢。見ようって思って見れるもんでもないけれど。

 こういう夢ならわりとちょくちょく見る……。三が日はよけたんだったね、二度目で、最後の初詣。オミクジ二本とも大吉だった。



 真友が俺を指差し、声をたてた。


「あーっ、笑った。あっハッハ、笑ってる」


 巨大なみたらし団子のような焼きまんじゅうを、ただンマンマしてるだけでいきなりそれ……。


「なあんだよう」


 俺は口をとがらせ、顔をつき出してみせた。



 田んぼに畦道がある風景っていうよりも、とてつもなく広い道の……川にたとえるなら中洲みたいなところに田んぼが位置する……そんな感じのする場所。


 俺が説明しようとするとそうなるところに、真友たちがいた。


 ひとりの小さい子供が、真友と連れだってる。


 そこにはまず、電柱が見あたらない。だから電線にとまっている雀や鳩っていうのもない。

 だけどササの形した草が生えてるし、日本語で話ができてるから、外国にいるんではないって気はした。

 意識を向けると、楽器や虫の声みたいな音色が代わるがわる、町内放送のようにどこからともなく流れている。

 いわゆる『あの世』なのか? そこが『天国』なのか?

 そんなことを考えるのは、いつも ‘起きて‚ からあと。


 広がる道と同じように、川原の地面はハイドロカルチャーっていったか、あの鉢の中の粒を思わせるような感触がする。

 気がつくと俺は木の根もとにもたれてたり(四回目のとき)、歩いてたり(五回目のとき)して、地面の感触や空気感で同じところに来ていることをさとる。

 はじめてのときは、子牛と一緒に幼い子供が、あおむけの俺を覗きこんでいた。

 足もとにだれかもうひとりいて、それがだれであるのかを直感したが、なんとなく、俺はのそっと体を起こした。


 しゃがんでいる彼女に、子牛が歩み寄る。

 その真友は、年上に見える。二十歳ぐらいに見える。

 こっちに目をもどし、小首をかしげて顔一杯にほほ笑んだ。

 つられるように、俺も手をあげ、ニカッとしたかなって思う。


 会えたことには俺はぶったまげたかもしれない。だけど、おまえがいることには、驚きがなかった。


 邂逅記念日って呼んでみている。

 全部きのうのことのようだよ。



 子供のことを「太助」って俺は呼んだ。

 シャバ、つうか現実……の俺の肉体のほうは2回目のコロナワクチンをしたあとの熱発と全身痛でクソのたうちまわっていたが、タスケテェェだった心の状態と、その呼び名とは関係ない。

 呼べないと遊びづらい気がしたので、考えておいたんだ。

 本人は抵抗を見せず、反応も示してくれる。

 真友にも了解をもらえた気がした。したがって、この子の性別が実際どっちなのかは、俺はろくに気にしてない。現にこいつは色は白いし……髪を結わえちゃったりなんかもして、判然としないんだ。


 俺はこう解釈している。真友の口数が多くないのは、言うほどでもないことばかりだからだ、って。

 よそよそしいんだったら、なにより近づかんだろうし。


 真友が「抱っこしてあげて」と言う前に、俺が太助を抱きあげるだろ? そうすると、まなざしでもって、真友が「それでいい」って言ってくれてるように感じてるのだ。


 一度だけ、彼女が俺に……短くではあるけど、なんとも説明くさく語ったことがある。

 やっぱり二回目のときだった。


卓史たくしは現実に生きているから、時間の制約があるのよね。わたしは大丈夫よ」


 それから三回目までが長かったのなんの。よくメンタル維持したってくらいに。


 なまじ一度もこういう夢を見なければなにを望んだ?


    ୦


 あれだけ一緒にいたつもりで、俺は濃厚接触者ですらなかった。


 一日での家族葬と聞き、生きてた真友の最後の姿に会うには、家の人にともなって安置室に行くしかなかった。


 中川のおじさんと約束したセレモニーホールの駐車場まで、急ぐでもなくひとりチャリを走らせた。

 ひと月くらい前にも、このホールの前を真友とふたりで通った。こんな用事で中に入ることがあるとは、思ってもいやしない。


「五月病か? やつれちゃってまー」


 おじさんにそう言われた。


「え。そ、そかな」


 ヒジで鼻頭を覆う。なんの修練だ、って思いは地平線下に、だれひとり『やつれ』たとまで言わない。


「真友のほうが全然そのまんまだぞオ。俺と同じでな」


 おじさん、俺は悶々としてただけで。苦しんでない。死んで、ない。


「納めてる袋が顔の部分だけでも透明で、よかったっちゃよかったよ」


 袋……


「俺たちでさえ最期まで会えなかったんだ、全身すっぽりなんて勘弁してくれって、なあ」


 病棟の受付で門前払いだった子もいるらしい。

 同窓会の幹事会が有志によるお香典を集め、俺は会計の菊地きくちのところにだけ直接出かけて、よろしく言ってきてたのだった。


 皆嘘だって思ってるよ。


 二週間。細かくは、十三日間会わなかった真友。


 おまえは自分で気にしてた、しかめ眉ですらない。


 おじさんが用足しに行ったのをいいことに、口にしてみた。


「なんでそんな顔してんの」


 いい夢でも見てたか、ん? くすぐるかしたら――

「ごめん。思わず言っちゃったよ。なんならこの蓋」


 破壊して 実行したいけど。


 廊下の足音が近づいてきて、ノックはなしにドアがあく。ホールの人ではなく、もどってきたおじさんのほうだ。



「卓坊は学校挟んで反対側なんだろ、いま」


 おじさんの声が、壁に反射した。


「伯母夫婦のところに」

「お母さんからも聞いたよ。新年早々、ちょうどわれわれが法事で家空けてたときだったんだってな、家出をしたの」


 息を呑んで、うなずく。


「わざわざありがとう」

「こちらこそ、ありがとうございました」


「せっかく高校も一緒になったのに、残念だ。おりいって、卓ちゃん、ここだけで話す」


「はい」


「真友には、赤ちゃんがいた」


 柩を見た。が、体をとっさに向き直せなかった。


「らしい。うちのやつが、書きつけやら、日記に残してあるのを見つけてね。様子がちがうのは気づいてたが、それで納得したと」

「おじさん」


 なぜ僕に話しているの


「相手がだれなのかは、つきとめられない」


 相手の男……


「ただ、書いてあることから察するに、五ヶ月目に入ってた……なんて聞かされたって、君にはピンとこないな? 俺はそういうのあんまり知らない」


 その子の父親……


「ごめんよ。行こうか。卓ちゃん――行こう」


 バレてる……と思った。


 俺は、中川のおじさんに言わなかった。


 自分をかばうためなのか、おじさん、おばさんをこれ以上傷つけないようにするためなのか、それはわからない。


    ୦


 ただリュックに着替えやら詰めこんだだけの、俺は準備の悪い男だった。


 『結ばれた』って述べれば簡潔だし美しいだろう。

 だが、俺主観ではそっちのほうがえげつないんだ。彼女の体の内側の襞が俺のをつかまえたのは、このとききりだった。敷くためのバスタオルを取ってきて、ついでに電気を落とした真友は、ある意味準備のいい……女だった。



 呼び鈴を押したとき、出てきた真友はリボンタイと第一ボタンをはずし、ひじの下まで腕をまくっていた。カーディガンは着ていない。


「なあに……重たそうなのしょってー」


 俺は真友の胸もとを指差した。


「おまえ、なんか色っぽいぞ。物騒じゃないかよ」


 季節はずれの陽気では……まぁ、あった。


「帰ってきたばっかだもん、塾から。ベッシーに草あげてたの。入んな入んな」

「ほんとにあがるよ?」


 妙な念の押しかたをした。


「うん。お腹すいてる? うどんならすぐだよ」


 リビングの続きの空間で、うさぎが生牧草を食んでいる。俺もここでうどんをいただいた。


「おかか風味。ンま」


 この時間に、ふたりだけの屋根の下。

 真友はみかんともう一人前のうどんを持ってくると、俺の向かいへ九〇度移した座椅子で一緒に食べはじめた。

 ニマニマと俺を見る。


「じょうずに食べるね」

「なんなんー」


 からかってるみたいじゃあないけど、それこのあいだ、年あけ前にも言った。

 スープを飲み干した。

 ここから北西微西方向に移動距離で七分ほど行った地点での、事情を話す。


「マスクを買うんだったら、小遣いを渡さないとよ。正常な生活できないじゃん……おいら、限界も限界灘」

「まじに、どうしようと思ってるの」


「近場の親戚に相談してみる」


「うちじゃだめかな。卓ちゃん」


「おじさんたちいないし、疲れて帰ってくるだろ? それに……身内の恥さらしだ」


「ねえ」


 擦り膝で寄ってきた真友が、俺のおでこを猫のように頭突いた。


「あたしたち、受験ですべったら、別れわかれになっちゃうね」

「すべりどめが有効なの、ふたりとも落ちたときだけ……だったりするか。ははは」


 真友は食い入るような目になった。


「俺だけ落ちたら、迷わず第一志望行けよな」

「やめてよ」


「まーゆ、いままでは義務教育だった、てぇだけじゃんよ。な」


 顔に手をのばす。


「もともと背伸びはしてないんだ、まだ合否もきまっちょらん……」


 唇を触れ合わせた。


「入るとこがちがったって、俺、補うんだから。な」

「卓――ひゃ……っ」


 フェチだかなんだか知らんけど、俺は真友の膝裏を、特に立ち姿勢なときに撫でるのが好きで。このときの真友は、反射的に俺の肩につかまった。


 俺たちに、沈黙に耐えられないってことはもともとなかったよな。勉強中とかでなくても、何十分間でも無言でいられる。ひどくいまは話し足りないのを感じているけど。


「もうすこししたら、親戚にショートメッセージ入れるよ」

「卓ちゃん。いますぐよそぅ」


「ま? 真友ー……」

 泣いてやしないよな。普通でいてくれ。


「おいて……かないで。ねえ」


 ケージの中のうさぎだけが近くにいた。うさぎって動物はかなり近眼らしい。空は飛ばないほうが無難だ。


「おいてくんじゃないよ、俺は勝手にここに寄って、あげてもらって」

「外寒い」


 真友のこめかみの髪をそっとかきあげた。俺の全身は小刻みに、本当に震えてた。


 そうだな――寒いな。


 ここでこうしていなければどこで震えてたんだかな。

「うさぎ見してもらって、うどんごちになって」


「卓史」


 たくさん頬擦りをした。




 頭を冷やしてたら深夜になったって口実にした。


 イトコのサトちゃんが、伯母さんや俺たちの隣区に住んでいる。まず理ちゃんに連絡をつけた、あの朝だった。



 合格発表もすんだころ、ひさしぶりな真友の部屋で接吻を超えるセックス未満のことをしたが、そういうのは……そういうのも、そこでとどまったきりになった。


    ୦


 葬儀の日程も過ぎ、俺が最初にしたことは、抗体検査を受けることだった。

 正確には、バイトの給料が出てから受けに行った。

 俺はずっと無症状だったが、真友にうつした可能性が気になった。


 ほかにしてたことっていえば、皆既月食を見ようとして天気のせいで見れなかったり。

 タイムスリップものの小説に没入した。


 抗体検査では、過去に感染しているかをチェックできる。

 結果はマイナスだった。

 いまになって調べても、不正確かもしれないが、気休めにはなった。

 じゃあ、プラスだったらなにをどうしていたんだ? って話ではある。


 交差点の歩道だまりのところで真友と。

 いつものように別れた。あまりにもいつものように別れて、いつものようにやりとりしたメッセージで終わった。


 コロるまで、よく平気だったよな。手伝ってくれた荷物にだって、重てえのがあったじゃないかよな。

 はた目にもよく食うなぁとは思っていた。

 なにを見て、真友になにを求めてたの俺。あいつ、なにも言わなかった。いかにも楽しく振るまって。

 真友は俺に言わなかった……


 俺がまちがえて生まれてきたんだとしても

 おまえは死んじゃいけなかった


 医学的症状についてを調べてもみた。

 食の好みに、変わりはないように見えていた。

 調べる中で

 妊娠すると、免疫力が低下するものなのだとも――

 思い知った。



 同じころ、俺にはコロナワクチンの接種券が届いた。


 俺たちは、なんだったんだろうね。


 まにあわせのロースニーカー。

 借りてプレーするゲーム。


 きつくしめない薄いバンダナ。


 なんだったんだろう。

 予習しなくてもおとずれた朝。ノートに取りきらなくても、消された板書。


 はかどらせるために会う。

 会うために、小脇に抱えた勉強道具。



 不自由だった。


 こうしているこの俺も。



「ただのノリと勢いだったってんなら、世の中全体、そうじゃねえのか」



 人はひとりで生まれてくる。

 でも、生まれるときは ほんとのひとりじゃない。


 熱帯夜の続いた日に、ほんのすこし聖書を、無料のオンラインで読んだ。


 『父よ、もしそう望まれるなら、このさかずきをわたしから取り除いてください。それでも、わたしの意志ではなく、あなたのご意志がなされますように』


 イエス・キリスト、彼が処刑される前夜に山で祈る様子――そこだけがやけに刺さった。

 ノンフィクションか否かは、あんまり関係なかった。文字から想起するイメージは、すでにそこで史実ではない。


 祈るイエスをよそに、弟子たちは居眠りをこき。

 あんなさみしさがあるか? 俺のは孤独のうちに入らない気がしてしまう。



 中学の担任から預かった封筒を、母校が一緒な人間の分まとめて引きうけ、職員室で渡してきた日。

 もどると教室は空っぽ。靴箱にも真友がいない。


 靴に、校庭の砂が入った。自転車置き場まで行く。手前で足をいったんとめて、そこで速度をゆるめた。すっかり葉桜になった木の下で、あいつはスマホをいじっていやがる。首を小揺らしして、画面に集中してる。


 この姿をずっと見ていたいと思った。


 自分のスマホのバイブが鳴ったが、かまわずに本人に歩み寄った。



 そうして、自転車を駐める位置を動かせなくなってしまった。

 あたりまえだが、同じ桜の木のそばに真友はいない。



 いた人がいない。



 クラスがちがって、名前も知らない藤野賢の姿を、たまに見かけていた。

 校庭の御倉ミクラ信者の群れに現れるが、長時間つるんでるようでもない。

 天然かなにか知らんパーマっ毛以外、きわだった特徴があるわけでもないが、なにか目がいく男だった。

 そのうち、同じ女の子といるところをよく見るようになった。


    ୦


 元号が『令和』に変わった、二〇一九年。中二の初夏。中二だから……僕十四歳。


 コロナパンデミックはまだ始まっていない。

 のちのち、四年後に藤野から聞かされて知ったことでは、この年の夏に、PCRの技術を発明したアメリカの生物化学者が亡くなっている。


 気にもとめてなかったが、前年の二〇一八年には在イスラエルアメリカ大使館がテルアビブから『エルサレム』に移転している。

 イスラエルの国は、一九四八年に独立宣言をした。それまで、のあいだ、ユダヤの民は国土を持たなかった。


 そうした事象に、聖典ソースの意味づけをなす存在が世の中にはある。

 俺の親だとかが属する宗教もしかり。



 映画が終わって、首を回しながら廊下をロビーに向かう。3Dメガネで、耳が痛くなっちまった。

 すぐ後ろで、女の声が呼んだ。


「たっくちゃぁん」

「なんだよ……おどかすなよ」


 息を切らす真友の顔があった。

 その真友の、口が動いた。


「ベンチで食べかけてるトコで、大笑いしてたでしょ。聞き覚えのある声だと思ったら」

「よくわかったな……」


「あんだけツボってたの、卓ちゃんしかいないよ」


「こんなことってあるんだな」


 俺に見せたチケットの半券によれば、左へ隔てたすぐ後ろの列に真友はいたようだった。


「ストーキングじゃないもん。購入済みの画面――」スマホを出しそうな仕草の真友に、

「いいよ、俺は見せるのめんどい」と言ってとめた。


「卓ちゃんはひとり?」

「ひとりで来たよ」

「変わってるなあ」

「おまえはなに、連れをさし置いて俺に声かけたとか?」


「最初からひとりよ。泣けるシーンで泣きやすいでしょ」


「泣いたの」


「んーん、全然泣かなかった」


「おまえだって変わってるよ。俺は前作見てなかったから、ストーリーが見えないとこあった」


「あたしは二作目も、TVで途中からちょっとしか見てないや。四年生だったよね、―壷の上に林檎が載って在る驚嘆―」


「そうそう。んで去年あたりから気になって。HDRハイダイナミックレンジ上映館ってどんなもんかって思ったし」


 真友は目を閉じ、息を吸いこむ。

「あんな真っ暗闇なんだね。どこにいるのかわからなくなった」


「なんか俺いま、遠足とか林間学校の気分」

「うん、いつもとちがうんだもんね。でも、ほかにまわりにだれもいない」

「こんなとこであれだ、そのへんどっか――あ。金。俺持ちあわせがないわ、ははは。見るのだけが目的で来てしまったからのう」

「いくらか貸せるよ」


「俺に貸したら返ってこないって思わなきゃダメヨ? おいら、まっすぐ引きあげるよ」


「じゃあ、一駅歩いてかない? あたしも運賃すこし浮くし」


「そう……だな。そんくらい、ぶらつくのもいいかもな」


 ふたりで改札口前のコンコースを抜けて、西口を左折する。


 真友がめかしこんでなくてよかった。


 異性との交際、という意味で『つきあう』って言葉を使うのは、どーも苦手。

 それでもあえて言うと、俺たちがつきあいはじめたのはこのときがきっかけだったって思う。

 『好きだ』とも、言ったことがない。

 だって、好きも嫌いもなくね?

 そんな屁理屈も手伝って、言わずじまいだった。


「あたしもいまは帰宅部だからね。うちにいても、これといってやることがない」

「もどればいいじゃん、バレー部に」

「やだ、あんな鬼顧問のとこ。卓ちゃんは知らないからそうやって言うんだよ、さらっとー」

「けどけど、走るのはいまも速いんだろ? 去年のリレーのアンカー、正直、俺見とれてた」


「そうなの?」


「ビリだったのを、みるみる抜いて一着だもん。そらほわーッとなるわな」


「へへ。なんていうか、取り柄っていうか、逃げ足疾いのよ」


「ウソつけー。その脚で、なんべん蹴りこまれたか知んねー」


 本当いうと、体育の時間……おまえのブルマから覗けてるもんがあって何人かの男が『中川がはみパン』ってどよめいたとき、俺は拳を握ってたぞ。すかさず自分から教えてやれなかったってことが、俺はなによりくやしかった。


「暴力はいけなかったよねぇ。あ、ねえねぇ、二人三脚したよね。あみだできまって」

「ま、相方が福留クンってことで、戦果はふるわなかったな」


 真友が、足をとめた。


「『タラヨウ』だって……」


 真友は植えこみのしげみの中の、金属の説明板に目を落とす。


「郵便局のシンボルツリーです。葉の裏に……先のとがったもので字を書くと……」

「ふん? 字を書くとその跡が黒く残るので、古代インドで手紙や文章を書くのに用いたタラジュ? の葉になぞらえてその名が……ふーん、面白いな」


「『はがきの木』かー。花がいっぱいついてる。地味にかわいい」

 と真友は、黄色っぽい花のその樹木にスマホを向けた。


 俺は枝に手をのばした。「これか。なんかツルツルした葉っぱだな」


 根元からちぎって取った一枚を渡す。


 真友は「ねえ、このまんま直に願いごと書けば、緑の短冊だね」と木を見やった。


「ははは、書ききれねーし。あ、試し書きあるよここ」


 『幼なじみ』っていえばそうなんだろう。でも、近所を駆けずってたやつらは、年がバラバラだってみんな幼なじみだ。


 中学にあがると、とたんに俺らは外で遊ばなくなった。男は男、女は女でグループで固まることが多くなった。

 真友も学校だと俺を名字にくんづけで呼ぶことが増えて、俺はめっきり女子を下の名前で呼ばなくなってた。



 最寄り駅へ帰着した。俺は改札出たところのフリーペーパーを引き抜く。

 駅前の景色が、なんだかひと回り小さい。


「こういう日に一枚でも宝くじ買ったら、どかんと当たるかもしれないなァ」


 売り場を眺めながら言ってると、真友が俺の背中をトトンとつついた。


「ねぇ、『休憩 ¥5,100―』だって。入る?」

「おのれきさまァー」


    ୦


 腰をおろした川沿いの原っぱで、カーゴパンツのポケットを探る。キーホルダーに使っている折りたたみのミニナイフを眺めた。

 鍵が取れてる。夢でなかったら、慌てて探してるところだ。


 ハーフパンツにグルカ風のサンダルを履いた太助が、一頭の子牛を乗せたソリを引いてる。


「卓史っちゃん。ちょうどいい。見ててー」


 二級河川未満くらいの川の平坦な岸辺を、下流に向けて、太助は走った。

 どこまで行くんだ。なんでソリに牛なわけだよ、太助っちゃん。


「てやんでい。べらんめい。ちゃきちゃきの、リサイタマ」


 六頭身強ぐらいのあの子から届いてくる声。

 べらぼうべらんめえめ、か。こんな『天国』があったんか。

 けど、すくなくとも地獄ではない……


 五、六十メートルくらい先の木のあたりで、折り返してくる。


 あ。すっ転んだ。


 むくりと起きあがり、そのまま俺のところに到着。


「見してみな」


 顔から…………打ちつけたって思ったんだが。


「ここの重力は『月』並みなのか……それとも」

「なんてったーあ? 卓ちゃん」


「いいよ。その帽子は、真友ちゃんが編んでくれたの?」


 太助は、かぶり直した白っぽい薄手の帽子に両手を当てた。


「うん、編んでくれた」

「真友ちゃんは?」


「みんなして、イチゴつんでた」


「おまえ、変わらないな。ここしばらく、いつ会っても十歳ぐらいだ」


 最初は三歳くらいだった。金太郎よろしくの腹掛け一丁が、かわいかったよな。

 このところ、発育してるように見えなかった。


「いっちょまえに、牛を運びました。テッちゃん、みんなのところにお行き。ぼくは卓史っちゃんに用事がある」


 太助は牛を促した。


「用事?」

「約束したよ。ここを行くんだ」


「ああ、アスレチックを向こうまで行ってみるんだったな。じゃあ川で遊ぶのはまただぞ」


 橋のこっち側のたもとはウッドデッキになってて、このおにぎり型のドームへと細く延びてる。対岸に建造物は見あたらないから、橋がアスレチックの起点なんだろう。

 ドームの空洞は、邂逅記念日に俺がこの『夢』を知覚した場所だ。

 登って上を伝ってけば、次の平均台へとうつる。


 コースの左手は、こんもりと木立がつづく。この夢は一部、俺の願望が採用されてるって思う。なぜって、エレメントの継ぎ目継ぎ目で、地面に降り立つことがない構造が俺好みだから。

 ロープはそれ自体が、蔓そのものかのようだ。


 空に白い丸びた本物ホンモノの月が浮かぶ。すみれ色っぽかった日もあった空。

 その濃い青色に抜けた上方に、細く光線を散らして放つ星が、俺たちの向かうほうへと一緒に進んでくる。


 アイテムを渡りついで行き、櫓を登る。登りつめてく途中で牛たちが、十人ぐらいの人といるのが見えた。


 真友。


 手前の一角では俺の身長にも迫る高さの、コスモスの一種みたいな葉ぶりの草が花をつけて、風に揺れている。太助が声を張りあげた。


「真友ちゃーん。ひいちゃーん」


 真友と、もうひとりが立ちあがって、こっちに手を振った。

 ひいちゃんって呼んだ人は、おそらく真友のお祖母ちゃんだ。暮らしは別々だったが、真友が大好きだった。

 人びとはチュニックのような服に、太助が履いてるようなのや、エスパドリーユ調なサンダル履きの格好をしている。


 そういえば、電柱のほかに、ビニールハウスも見あたらない。現代的な形状の、低くて広っぽい住宅が点々とし、なだらかにつらなる山影。ピンク色の下空との境界を分ける帯状の白いほのめき。


「よし、先を行くか」

「よし。さあ、行きましょう」


 フラットネットのこの先は、クライミングロープ一本につかまってのジャングルフライトだ。

 太助の尻を上に見ながら縄梯子を登る。太助は出立デッキにあがった。


「太助」


 俺もデッキにあがった。


「はい。なんでしょーォ」

「おまえは半分、真友ちゃんに似てるね」


 なんて言うかと思ったら、太助はこう答えた。


「卓史っちゃん、顔がオトナびてるぜー」


 そしてケタケタ笑った。


 たぶんそのあと、苺を食べた。大粒の甘い苺を。


 初対面のときには俺を覗きこんでいたが、俺がおまえの寝顔を見ていた日もある。


 生きてんのかどうかは、ちょっと近寄って胸腹ポンポンに目を凝らせばわかった。



 二月の第三土曜日。

 「スモークレッド」って真友が言ってた、その色のニット帽をかぶって、俺はクロスバイクで就職先に向かったのだった。


 かぶると消耗しそうでいやだったが、使わなけりゃそれはそれでかわいそうだよな。

 三年もかぶらないで、ごめんな。

 それから……

 いい帽子、編んでもらった。

 ありがとう。



 役職はおいといて、俺の父親は商社系、中川のおじさんは技術系。同居の尾形の義伯父さんは福祉系。

 だれの真似でもないが、進路は義伯父さん寄りになった。


 同じいつかくたばるんなら、いっぱしに稼げるくらいになってからでもいいのか。

 勤まったらボーナスなんかもらえちゃったりするんだよな。

 言ってみりゃ、その足がかりってわけだ。


 就職内定の報告をしたら、義伯父ちゃんは俺に本棚を見せて、好きに読むよう言ってくれた。

 そして実習の様子を聞いてくれたり、豆アドバイスをしてくれるようになった。

 その道を志した理由を聞いてみてないが、義伯父ちゃんは高齢者施設の入所型で仕事している。



 ところどころうねった狭いバス通りに、行き先の建物と同じ名前のついたバス停がある。

 バス停を前にした敷地に入る。

 自転車を置いて、リュックに帽子をしまった。


 ‘すこや家の庭‚

 この障害者支援施設が、四月から生活支援員として働こうとしているところ。面接で採用がきまってからは月に一、二度、体験実習の延長で顔を出してる。ユニフォームはまだもらってなくって、準じたナリをして行ってる。

 三階建ての建物に入り、掃除の人に挨拶して、事務室をノックする。


 無愛想な中高年の男性職員さんがいて、きょう俺が一番知りたくて聞きづらかったことをこともなげに言った。


「益子さんは急性心膜炎で入院中だよ」


 益子ますこ早苗さなえさん。障害福祉サービスを利用してここに通所している、三十二歳の知的障害の女性。みんなから『さなちゃん』って呼ばれている。

 下の名前で呼ぶのも、ちゃんづけするのも本来NGとされるが、コミュニケーションの一環ということでまかり通ってるってことだった。


 先週俺が到着したとき、入口前には、救急車が赤色灯を点滅させてとまっていた。

 搬送されたのはさなちゃんだった。


    ୦


「興味あって応募してくれたわけだからお知りかなと思いますけど、知的障害の方は純粋だといわれています」

「あ、はい。そんっな感じ、ですよね」


 サービス利用者さんたちの姿を目で追う。


「『心が洗われる』と形容する人もいますね」

 とその時間俺を受け持つ職員さんはつづけた。

「うらはらに老化の進行が早いですから、はた目以上に体がきついことと思います」


「老、化……は」

 義伯父ちゃんからも聞いとらん。「まったく知りませんでした」


「純粋とはいっても、働く方ともなればね、業務怠慢などもなきにしもあらずですよ。知恵が働かないのとはちがう」


「ウーン。そうなんですか」

 『悪知恵』っていうよりか、それはもう『本能』なんじゃ? って気が……したり。


「障害が軽度の方は、一見して健常者と見分けがつかないことも、多々あります」


 ここの利用者さんは、みんな髪を短くしているように見える。理由はなんとなく察せられた。シャンプーがしやすいだろうって思う。


 トイレ介助はなかなか大変だ。

 生理中の女性にはおおむね女性の職員さんが対応してるようだ。俺は亡き祖父ちゃんの下の世話を親たちと朝夜やってたから、そこらへん抵抗はないんだが。

 なにしろここの人たちは……立ちあがったりとかする。



 お昼が近づき、ノリちゃんと呼ばれる男性には俺が食事用のエプロンを着けた。

 スプーンの向けかたについて指導してもらいながら、彼の食事を手伝う。


「あ……はィイ。正面からヌッと出されたりしたら。キョーフです」


 則ちゃんは自分でスプーンを使えるが、食べこぼしが多い。

 ガッと柄をつかんだかと思うとすごい勢いでスプーンを口に持ってくが、大部分の食べ物がエプロンや床に落ちる。


 それだと食べたことにならないので、ある程度はこっちでスプーンに乗せる必要があった。


 そうしていたら、四年前のバレンタインを思い出した。



「わあお。嬉しー。ことしグレードアップすかァ」

「誕生日にはわっからっなイー」

「んなのいいよ、俺だってあげてないじゃん。買ったやつ?」

「うん――」


「ますますホッとした」


「へ? なにそ、ホッとって」


「おまえに怒られたよ、俺の食いかた」


「えっ? て、いつ……」


「ほら、ボロボロに崩しちまって。おまえがおばちゃんと作った、あー」


「――あ……フルーツケーキ? のこと? それ……は。うーん」


「とにかくわざとじゃあなかった」


「忘れて」



 いまごろ思い出した。


 それでか。真友。



『じょうずに食べるね』




「福留さん。ロビーの自販機のところまで、さなちゃんを見ててもらいたいんですけどォ」


 職員の女の子と一緒に、その利用者さんが来た。


「あ。はい」


 ブロックパズルから離れ、立ちあがる。

 この人とは散歩の時間、すこし一緒に歩いた。


「さなちゃんはおやつタイムに、自販機でトマトジュースを買うのが日課なんです」


 職員さんは説明をつづける。

「こちらで用意する飲み物だと、ダメなんですよ……。ご家族も『好きにさせてあげてください』とのことで、ジュース代をさなちゃんに渡してます。これに入ってます」


 さなちゃんが、ビーズ刺繍の小銭入れを手に持っている。

 彼女はこっちの話を理解して聞き、首を振る形で意思表示をすることができる。職員間の会話の内容が通じているときもある。

 額の線が真友に似ている、なんちゃって。ややしかめ眉だったとこまで。


「階段は使わないから、大丈夫だと思います。お金を投入するのと、ボタンを押すときはやってあげてください」


 ガラス扉のむこうに、自販機が見えた。「はい」


「あ……それから、取り出すときも、おねがいします。じゃあ、さなちゃん、いってらっしゃーい」


 さなちゃんは手を振り返すと、ロビーに向けて歩き出そうとした。俺は扉を開ける。

 うん、足どりはひょこひょこしてるけど、全然イケるっぽい。


「さなちゃん、これでいいの?」と俺は自販機のサンプルを指差した。


「そう」

 と彼女はうなずきながら小銭入れをさし出した。


 取出し口に、トマトジュースの缶が落ちる。

 渡すと、彼女は冷たそうに缶を持った。


「そっちまで、僕が持ってこうか」


 缶を預かる。その直後……想定外なできごとが起きた。


 さなちゃんが、俺に腕を組んできた。彼女はにこやかな表情で、先を見ながら歩く。

 俺も必死で平然を装った。

 いや、心を開いてくれてるのはわかる。

 わかるけど。

 あなたは俺からしたら年齢的にオバさんだ。近い未来のお客さんだ。だけどそんなにぴったりされると胸が当たるんだよォォ、俺にぃ。



 何色かの色鉛筆で何かの書かれた、テーブルの紙。渦巻きキャンディの模様にも見える。


「なんの絵?」


 さなちゃんはなぜかあさってのほうにちろちろ目をやり、返事をしてくれない。


「するとこれは文字……」


 なかば無意識に言ったらそこで彼女は顔をほころばせ、大きくうなずいた。


「絵じゃなくて、文字なんだね。さなちゃんの言いたいことが書いてあるんだ」

「そう。そうよー」


「なんて書いたのか、知りたいな」


 ちがう色の鉛筆で、なぐるように書き足すさなちゃん。

 場をつなぐために俺は言ってるが、解読できずもどかしいのも本当。そんな自分がいるのに、ちょっと気づいた。


 その『言葉』に彼女の意思が宿っている。


    ୦


 一週間前、さなちゃんが救急車で運ばれていった日も、『すこやの庭』は通常に回っていた。

 ほかの利用者さんたちには、影響がないように見える。


 俺のかたわらにいる男性職員さんのところに、ひとりの男性利用者さんが来た。本を手にしている。


「読みたいの? 亮くん」


 伝記だ。職員さんは表紙を見て言った。

「よく書けた絵ですね」


「よくかけたっすねぇ」と亮くんが答えた。


「もとの場所にもどせる? 亮蒔郎りょうじろうさんはどっちから来たっけ」

 職員さんは彼を見、彼がもと来たほうへ目をうつす。


「もとーもどせー? 亮、蒔郎ぅーさんー」

 と亮くんはそっちにまた歩いていった。


 俺はただそのやりとりを見ていた。

 良く言えば、寡黙なのか。このおじさん、俺は口もききづらいが、見てると利用者さんにモテモテなんだ。


「あのタイトルの人、知ってる?」

 と名札に『塩谷』とあるその無愛想な職員さんは言った。


 念押しに「僕ですか?」と聞くと、彼は視線を一瞬こっちに向け、それとなくうなずいた。


「名前は知ってます、学校の図書室にもありましたから」

「その出会い――歩みは、私も感銘したひとりだけど。だれがどうしてあの本、持ち込んだのか…………あの人物は三十代の時点で、優生思想を唱えていたらしいよ」


「ゆうせい思想」


「それによると、重度精神障害児や奇形児は、安楽死の対象になる」


 殺すってこと?


 身体機能の強固な『壁』を自身がのり越えたことで知られる人。

 たったいま聞いた、その思想。

 どうやってとっさに結びつけろというんだゴァッドゥ。


「当事者との関係性いかんで感じかたが異なる部分があるにせよ、私はその考えかたを支持しかねる」


 利用者さんたちに目を向けながら、さらに彼はそう言った。


 障害を持つ、十九人の人が刃物で殺されるということがあった。神奈川の相模原市において。俺からすると祖父ちゃんが亡くなる前の年、小学五年のときに。

 晩年の祖父ちゃんを見ていて、死んだほうが本人は楽なんじゃないかって気持ちと、ずっと生きててほしいって気持ちと、俺には両方あった。

 当事者との関係性。

 生きててほしい気持ちはエゴだろうか?

 もうひとつ、俺は優生保護法って言葉を思い出していた。

 いまでいう、母体保護法って法令の名称だ。

 しようと思えば――人工妊娠中絶のよりどころにできる。


「はい。あ。お名前、塩谷しおやさん……ですか?」


塩谷しおたにです」


    ୦


 利用者さんたちが持ち帰る、連絡ノートや昼に飲む薬など入れるポーチ。そこに来週のお昼の献立表を、折りたたんで入れる作業。

 その俺のそばで職員さんがふたり、連絡ノートに各利用者さんの本日の様子を書きこんでいる。


 先週は益子早苗さんの連絡ノートをちらっと見れた。彼女が送迎車でこっちに向かう前の朝の体温は、36・4℃って書かれてあった。


「福留くん、今月は連続で来てくれてるけど、来週はどうする? 無理しなくていいのよ」と聞かれた。


「ぜひ、また来週も」と俺は仕分けのバイトのころのガツッッとしたノリを出した。


「さなちゃんが気になる?」

「あ……正直、とても気になってます」


「本当に無理するんじゃないよ、最初から飛ばすとあとでヘタレるよ」と、もうひとりの職員さん。「制度的にまだ、学業を終えてないんだから。自宅で勉強もアリだよ。来るなって言ってるんじゃないけど」


「ありがとうございます」

「さなちゃんは、一品一品やっつける食べかたするよね。嫌いなものはとことんスルーして」


 意識はしっかりしているらしい。しかし家族が、身体拘束に同意せざるを得なかったそうだ。つまり、ベッドで暴れないようにされている。


「知らない人しかいないところで、どうしているかしらと思うと……早く帰ってきてほしい」


 俺は無言で軽くうなずいた。


「さなちゃん、ここの停電で失禁してしまったりもしたの。顔の表情は笑いっぱなしで…………かわいそうよ」


 食事の前、普通に薬を飲んでるとこは見た。注射には抵抗を覚えるだろうか。さなちゃん。


 いま俺はなんでも悪いようにとらえてる。


 次週の約束は、とりつけた。


    ୦


 五十メートルかそこら先の、狭い歩道を縦にならんで歩く二名の後ろ姿。前は女のようだ。

 あの男女――

 そこへ、後ろから来た二五〇ccくらいのバイクのミラーが一瞬の間に俺に当たって、バイクはそのまま走りぬけていった。


 体は足で支えたが、自転車のほうが歩道側に横倒しになった。


「福留くん」


 四条さつきの声だ。

 こっちへとひき返したさつきの連れ、すなわち藤野賢が俺の起こしかけた自転車を支えあげてくれた。


「かすっただけだ……けどムカつくぜ、んなろめがア」


 ああ。

 押し寄せてきたぞ。どうしてくれるこの『死にぞびれた』感を。


「轢き逃げか。青信号になっちまったな」


 それとも、『命拾い』か?


「バランスくずして…………なんともないぜ、サンキュウ」


「このへんで会うのはめずらしいな、福留ちゃん」

 と藤野は言った。


 ていうか、生まれて初だよ、学校以外でおまえに会うのは。


「実習の帰り道だよ」

 車道の音にかき消されないぐらいの声は出しながら、ハンドルを押した。


「俺たちは妊婦健診に行ってきたとこー」


「つきそいか」あすは日中から働くんだろう。「終日休みなんだな、きょう。変わりないんか」


「おかげさんで順調ッす。ま、そうこうしてたら……採血するだけで『性別』がわかる検査っちゅうの、受ける時期逃してるっぽいもののね」


 足をとめてるさつきに追いつく。


「あとは健診のエコーでわかって教えてくれるかもしれないけど、別にいいじゃんって、さつきは言ってて」

「そうよ、産まれればわかるんだもん、そんなとこにわざわざお金使わなくっても――福留くん」


「大丈夫よ。ボサッとしてて、情けのぅ」


「さつき、そこ、ガム」


「え。あ、やだ」

 さつきは、道ばたのガムをよける。


「いけませんねえ、こんなところに吐き捨ては…………そういえば、妊娠検査薬もいらなくなったんだったな。おまえが病院に担ぎこ――あ。そこ、犬のフン」

「やだー。もーお」


「いけませんねえ。ここにさしかかると、いつも同じにンコ臭え。なんなんだろうな、まじクソ民度低い」


 民度低い……か。


「なぁ、藤野、無知って……罪か?」

「んッ」


「『無知は罪』なのか?」


「どうしなすったよ、福ちゃん」


「常套句だろう、御倉ミクラの。SNSでもバトってるよな、そこかしこで」


「うう……む。すくなくとも俺は言わないなそれは」


 さつきが肩越しに振り向きつつ、「関心の向けどころっていうのかな? 無知とはちがうと思うなぁ」と言った。


「ソクラテスが言ったかは疑わしいね」と藤野。


 なに?


「じゃだれが唱えやがったんだー、きっしぇえなあ」

「ま・ま、気を取り直して。俺んちすぐそこだぞ、寄ってくか? いま、酒はないけどな」


「酒はあんまり飲まないから、いい……っじゃなくて。こっこ困るだろ、俺がそんなとこにあがり込んだら」


 藤野は、「なンでよ」


「お、おま、言っただろ、トゲトゲのタンパクが放出されて、注射打ってない人間にまで影響ーって」

「昨今いうシェディングのことか。気にするなよ、俺の家族だって接種ずみだもんよ。気にしすぎたら、おちおち電車も乗れやしねえ」


「おまえが平気でも、四条が」


「なあんだ、大丈夫ってー。うちもあたし以外打ってるって、言ったよ?」


――そんな顔で、よしてくれよ。


「お、お、おまえが大丈夫って、赤んぼ……」


「やだ福留くん、そんな泣きそうなー」

「泣きそうなんかかぜがっ目に」


 涙が小鼻の溝を伝ってこうとする感触があった。


 やべえ……やべえ。タオルハンカチ……


 藤野はハンドルを握る俺の手に、手袋の上から自分の右手をかさねると、

「気を揉ませたな」

 と言い、もう片方を俺の肩に回した。「福ちゃん」


 もう出ちまってんだ、泣くにまかせてやれ、このさい。


「気にしないでよ、ね。この子全然いやそうにしてないよ」


 それがおまえの思いこみだったらどうするよ、四条。


「行こ。予定あるの?」

 藤野が肩ベルトの上から俺を軽く押した。


「んー」


 タオルハンカチで顔をおさえながらスーパーの店先を見て、俺は声をあげた。


「おい。焼きいもだ」


「茨城県産、有機栽培。いいねえ。いいにおい」

 焼きいも機を見て、さつきが言う。


 手早く調達した。藤野んちの家族はこの時間不在ってことだが、いても足りるように買った。袋を藤野が持ってくれた。


「ふふ。賢は皮ごと食べるんだよ」

「へーぇ。そういや俺、フライドポテトは皮つきのが好き」


「緑色になっちゃったじゃがいもは気をつけないとねー、芽が出ちゃったのもね」

 そんなふうにさつきがつけ足した。



 横断歩道を渡り脇道に入ると『すこや家の庭』の隣町の街区表示が目についた。傾きかけた日ざしがあったかい。

 歩きながら俺は、藤野の顔は見ないで切り出した。


「職域接種のことは、また確認し忘れた……」

「うん」


「一学期に、『人口動態』を見ろっておまえに言われて、本当いうと、見てビビったん」


 藤野は俺に答えた。「身内にうるさい信者がいて、言説は多少知ってるってふうに、あのとき言ってたね」


「タダでも打たないっておまえは言ってたね。あらためて見てみたん。身近でそういう亡くなりかたした人、俺知らないから――」


 さつきは藤野の隣できょとんとしていた。「福留くん、鼻声だなぁ」


「ピンとこないっていうか、他人ごとみたいに思ってはいるけれども。んご」

「数字としては、われわれの学年層が幼稚園児だったころの巨大地震をはるかに超えた、戦後最多の減少」


「んー……」

 堂々めぐりのディスカッションは避けてるつもりだ。


 このことについては、結局俺の思考が及ばないんだ。だって、俺はやっぱり現実感を持てない。

 量産の液体の小ビンの一部に、即効きのアタリが仕込まれてると。ンなロシアンルーレットな。そういった、不安論法が実銃ジツジュウのトリガーになることは、ありえはしないか?


「総人口からしたらわずかともいえそうだが、俺は多い、ととらえたものだったからね。数字としてはな」


 横でさつきは、「はじまった年の夏には一件だけ因果関係認めて、それもすぐ取り消してたんだよね」


「そうなんだ」ちょっと息をとめて、棒読みのように俺は答えた。


 同じような、白っぽい建物が立ちならぶ。

 その景色の中を、俺たちは歩いていく。


「俺のホジッたぐらいな見識だと、もろもろの ‘関連“統計„‚ グラフにはおタメごかしのタネがあるようだ。人口動態はもっとも手が込んでないと思ってるのさ」

 と、諸データを指してチート級の裏ワザみたいに藤野は言う。


 おまえはIQが高いんじゃねえのか。それでどっか壊れ……てんのは俺かもなんだよな。ンーム。


  古人云

   売蔘者両眼

   用薬者一眼

   服薬者無眼


 って改行ナシで、近世の人が言ってた。『蔘』はちょうせんにんじん。

 薬を服む者は目がねェってことだね。


 とにかく俺は、ピンピンしてるよ。


「最近自分をいじめるなって、さつき殿に言われてる。仮にイジッてるんだとしたって、俺の意思に基づいてるさね。でも、人様で実験するとなれば……話はちがってくる」

御倉総神山みくらそうしんざん主催の『ワクチン抗議デモ』は、見に行ったよ」


「行ったのー? 福ちゃんが」


「二年以上も前のことだけどもよ。悪いが、毒気にやられて帰ったよ。俺は見て確かめたものを信じるから、なにかあればって思ったが」


「『悪いが』って言うことはなくない? ぽくナイ」

 と藤野。


「苦悩してるのもいるかもしれないからさ」と俺は言った。


 行列の中にチラッ……と大きく黒字で掲げられてるケタちがいな数字を見たような……気がするんだよな。公表されてる人数じゃあなくて。


 聞きわけのない街のバカども目がけ、恍惚感むき出しでナンダーカンダー言ってる態を、とくと拝んだ日だった。あんなもんに追従するくらいなら、俺は救えない羊でいてやっていい、って腹を固めただけ。


 藤野は、「んー……俺は、二度ばかり行った。二度目はひとりで見てただけで、途中で引き揚げた」


「ふむ?」見てただけ? 引きあげた?


「どーゆうわけか、何人も面白い人に会ってさ。集合の日時と場所だけ押さえてて、行進のスタート地点はわかってないんだよ。告知はされてるのに」

「は?」


「個性はまちまちだったね、手のかかった横断幕持参の人もいれば、家事の合い間に訪れたような感じの人もいたりで」と、さつきがさし挟んだ。


「ん、教団外部の人もかなりいたと見る」

「誘導する者はいたんか」

「いまがどうだかは聞いてないけど。拡声器でリーダーがひとり声かけしてたようだった。結論から言わせてもらうと、どうせ動くならステージさ」

「ステージって。演奏して歌う――」


「うん。あり? 『歌って演奏』する……どっちなんじゃアァ。俺今夜眠れなくなりそう」


「てめえが正当だっつう前提でモノ言わないでも、歌は歌。ってか」


「そうね。道路の使用許可がなくてもできることをやりたいっかな」


 言いつつ藤野は、片腕を何回転半か外側に大きく回して、掲げてみせた。

 なんだろ、藤野が『息抜き』してるように見えた。

 いまの風車みたいなポーズ、たしかほんとにギターを鳴らしながらじゃなかったっけ。


「おまえは、ボーカル担当なのか?」

「おうよ。アンド、ギター」


「そんな気がした」


 活動の無期限休止を望んだりして、悪かった。

 あいつ、真友は……

 競技で走るとき、ただ走っただけだ。それを勇姿にとらえたのは、俺含む周囲の人間だ。

 藤野は、そういうところがたぶん同類なんだ。真友と。


「オリジナルの曲を作るのは結構ムズいよ。作るだけならサラサラできるけどね。そこの八階だよ、福留ちゃん。11号棟な」


 藤野は手前から二番目の建物を指差した。そして、

「自転車駐める前に、試運転してみ。帰るときになって漕げなかったらヒサンよ」と言った。


 小さく一周して、確認した。


「ここの12号棟に堀本が住んでるよ」「ふーん」


 エレベーターに乗る。

 低速だ。

 同じ形を繰り返す共用廊下の手すり壁と、すきまから広がる遠景。


 藤野が言う。「浄水器を取り付けるとか、コスパ的に難しいけど、こだわりたいことはいろいろなんだよね」


「先立つものぁ、ゼニよの」

「活水器を団地の元栓に……なんてなことも考えたけど、自治会に提案もせずアイデアだおれさっ。いけませんねえ」


 八階でおりて右に行くと、廊下にスーツの男性がいる。隣室の玄関先から移動してきた様子でインターホンを押そうとしていた。


「なんでしょう?」


 藤野んちのようだ。表札を確かめた。


「あ。わたくし、『ほまれの王座』と申しまして」

「一階のエレベーター前の掲示もごらんになってませんか。この団地は、セールス・勧誘、一切おことわりなんですよ」

「いえ、少し、聖書のお話をさせていだだこうとお伺いしております」

「勧誘でしょうが」


「いえ、聖書のお話をさせていただくまでですので」

「べつの方にも言いましたがね、この団地には車椅子や、九十代でひとり暮らししてる人もいるんですよ」


「そうですか。ぜひ、そんなかたにも聖書の福音をお伝えできればと」


「呼び鈴を鳴らされて玄関に出ようとして転んで骨折とかして、最悪誰も気づけなくても、おたくは責任取れるとおっしゃるんですか?」


「はあ。ですが、宅配便はどちらのお宅にも届きますネ。せっかくお目にかかれたんですから、少しでもお話させていただけないものでしょうか」


「宅配便なら、俺は俺の足……俺の歩きで1分で受けとれるが、あなた方につかまったらそんなもんじゃすまないでしょう」


「はあ」


「ポスティングするなとまでは、俺は言ってませんよ。ご検討いただけないんであれば、おたくの団体と直談します。お立ち退きください」


「では、これをどうぞお受けとりくださいー」


 その男は、藤野にリーフレットをさし出した。

 藤野でなくてもこれは……「結構です」って言いたい。

 ていうか、芋が冷めちまうだろうがよ……しかし、加勢するにも相手は一匹――いや、ひとり。いなくなってくれるまで傍観した。


 ていうか、眺めながら、意識はさつき殿のお腹にいっていた。

 その子は、ほんとに俺をイヤがってない?



「いけませんねえ」


 エレベーターのドアが閉まり降下していく音を聞きながら、ぽそりとさつきは言った。


「へへ、福留ちゃんとさっちゃんが見てるからってカッコつけちゃ、いけませんねえ」と藤野。


 俺はさっきの路上の接触で、結果的に死守した帽子を手に持っていた。右の腕がなにげに疼く。

 錠前から鍵を抜いて、藤野がドアを開けた。

 あがったすぐ脇が藤野の部屋のようだ。


「これでもずいぶんミニマルにしたんだぜー」


 柱の角の立ち机の下に、アコースティックギターがタンスにもたれるように立てかかっている。


 洗面台も借りたが、藤野がレンチンしたおしぼりを持ってきてくれた。

 ベッドを背に、藤野は腰をおろした。


「聞いてよ福ちゃんー、さっきの勧誘、前んときは俺、明けで爆睡してたのヨォ?」


 コレは……『おまえもクリスチャンのくせに』って言われかねないのを承知でだな。


「私怨もあったか」

「平穏な祝日だよ? 母ちゃんたちだって声かけずに寝かしといてくれるってーのに、なんであんなやつらの呼び鈴に……ううっ」

「それはいけま――おっと。ンなンだよキミたちは、さっきから『いけませんねえ』『いけませんねえ』って」

「最近、俺たちのあいだでブームなんだよ。いけませんねえ。」


「たわむれとるなぁ」


「ふざけてんだもん、なー?」


「はいお茶でーす、ぃしょ。福留くん、安心してね。フツーの緑茶よ、さっきのスーパーで売ってる」


「え?」


 意味のわかってない俺に、藤野が口を挟んだ。

「御倉総神山で三年前から販売してるブレンド茶は知ってる?」


「そんなのあるのか」


「それとは別って意味ょん」

 とさつきが湯呑みを置きながら言った。


 それ飲むと、なにか体にいいことあるんだね。


「あのへんのアイテム一式は、高所得の会員ご用達でショ。俺なんて機関誌代ぐらいしか払ってないもんネ」と藤野は言った。


「おいも、いただきまぁす」

 とさつきが、焼きいもに手をつける。


 四条宅に一方通行で藤野が通ってんでもないのは、まあわかった。

 藤野の真似して、俺も芋を皮ごとかじってみた。美味。


 就職の話なんかをした。

 もともとそういう方面に関心薄だったこと、興味なくても現に世間にニーズはあること。バイトでモノを相手にしてた反動もありそうなこと。といって営業職だとかには適性がないって思ってること。


「じゃあ福留くんはそういう資格持ってたりするんだ、福祉系の」

「いや、俺が先に取ってたのはクルマの免許だけで」


「ふーん」


「ほんとなんとなくじゃああったけどね、一応本免許も一発クリアしたよ。ソッチのやつは、会社の募集要項に取得支援制度ってあったから、それ使うつもり」


 面接で、履歴書の資格欄に担当の人の目が奪われてるのを、俺は見逃さなかった。役立つ場面があるんなら、ペーパーでいるのはヤバいな。もうちょい乗り回さないと。


「若い女の子のスタッフはいるの?」


「いるね。同期の予定にも」

 さつきが突いてくる予感はした。


「芽ばえるかな。いないと見せかけて、とっくにいるか」

「俺は三年前に大失恋してるから」


「――えっ」


「な、n…」と藤野も声をつまらせた。


「そんな相手が現れようものなら、前の女を忘れさせてくれなんて言わんよう気をつけないとフられっかにゃーはっはイ」


 なにか言いかけ、

「福ちゃんはどっか淡泊なんだよな。断食系には見えんけど」と藤野はずらしたようだった。


「かわいいなって思うコはいるよ。けどなんかよ、そこどまりなんだ」

「ほー。そいなら、俺も安心かな」


「そら安心だよ、おまぃにそそられたこたねーしー? かわいいのは四条だけじゃねえから」


 藤野の手をたたく音が響き、さつきはおでこを赤くさせ、俺は自己ウケして。笑いくずれた。

 なんてへんな日なんだろう。


 四条と中川を引き合わせたら面白かっただろうな、うん。



 親元宅寄りの施設を候補に入れなかったことはうまく話せそうにない。

 塩谷さんから聞いて知った話も飛ばしたが、さなちゃんの病状のことをいくらか聞いてもらった。


 こいつらのことだ、当然vacヴァクの影響を疑ったよな。

 なにも言わなくなったと思うと、藤野は、あぐらをかいたまま、背すじをのばして目を閉じている。さつきが、同じように目をつぶった。

 不思議な静けさ……

 眺めてるのもばつが悪くて、俺もすこしのあいだ瞼を閉じる。


「だが、あなたがたに告げるが − 」


 藤野が伏し目で開口し、俺は顔を前へ向けた。


「自分の兄弟に対して……ちょちスキップ……腹を立てる者はみな裁きを受ける」

「クラィストが……言ってたか? 超うっすら知ってるぞ」


「ただいまカンニング中ッす」

 藤野は、スマホの画面をこっちに向けてみせた。


「『 " − 自分の兄弟に対して‘ ラカ! ‚と言う者は最高法院に引き渡され、‘ 愚か者! ‚と言う者は燃えるゲヘナに投げ込まれる 』」


 意味不明な単語はともかく、藤野の言いたいことは、伝わってこないでもなかった。


「『 " −− あなたの頭にかけても誓ってはならない。あなたは髪の毛一本さえ白くも黒くもできないからだ 』。これ、訳し方次第でこうもなるさね。いいか?」

「ンァ」


「『 “おのかしらしてちかふな、なんぢ頭髮かみのけ一筋ひとすじだに白くし、またくろくしあたはねばなり„ 』」


 Ahhアー... .「ホント訳しかたしだいだね」


「聴覚に訴えてる」

 笑いながらさつきがそう言った。


「おいらもすこしはオトナになったからね」

 とふたりに言った。「イヤナやつに対して『ろくな死にかたしねえ』って思う考えは捨てたよ、っつか、捨ててる」


 今度は目を閉じないふたりに、

「なんでおまえらみたいなのが御倉ミクラ信者なのかが理解できないよ。ベクトルがちがくね? 前からそんなだ」


「ホメてくれてんのかい。俺ね、終身会員でいられる自信はないのよ。頭も心も弱いんだネ。吟味して、段階踏んで入信した気ィではいたけれども」

「吟味」

「御倉総神山は教理に重きを置いてて、創始者に特別な磁力があるわけではないという印象が、当時あった」

「こんな規模になるとは思ってなかったよね。ゆるふわ系とかのスピでなければいい気が……あたしはしちゃってたのね、周辺にそういうのハマってる人が結構いて」


「なれそめがな。俺らは名前を覚えたの、学校でだったね、互いのね」


「あたしは下の名前知ったのがね。同じ教団に所属してるコトで加速づいたのは、大いにある」


「うん……。信仰歴、そんな長くもないからかもなぁ。いま五年目だから」


「だって四条は子供んときからだろ」

 とつっこんだ。


「そうだな」

「それに、もっと新しいのはたくさんいるだろ」

「俺は御倉総神山と連携してる団体にも登録してるから、ちょっと外側から見てるっていうのはあるかもしれない」

「ナニソレ」


「姉妹教団で、玉祥雪耻会ぎょうしょうせっちかいっていうところなんだがな」


「う……、たっは。御倉といい、漢字漢字してるな」


「昔は日本でもキリスト教のことを耶蘇教って言ってたんだから、おかしくはないさ」


 どっかで聞いた。教科書だったっけ。


「雪耻会もキリスト教系だが、いろんな要素がまじってる。総神山にしても、あれこれと取りこんでるがな。んーと、真言密教の教えであるとか」

「仏教……あぁ『キリスト・御仏とともに』だっけな、そういや」


「ようは死んだあとの極楽浄土に救いを求むるにあらずして、現世で即身成仏することによって、生きながらに涅槃ネハンの境地を体現するといった考え方な」


 即身成仏ね。いかにも御倉的な教義……っつうか、高名な坊さんをパクってアレンジしただけのニホヒがプンプンじゃねえか。

 俺の親も、そういうのにうつつ抜かしてんだわ。


 俺の母親に、『この子はあんたの所有物じゃないんだよ』って言い放ってた洋子伯母ちゃんの顔が、ふとよぎった。


「念のためだが福ちゃん。いま ‘あぐら‚ なんかかいてるのは、椅子がここにないからだよ」

 と両手で大仏なポーズをつくりながら藤野が言った。


「ぷふ……、はいよ」

「寝ころがってれば、起き上がって聞いてる話だ」

「了解」

「福ちゃんにはかなり詰めよったけど、俺、攻撃するつもりはさらさらなくてさ」


「賢ったら。福留くんはだいたい話しかけんなオーラ出してなくって、出しゃばっちゃってるんでしょ」


「そう? 俺、かまってちゃんオーラ出てる?」


「え? いやゃや、そこまで思ってないー」


 否定してなくね?

 ま、俺はさびしがり屋だけどな。


「福ちゃんはトイレで落とした俺のピックを拾ってくれたのー」とさつきにとも俺にともないように聞こえる口ぶりで、藤野は言った。


 えー……、こやつなにを覚えてるかわからぬな。


「二組の笠松かさまつなんて、おとなしいけど、福ちゃんと話したがってると思うんだよな」


 笠松……

「あぁ、あのなんかちょっと藤野に似た、ダサかっけえ」

 いつも挨拶はないが、会釈するんだよな。「いいよいいよー、俺は細い人脈で。放電パネそぅ」


「針の穴を通るラクダが湧いたさ」


「あァ? 四条さん、この人の湯呑みにアルコールなぞ注ぎましたか?」

 その意味不明な藤野の言は、あとで調べたら、キリストが話した中にあった。

 『富んだ人が神の王国に入るよりは、ラクダが針の穴を通り抜ける方が易しいのだ』。ますますわからんわ。


「おまえは、俺に殺される思いしたことあるか?」


 ひょいと尋ねると、藤野は「ないヨ」と歯切れのいい答えを返した。


「そうか。俺もねえよ」

「あ」


 さつきが口を開いたから、ドキッてした。


「ここだから言うけど、この子のことがわかったとき、あたし、父親にボコられたー」


 俺は藤野賢と一緒に固まった。が、藤野のほうは口にやった湯呑みを置くと、芋をかじりだした。

 気のきいた言葉なぞ出てこん……


「ごめんな、さつきちゃんっていう、年ごろの娘を持つ男親になってみないと、わからんかもやー……その心理」と俺は言った。


 それで『殺される思い』をしたっていうのなら、いま目の前にいるキミは蘇生体だね、なんて言ったら、さつきはどう答えるだろう。


「ふふ、ごめんね。言ってみただけ。おとん、いまはとってもやさしいよ。賢に対しても普通だし。ね」

「いろいろ甘えさせてもらってるね」


「……」

 親父さんは、孫を抱くんだね。


 体を揺らした弾みに、藤野は屁をこいた。


「あ。失礼、やーね、自分んちなのをいいコトに」



 後ろの窓の外、地上からは、遊び回る子供たちの声が聞こえてくる。


「あれだよ福ちゃん、総神山は、ともすりゃ黙示録やなんかの預言に傾倒して」

「――『666』の、黙示録か」

「好きに預言を解釈しがちだとは……俺も感じるものはある。大事なことは、たとえばヨナ書にだって記されてあると思うんだが」

「なっしょ?」


「ヨナ書。そこにニネベという町が出てきて」


「ヨナヨナ?」


「聖書の中の。ヨナ書って書物」


「有名なの? それは」


「どうなんだろうな、中くらいに有名なのかなア。そこで神が、ニネベは滅びると。ヨナって人物の口から言わすのさ」


「ヨナ書、これだね。けっこう短いんだな、ヨナ書って」


 スマホ検索で、さくりと出てきた。


「そこの第3章にニネベという町が出てくる。ほかのふたつの預言書にも出てくるが、ひとまずそこな」

「んーむ」


 3章、2節……


「『 “立って、あの大きな町ニネベに行き、あなたに命じる言葉をこれに伝えよ„ 』」


 4節……


「『ヨナはその町にはいり、初め一日を行きめぐって呼ばわり、 “四十日を経たらニネベは滅びる„ と言った』……四十日を経たらニネベは滅びる。ねえ藤野、これ、期限を切ってる?」


 藤野はうなずいた。


「そうなんだ。でもそれが結局、神はニネベを滅ぼさなかった。ゆくゆくは陥落したけどね」

「ふーん……あ、そうか。書いてあるね、町の人間が改心したからだ」


 よかったじゃないですか。


 異国じゃないが、遺跡発掘調査の求人案件を見たことがあったのを脈絡もなく思い出した。

 俺はお茶を二口すすった。


「すまんが福ちゃん、その後ろの棚の聖書取ってくんろ」


「お、紙本。でけえなこりゃ」

 重っ。


「見てのとおりで、これも口語訳」


 受けとった藤野は本を函から出すと、終わりのほうから開いた。

 藤野賢の手……。指は細長い。物流の労務だけでは飽きたらないような。


「かたや、黙示録の記述はこうさね。ヨハネの黙示録1章……19節。『 “ − そこで、あなたの見たこと、現在のこと、今後起ろうとすることを、書きとめなさい − „ 』」


 行を目で追う藤野。


「4章、1節。『その後、わたしが見ていると、見よ、開いた門が天にあった。そして、さきにラッパのような声でわたしに呼びかけるのを聞いた初めの声が、 “ここに上ってきなさい。そうしたら、これから後に起るべきことを、見せてあげよう„ と言った』」


 これから……起こるべきこと


「で、たとえば9章の、15。『すると、その時、その日、その月、その年に備えておかれた四人の御使が、人間の三分の一を殺すために、解き放たれた』」


 殺す……ため


「18『この三つの災害、すなわち、彼らの口から出て来る火と煙と硫黄とによって、人間の三分の一は殺されてしまった』」


 殺されてしまった


「16章には『(見よ、わたしは盗人ぬすびとのように来る − )』とある。わかるか? この違いが」

「盗人のようにってのは、つまり……」


「盗賊・盗人、これは新約聖書中の他の福音書なんかにも出てきて、パウロの書簡には『主の日は盗人が夜くるように来る』とある」


「天災は忘れたころにやってくるってね」

 孝行をしたいときでも親イナイのは俺だけど。「そもそもヨナ書なる書は旧約聖書の一冊、ビフォー・キリストだろ。それは……わかる」


「三分の一は殺されると聞かされれば、普通は殺されるなんてまっぴらだと思うよな」

「ああ……。でもニュー総神山は、自分たちは助かるって思ってる」

「なんのこっちゃその、ニュー」

「しかしこぇえって、聖書の神。おまえは……藤野、殺されちまいたいのか?」


「まさか、まさか。だが、『殺されずに残った人々』についてもあれやこれや書かれてあるのを見るとね…………殺されるのと、どっちがましなのかってなってくるよ」

「んなら、即身成仏するのか」


「いや、俺の中では微妙にちがう」


「なんだつまんねえな、五年前の俺がその教義知ったらなびいてたろうに。つうか、聖書そのものがまるごと偽典で、神ならぬ何者かによる社会の洗脳装置である可能性すら俺は思うぜ」


「まるごと……っ。突拍子もない〜。福ちゃん」


「まえにも超ざっくり見てみたときあったけどよ、主なる神ってやたら出てくんじゃん、聖書」


「んむ」


「なんで神は、何千年もまえの人びとのまえにばっか姿あらわして現代人とは会話しないんだって、素朴に疑問だ」


「だれにでも姿あらわしてたんじゃないさね」


「わァってら。そんくらいなら。それも踏まえてなあ」


「古代イスラエル人の側で怖気づいて『神がわたしたちに語られぬようにしてください』って指導者に頼んだ経緯も踏まえてるかい」


「指導…………モーセだね。かの地にたどり着く前に、年の若いのと交代した」


「ついさっき、自分で答めいたこと言ってなかった? ビフォーって」


 そこにさつきが菓子をのせた皿を持ってきた。


「スマホとか、あるからじゃない? 福留くん、よかったらこれも食べてー」

「スマ、ホ」


「古代には、印刷技術もなかったはずでしょ。いまとは流れる時間…………時間の流れかたもちがってて、それで神様とやりとりできたんじゃない?」


「おまえらー」

 俺とさつきを交互に見ながら、藤野が言い出した。


「なかなかザンシンなこと言ってくれるじゃねえか。それ小説に投稿しろや」


 って、すでに出てるくね? ネタとして。


 いや。既出なのは俺自身のキャラ。不覚にも春寒の天空そらの下、いや、こいつらの前で、涙をたらした。

 しかしだ藤野、四条。俺は二輪の乗りものを転ばすことで振り向かせなくても、道をあのまま進んでおまえらがだれだかを確かめる。


「補講があるから無理ぴょーん」


「発想だけだもん。おまえニクヅケしてよ、それと代筆。ってもしやおまえ」言いながら俺はさつきを見た。「しかるべきサイトで――」


「ふふ。ひみちゅ」

「分けマエよこすか? 福ちゃん」


 藤野がさし出した手のひらに、アソートチョコの包みを乗せてやった。

 さつきの言ったことが気になった。


「その、四条。平安時代の貴族は、退屈しのぎに和歌詠んだのかなとは思ったよ。中学んとき」

 時間の流れはまどろっこしかっただろう、って言いたかった。「モーセの十誡じつかいは知ってるよ。石板に刻むんだよな」


 藤野は腕組みして目をつぶり、「ひょっとしたら消しゴムはなかったかもしれんな。鉛筆もだ……」


「あたし最近ねえ、集会のほうにも全然行ってないの。十戒じっかいにも『なんぢ姦淫かんいんするなかれ』ってあるじゃない? なんか目に浮かぶようでしょ」


「なに? それ。聞き捨てならなくね?」

 そこまでこいつらに影を落としてるのか。御倉。


「内輪のフリンは黙認してるくせにって言いたくなるさ」と藤野は立てた片膝に顎を寄せてぼやく。


「うぁ、おぞましや。若いみそらで、キミらもなにやら大変のようだな」

「そのぶん、補講に身を入れるわよ。せっかく先やんたちが卒業させてくれようとしてるんだもんね」


「『姦淫』って言葉はあいまいだーな。『姦淫罪』で見ると、なんとなく通じなくはないが」


「俺たちは純愛だよ。だれがなんと言おうと、なー」


「ははは。いただきます」


 屈しない藤野か。

 皿からクッキーを取ろうとして、晩飯のことを思い出した。

 再びスマホをタップする。


「自分んちに電話入れとく」


 さつきが窓のカーテンをつかんで細く開いた。

「日はだいぶ長くなってきたねー」


 伯母さんが電話に出た。


「あ、俺です」


    ୦


「まるごと偽典は、俺もうっかり断言できないネ。まぎれもない聖典だと主張する者がいたら、それもまた危うい気がいたすよ」


 藤野はさらに付言する。


「神の言葉につけ加えたり、とり除くことを禁じる旨は、申命記や、黙示録にも書かれてあるが、実際どうなんだろうな……」

「脳みそが、だいぶ乳化エマルションしたぜい」


 藤野の聖書はずいぶん読みこんでる質感だったが、マーキングがされてないように見えた。


「もともとが章で区分されてたんじゃないから、そういったのさえも『これに書き加える者』となるんだったら、アウトさね」

「えらく微妙だな。読みやすく分割して、ナンバリングしてるだけっていえばそれまでじゃん」

「好きに解釈しがち、だののたまいながら、俺にも好きな聖句というのはあってさ」

「うん」


「『わたしは知っている。人にはその生きながらえている間、楽しく愉快に過ごすよりほかに良い事はない』」


「ほー。単純明快だな。どこにあんの」


「伝道の書。これ思いおこすと、できることをやるしかないって気持ちになれるんだ。あ、エロい意味で言ってるんじゃないぜ」


「ははは」


 二百歩譲っておまえらが姦淫罪だとしても。おまえらは……


「福留くん、人間の赤ちゃんって、どのくらいの日数で産まれてくるかって知ってる?」

 と、さつきが聞いてきた。


「んー? 十月とつき十日っていうのは、まあ聞くよね」

 一ヶ月30日換算で、十ヶ月目の第十日って解釈で合ってるのかどうかはちょっと。


「詳しいね。ニネベの町の話してて、四十日ってあったじゃない? 四十って数字、よく現れるのよね」

「ふむ」


「この子はいま百十三日目、満一六週。満四〇週のころに、産まれてくる」

 と藤野がフライングした。


「ほぇ……、そうか。二百八十日なんだね」

 俺のおつむで、勝手に二百六十六日に変成されてたのは内緒だ。


 神様。

 俺は、さつきちゃんのおっぱいが大きくなったなぁって、内心思ってます。



「きょうはあれだけど、全然手ぶらでいいから、またこっち寄ってくれよな」

「ありがと。またな」


 俺の運転でよけりゃ、どっか連れてったるよ。の前にレントして、ペーパー歴を初期化しておかないとだな。


 ふたりに見送られ、俺は来たときのバス通りまでの道をたどった。


「さっちゃ……ん」

「――ん?」

「一年だったとき、うちにコロナ死者が出たな」

「いたね。たしか同じ学年の人だよ。どうしたの?」


「いいよ……」


「なに。賢ちゃん?」


「いいんだ、俺もおまえもろくに覚えてないな……入学したてのころなんて」


「賢」


「ほい」


「あたしたちは、おたがい名前を知らなかったよ……」


「ん。さて、おまえと、この子も送りとどけなきゃあーな」


 交差点を折れる。

 吐き切った息を吸いこむと、空の『冬の大三角形』の一番目立つやつと、オリオン座とが目に入った。

 なんとなく言わなかったけど、そのうち親とは暮らしてないことも聞いてもらおう。


 難解度はともかく、旧約聖書で目にとまった叙述、『わが愛する者よ、日の涼しくなるまで、影の消えるまで、身をかえして出ていって、険しい山々の上で、かもしかのように、若い雄じかのようになってください』


  日の涼しくなるまで


   影の消えるまで



 きょうインスパイアされた俺は、遅めの晩ご飯のあと、聖典のことを調べたりしてるうちに、寝落ちした。


 今度施設に行ったら、無事なことしかなければ嬉しい。そんなふうに思いながら。


    ୦


 太助は水筒を肩にさげ、ソリの綱を握って、友達との待ちあわせ場所に行こうとしている。


「卓史っちゃんも、心ゆくまで食べてね」

 というが早いか、あっという間に姿は小さくなっていった。


 俺は食べかけの果物を、ひとつ平らげた。


「ああー、喉うるおった」


 きゅうりに似た形で、なすのような色したこれ、絶妙にウマくて。名前は聞いたが、ど忘れしてる。原産地ーはどこじゃらほい。


 それにしても、畑の隅に立つ俺たちは――


「ふたりっきりじゃん」

「ね。ふたりきり」


 うなじから真友の髪をそーっと後ろに払う。両脇に手をさし入れて、それなりの気あいで彼女を持ちあげた。


「軽いなー」


 まるで俺が筋肉野郎だ。

 真友のことを『○みたい』『〜がはえてるみたい』って言うと猿真似になるとの噂につき――天使みたいだ。いかがでしょうか。


 降り立った真友は俺の小鼻に触れて、ひとさし指に移り乗ったてんとう虫に笑う。


 キスをした。

 俺は膝立ちになって、真友の体に顔を押し当てる。

 真友が両手で、俺の頭をなぞる。

 変わらない。おまえのにおい。


「なんだろう」

「んん?」


「おまえのこともイタダキタイが。欲情がかきたたない。おまえもせがんでこん」


 声もなく笑うのがわかった、と同時に俺の頭がわしゃしゃッて撫でくられた。


「俺健全なんだから。ムラムラがマッチしたらあらためてなんだぞ」


 言いながらゆっくり立ちあがった。俺の腕のつけ根のあたりに真友が手をそえて、もう一度俺たちはキスした。


 こんなにこのままでいたいのにな。

 きょうのおまえの、太助を思わせるハーフアップした髪とは関係ないな。

 暗ーい現実な日々とも関係なく。あくまでもこの夢は俺にとって、思い出の続きなのだから。

 さすがに公園なんかじゃハメはずせなかったあのころ。

 ドコカの生命体が空から監視してるって気配は……ないがな、ここに。もし視られてるなら、見せつけるまでだ。

 少々おままごとな気分だからかなぁ。


「見わたしてると、花がかすみ草みたい」


 咲きこぼれる小さな白い花を見ながら、俺の腕の中で真友は言った。

 もしかして、ホワイトデーに渡したものにつけた花を思い出している?


「ここ、なに育ててるの?」

「そばの原種って聞いてるよ。太助に持たせたのも、そば茶なの」


「蕎麦……これが。こっから飲食物の原料だのが穫れるんかい」


 真友の手に指を引っかけた。「ベンチにもどるんでいい?」


「抱きあげてこーか」

「いいよ、実践しなくて。どうせなら膝マクラして」


 ぽっかりと土になってるところまでもどった。水筒をもう一本置いたベンチがひとつ、真ん中へんにある。そこに俺たちはかけた。


「太助と三人そろったら、川の字になって寝そべろーぜ。持ち主に叱られるかな?」

「あはは。共有地だよぉ」


 真友の右手を取って、みずみずしい手を、その指先まで包みほぐす。


 十五年だろうと――何十年だろうと

 俺の知ってる真友は、その世界でのあなたの在りかたでした。

 あなたのその人生には、結構な頻度で変わった男児が登場してきました。

 ああ。この人はこうなのだ。俺がおっさんや爺ちゃんになっても。そうにちがいないよ。

 俺の肺臓が 永久に動きを休めても

 この俺は? どうなのか。

 そんなことを考えるのは、いつも ‘起きて‚ からあとだった。


「つもる話はあるっちゃーあるだな。のんべんだらりやってるなりに」


 語れば ‘「魔」の‚ 十三日間の初日からになりそうだ。あんな長い、日一日はなかった。


「ん。たくさんたくさん話そ。でも、卓ちゃんが覚えてられるかは別よ」

「そうやってまた、意味ありげに言うんだな。俺はもう学校行きたくないよ。クラスのやつとワクチンの件で応酬してたのはタノシかったけど」


「ワクチンのって」


「その後俺のところにも接種券が来たから、片っぱしから打って、そのたんびに」


「――社会に出てない卓ちゃんのところにまで、案内が来たの」


 その天然めいた反応に、なにか胸がざわついた。


「世界で七割近くの人が、一度はワクチン打ってるよ。大人も子供も」

「七割近く。すごいんだねー」


 やっぱり噛みあってない。


「日本だけなら八割だよ。知らないの?」

「知ってないよ」


 真友の前にかがんだ。

 すこしにらめっこのようになった。


「ひとっつ、確かめさせてくれよ。中川真友ちゃん。あんた、自分が弔われたのも知ってないんか」


『風が気持ちいい』と言い、

 いつものように 『またね』って言ったんだ。


「だろうなぁーとは感じてる」

「――真友」


「信じてたよ。卓史くんに会えるの」


 俺は信じてなかったよ。どこにもおまえがいないなんて。


 半身座りあげたベンチで、抱きしめた腕に力をこめた。

 見ろ。会えてるじゃんか。やっとだけど。

 やっと………… だけど。



 ときどき波のように飛びたつ、小鳥の集団が地面をついばんでいる。

 もうひと頑張りすれば足の指も使って数えられるほどにかさねた、この、言いあらわせない時。


 同じ回数だけ、ウイルスの遺伝情報にアプローチした製剤を体に取りこんできたこと。

 その門を通らないと会えない可能性を感じてたことも、話して聞かせたって思う。

 高校受験や入学のころ、真友が自覚したのは「来てもよさそうなもの」が来ないのと食欲増進のみで、体は特段しんどくなかったと。疑って聞くかは、俺しだいらしい。


 聞けば聞いただけ、心が楽になる気もする。会ってとっくに安堵してた気もする。

 現実で生きてると、助けを求めて呼んでるときがある。見守っててほしいんじゃないのにムシがいいよ。


 俺が建てたわけではないお墓の前で、俺は二度だけ手を合わせたこと。二度目のとき、示しあわせたかのように昔の仲間と行き合ったこと。


 修学旅行は、見どころはあったがクソつまらなかったこと。


「まいんちコロコロといろんなニュースだ。TVでも、SNSのトレンドでも」


 東ヨーロッパの戦争のこと、元総理銃殺のこと。

 いまや自分が選挙の有権者であることやなんかも、無意味かもしれないが聞いてもらった。


「あのメンバーも、またひとり消えちまった」


 吹いては凪ぐかすかな風に、ため息を溶けこます。


「おまえもいなくなったけどな」


 静かに、真友も俺を見る。


「矛盾してるな……矛盾って言葉の言い換えがないか調べてみるよ、目ぇ覚めたらな」


 橋に目をやって、俺は言った。


「ここいらには字引きがなさそうだから。矛盾って字は、『矛』と『盾』だろ」

「うん。ここだと……」


 組んだ手のひらを前にのばし、足を浮かす真友。


「一面、畑なんだもんね。卓ちゃん、あたしたちが座ってるこのベンチー」


 箱ベンチの座面を真友は撫でた。


「ここが蓋になってるの。きっとお宝が入ってるんだ」

「え。開けたらトンデモナイことになる伝説の箱じゃねえのか。見てないの、おまえ」


「うん、まだ。どうせなら、先に卓ちゃんに教えようと思った」


「どれ」


 肩へ水筒を引っさげた。

 蓋は、簡単に指がかかって手前で浮いた。


 なにも考えずに持ちあげる。

 蓋の内側一面に張られた鏡が、空と、俺たちを映す。

 鏡の中の真友と目が合った。


「 ‘レコードプレーヤー‚ ? これは……でも」


 パッと見そんなふうに見えた内部だったが、 “トーンアーム„ のような棒は円盤の真ん中から出ていた。


「オルゴールの音ね。大きいなぁ」


 音量ではなく、本体のことを真友ちゃんは言っている。


 金属のその円盤がゆっくり回り、箱が旋律を奏でた。かねての町内放送もどきの調べと、それはハモって、この世界の大気に呑まれる心地がしてきた。


「おまえが持ってたやつとちがうな、あのミシン糸の芯みたいな形のと…………見たことない」


 しゃがんでひととおり眺めまわす。

 思い出すよな。あのオルゴールじゃ、左半分のステージの上で磁石の台座に乗ったバレリーナが踊ってたんだ。そうだろ? 真友。

 あれを見て、俺は玉乗りのピエロを連想していた。


「櫛みたいな『歯』が見えない」

「マルいのの下にあるんじゃないか? この円盤のプツプツがあるから、音が弾き出されるんだよな」


「うん」


 箱のふちに手をついて腰をあげる。側面や後ろ側も見てみるが、2wayあるいはそれ以上にして見た目はただただひらたい直方体、樹脂のようなものでできた箱である。


「ぜんまいはどこについてるんだろうな。ま、いっか」

「耳で聞けてるし」


「この音、聞いてたい」



 手の届きそうな

 雲が浮かんでるけど  雨は 雪は降るんかな


 この夢から覚めたら、そこの日付が何月の何日なのか。そんなこともわからない頭で、俺は考えた。

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君と隣りあわせて 児玉二美 @kodamahutami

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