第五十四話 ティス・ハーティルドール

「……んぅ」


 睡眠と覚醒の間、このまどろみの中で寝具に頬を擦り付ける事のなんと心地よい事か……いつまでも浸っていたくなる、だがそんな快楽と同等に私を引き込むものがある……先程から私の鼻を掠め漂う甘い匂いだ。

 この匂いは私の好きなベリー系のジャム……いやこの匂いの芳醇さはバターも混ざっているのだろう、温かいパンの上で溶けて混ざり合いながらも輝く二色の誘惑……ああ、想像するだけで涎が垂れてしまいそうになる。

 続いて耳に届いたのはこちらに近付く足音、その音はこの部屋の前で止まると共にノブが回され扉が開いた……ああ、匂いが更に流れ込んできて濃厚さを増してしまった……これでは睡眠どころではない!


「ちゃん……お姉ちゃん、起きてる?」


「……氷柱つららベリーのジャム?」


「お姉ちゃん……地下じゃないから氷柱ベリーは採れないって、でもローグベリージャムも氷柱ベリーに負けないくらい美味しいでしょう?……それに、起きてくれたら分厚い燻製肉も焼くよ?」


「あぁ……最高だわ、朝からなんて幸せなのかしら」


 ゆっくりと目を開くとそこには私の顔を覗き込む短い赤紫色の髪を揺らす少女が立っていた、腰には以前練習で作った紫のウエストエプロンを着けている……この前私がプレゼントしたものだが、わざわざ着けてくれるなんて……我が妹ながら本当に律儀な子だ。


「おはようリリア……んっ」


「もう、お姉ちゃんったら……はーい」


 のっそりと起き上がり両手を広げた私にリリアがハグしてくれた、もはや恒例となった朝の儀式だ。

 数度力を込めて抱き寄せ、離れた時にはリリアの頬がほんのりと色付いていた……もう何度もしているのに未だに慣れないようだ。


「それじゃあ髪を整えたらそっちに行くわ、エルマ達はどうしてる?」


「分かった、二人は多分中庭の方じゃないかな? エルマ君の考えた植物が実をつけたって喜んでたし」


「……今度は大丈夫なんでしょうね、以前食べたやつは意識が飛ぶほど酸っぱかったけど……」


 思い出すだけでも口の中に涎が溢れてくる、舌を出して顔をしかめてみせるとリリアも合わせて顔をしかめケラケラと笑い出した。


「あれは凄かったね、私も味が分からなくなったかと思っちゃった!……それじゃあキッチンに戻ってお肉を焼くけど、二度寝しちゃダメだよ?」


「はいはい、分かってるわよ」


 釘を刺すリリアにひらひらと手を振って答えながら部屋を出るのを見送る、扉が閉まるとあちこちに跳ねた髪を適当に撫でつけながらベッドから降りて部屋を見回した……そういえば随分と部屋の中に部品が増えた、どれもこれも魔導義肢用の部品だ。

 体力の限界まで作業してベッドに飛び込むあの瞬間が堪らないんだけど……何故か皆には同意されないのが不思議で堪らない。

 ──最初に緋水の樹を見たあの日からかなりの年月が過ぎた、エルマが律儀に数えてくれていたが……詳細な日付は忘れてしまった。

 リリアの体が完成してからというものあの子は毎日元気に動き回り、今では料理まで出来るようになってしまった……髪を短くしたのはリリアの要望だ、例の腐らない少女の遺体……あの子を悼んでの事だと以前寝物語に言っていた。

 エルマとナターシャは以前よりは仲が良くなったように思える、それがどうにも私の為の食料を栽培にするにあたって討論を重ねた結果だというからなんともこそばゆい話だ。




「おはようみんな、エルマ……それが新しい果実?」


「はい! 栄養面もバッチリですし、今度こそ人気の品になるかと!」


「おはようございますティス様、先にお口直し用の紅茶をご用意させて頂きました」


「んなっ……なんて事を言うんですかナターシャさん!」


 キッチンに行くと既に全員が揃って待っていた、頭を下げるナターシャの隣で私にエルマが差し出したのは緑色をした楕円形の果実だった、リリアの用意した朝食のせいか鼻を近付けても匂いがしない……というか口直しの紅茶って……そんな酷い味なのだろうか?


「はいはい喧嘩しないの……ん、ん?」


 果実を割ると中からほんのりピンク色をした果肉が姿を現したが、相変わらず匂いが一切しない……少し千切って口に運ぶとモニュモニュとした食感が口の中に広がる、悪くはないが甘みが随分と薄い。


「この前のに比べると随分マシだけど……何を食べてるのか分からないわね、何かを付けて食べるのが前提ならいいかもしれないわ」


 試しにと湯気を上げる自分の分のトーストに付いたジャムを少しつけて食べると普通に美味しかった、この方向で売り出すのも悪くないかもしれない。


「行儀悪いよお姉ちゃん、食べるならちゃんと座って食べて!」


「はーい、ごめんなさいね」


 リリアに怒られてしまった、この果実についてはまた後でとエルマに言い聞かせて席につくと改めて用意されたトーストを齧る、ジャムがたっぷりと塗ってあるせいで口の端から漏れそうになるのを片手て抑えつつ噛み千切るとジャムとバターの合わさった濃厚な甘味が口いっぱいに広がった、好みはあるだろうが私は朝は甘いものが食べたくなるタイプだ。


「ティス様……こちらにも目を通して貰えますか?」


「ん、どうしたの?……げっ」


 手渡された金属製のボードに目を通すとそこに書かれた数に変な声が出た、腕に脚に……要するに魔導義肢の注文票だ、そこに並んだ名前の列を改めて眺め……椅子の背もたれにグッと寄り掛かりながら変な笑いが出てしまった。


「ホント……滅んでなかったのね、人間達」


 それは一体いつの事だったか、最初に気付いたのは外に作った果樹園の果実が何者かによって盗まれた形跡を発見したのが始まりだった。

 夜通し監視を続けたナターシャが捕獲したのは一人の痩せた少年、話を聞けば妹の為に果実を盗んだのだとか……話を聞くついでにその少年に食料を分けている内にどこから話を聞きつけたのか人々が徐々に街に集まりだし、いつの間にか勝手にコミュニティのようなものができ……施設周辺の空き家に住み始めたのだ。

 その順応性にも驚かされたが更に驚いたのは全員がドールではなくただの人間という事だった、ズーラとは別の地下で生まれた者や地上に残りつつも逃げ延びていた者……事情は様々だがそういった人々が段々と合わさり、それなりの人数になったところでここに辿り着いたようだ。

 しかしやはり毒の影響か体に欠損のある子も多く中には眼球の無い子もいた、友好関係を結ぶ目的も含めて魔導義肢の作成を提案したのだが……まさか後々に集まってきた人の分まで作る事になろうとは思ってもみなかった。


「今では住人の数も随分と増えましたしね……僕達もティスさんの事を社長って呼びましょうか?」


「絶対止めて……もう、なんでこうなったのよ」


 ここに辿り着いた人達が住み始めた頃は食料や……まぁ様々な理由で争いが絶えなかった、私は当時既に技師として住民達の中で立場を確立してたので皆一時は私の話を聞いてはくれたが、すぐにつまらない理由で争いだしたので……ある時ナターシャと共に本気で『お願い』したところ住民同士の争いはパッタリと止んだ、そして代わりに住民達から誰が言いだしたか社長と呼ばれ始めたのだ。

 こんな話を時計屋クロッカーが聞いたらきっと腹を抱えて笑い出すだろう……ため息をつきながら紅茶を口に運ぶと、トーストのものとは違うスッキリとした甘さが口の中に広がった。


「まぁとにかくやれる事をやりましょう……リリアとエルマは新たな義肢装着者の補助を、ナターシャは今日は研究施設の方に回ってくれる? 貯蔵してある魔導石の量を確認して欲しいの」


「かしこまりました、ティス様はどちらへ向かわれますか?」


「とりあえず……孤児院ファウナの悪ガ……子供たちの義肢の調子を見てくるわ、あいつら何故か強がって調子が悪いのを隠すんだもの」


「ふふっ……すぐに成長するから服の採寸をするだけでもとっても大変だしね」


「ホントよ、あいつらすぐ暴れるし……全く」


 苦笑するリリアにこれでもかとげんなりした顔を作り頷いてみせる、残った紅茶を飲み干し器具の詰まった収納箱を腰のベルトに取り付けると出口まで歩いていく。

 懐中時計を開き時間を見るとそろそろ子供たちが外で騒ぎ出す時間だ……毎日毎日あれだけ騒いでどうして疲れないのかしら? 子供と大人のエネルギー消費なんかを調べてみるのも面白いかもしれない。


「それじゃあみんな……行って来るわ、何かあったらすぐに魔導通信で連絡してね……特にリリア、また一人で何でもやろうとしないでよ?」


「もう、分かってるよお姉ちゃん!」


 頬を膨らませて遺憾の意を示すリリア……随分と可愛らしい抗議だ、つい笑みがこぼれてしまった。




「っ……眩しいわね」


 陽動器ようどうきの光を手で遮りながら空を見上げる、思想家シンカーの言う通りアレが止まるのはまだまだ先の事だろう……というよりアレが止まる日が今度こそ人類絶滅の時なのだろうか?……ここまでくるといっそどうやったら絶滅するのかなどと考えてしまう、いやこれは危険な思想かもしれない……胸の奥にそっとしまっておくべきだろう。


「お姉ちゃんお日様、苦手?」


 視線を落とすと私の手を握る褐色の少女が首を傾げていた、彼女は生まれつき右の眼球が無かったので魔導義眼を埋め込んでいるのだがキチンと両方の瞳がこちらを向いている、特に問題は起きてい無さそうでホッと胸を撫で下ろす。


「んー……そうねぇ、ライラはあの光が好きなの?」


「うん! なんかねぇ、元気がもらえる気がするの!」


「そう……元気なのは良い事よ、何をするにも必要だもの」


 しゃがみ込み頭を撫でてやると嬉しそうな表情を浮かべて私の手の動きに合わせて頭を揺らした、子供たちが全員この子のように素直ないい子ならと思わずにはいられない。


「……とまぁこんな感じが今の私達よ、貴方もこの平和が続くように祈ってくれるかしら?」


 正面に向き直り、これでもかと磨いた石と金属の装飾で作られた構造物に微笑みかける。

 この街を拠点にすると決めた日から最初に作り上げたのがこれ──リリアとの約束でもある時計屋の墓だ、名前が彫ってあるだけの簡単なものだが迷った時なんかはここの前に来て近況などを報告している。

 少し視線を逸らすと背の高い柵の奥に広がる墓地が目に入った、時計屋の墓とは違いあの小さな墓の一つ一つには本当に死体が埋まっている……全力を尽くしたが私が助けられたのはほんの一握り、治療が間に合わなかった者や技術が未熟故に助けられなかった者……どうにかここへ辿り着いた頃には手遅れだった者もいた、彼女……ライラの親も私には助ける事が出来なかった。


「……あ」


「ん? どうしたの?」


 腰辺りに抱きつきながら嬉しそうな顔を浮かべていたライラの表情が一変して曇り、私の後ろを指差した。

 立ち上がって振り向くとそこには一人の青年が立っていた、ボロボロの服に包帯の巻かれた右手は左手と比べて明らかに長さが違う上にこの悪臭……傷が膿んで腐りかけているのだろう、それに左眼の視力も怪しそうだ。


「貴方……いいえいいわ、私に何か用かしら?」


「あ、あの……こ、ここに来たら治療を受けられるって、聞いて……」


 何とか聞き取れるが呂律も回っていない、恐らく過度の栄養不足……何から手をつけたものかと思案しているとズボンの裾が引っ張られた、どうやらライラは彼が怖いらしい。


「大丈夫よライラ、後で行くから先に行って皆のところで待っててくれるかしら?」


「……うん、絶対来てね?」


「ええ、約束よ」


 走りながらも何度か振り返るライラが見えなくなるまで手を振って見送ると、改めて青年の方へと向き直る。


「えと……今、これしか無くて」


 青年がおずおずと差し出したのは小さな金属片だった、いつからだったか人間達が硬貨の代わりとして使い始めたものだ……確かに金属は今や貴重品だが、ハッキリ言って私は何の魅力も感じない。


「そんなもの要らないわ、ちゃんと治療してあげるから……その懐のナイフと一緒に大事にしまっておきなさい」


「……っ」


 目を見開いた青年が息を詰まらせた、恐らくは私が治療を拒否したら襲うつもりだったのだろう……外から来たばかりの人間には珍しくない反応だ、どんな理由があるにせよ人をここまで狂気に走らずにはいられなくなるとは……ここに来る以前に彼がどんな目に遭ったかは……考えたくはない。


「治療……出来るんですか? だって俺、腕が……こんなだし」


「腐ってるんでしょう? 見ればわかるわよ、その状態になってからどのぐらい放置してたの?」


「あ……二か月……ぐらい?」


「二か月って六十日ぐらいだっけ? よく我慢したわねぇ……左眼も殆ど見えてないでしょう? 食事は検査の後になるけど……歯はどう? 噛むのが難しいようなら柔らかい食べ物を用意するわ、ちゃんと全部元通りに治してあげるから安心しなさい」


 ともあれ、まずは着替えと風呂か……ナターシャに魔導通信で男性用衣服の用意と除菌槽の用意を指示していると青年が膝をついて崩れ落ちた。


「ちょ、ちょっと……貴方大丈夫?」


「俺……もう本当に駄目かと思って……こんな俺を助けてくれるなんて、貴方は神様のような人だ……」


「は……ふふ、いきなり何を言いだすかと思ったら……」


 青年の左手を掴んで立たせると、人差し指をぴんと伸ばして彼の胸元を数度叩く。


「いい? 私は神様でも社長でもないの……私の名前はティス、ティス・ハーティルドールよ。ドール専門の技師……呼ぶなら人形細工師ドールズ・メイカーと呼んでくれるかしら?」


 両の目に涙を浮かべて泣き崩れてしまった男性を見て彼もまた大丈夫だと安堵のため息を漏らし空を見上げる……ここからでは見えないが地上を照らす陽動器の向こうでベロニカはまだ人類を呪っているのだろうか? もしそうなら私は彼女に伝えたい事がある、人類は終わらないし終わらせないと……そして貴方をずっと待っている人がいると。


「……ま、かなーり変な奴だけど……あら?」


 ふと耳に数人の足音が聞こえてきた、何事かと視線を下げて街の入り口の方へと目を向けるとそこにはよく見知った少女の……いや、少女達の姿があった。


「ひぃふぅ……ふふ、これから賑やかになりそうね」


 共に地下から這い出た少女とその姉弟……全員がこちらを向きながら浮かべる自慢げな表情に思わずこちらも笑みが浮かぶ。


「お母さん、この一度終わった地上でもまだまだ話す事は尽きなさそうよ……耳を塞ぎたくなるくらい毎日話してあげるから、覚悟しておく事ね!」

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終わりを歩く人形細工師 夢月 @muduki112

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