第五十三話 紅水揺れる樹の下で

『……うっ、服って水を吸うとこんなに重くなるのね』


 ゲートを抜けた先の階段に沿って上がるとやがて水面が現れた、やっと水中から出られると胸を撫で下ろしたのも束の間、今度はぐっしょりと濡れた衣服の重さに困惑させられる事となった。

 重さもそうだが靴の中が歩く度にグジュグジュと音を立てて体中に伝わるその感触が端的に言って気持ち悪い。


『すみません、本来は脱いだ方が機能的には良いのですが……あちこちに散らばっている残骸の先端などで怪我をする恐れもあったもので……』


『いいのよ、こんなの後で乾かせばいいだけだもの……とはいえさすがに歩きづらいわね』


 先を行くナターシャを呼び止めて段差に腰をおろすと片足を伸ばしてブーツを脱ごうとするが肌に貼り付いているのかなかなか脱げない、隙間に指を捻じ込み強引に押し込むと何とか脱げたが今度は勢いがつきすぎてしまったようで足を離れたブーツの口から大量の水が舞い上がり顔にかかってしまった。


『うっ……やっちゃった……』


『だ、大丈夫ですかティス様?』


 隣の段差に腰をおろしたナターシャが私の顔に手を伸ばし、水の中に混ざっていた砂粒などを拭い落としてくれた。


『ありがと、まぁどこもかしこもびしょ濡れなんだけど……ああそういえばこれも、もう必要無いわね』


 口に貼り付くピラートを引っ張るとあっさりと取れてしまった、水中ではあれだけ動いてもしっかり吸着していたのに……一体どういう構造なのだろうか?


「はー……やっぱりコレを通しての方が綺麗な気はするけど、こっちの方が不思議と肺に馴染む気がするのよね」


「やっぱり僕達はまだ地下での生活の方が馴染みがあるからかもしれないですね、この辺りの空気はズーラのものに近い気がします」


 確かに……辺りを見渡し納得した、じっとりとした湿気と土の匂い……言われてみればなんだか懐かしい気すらしてくる。


「やっとお姉ちゃんの声が聞こえるよー、私もその魔導通信? でお姉ちゃんとお話してみたかったなぁ」


「そうねぇ……でもきっともうすぐよ、そうでしょうナターシャ?」


「はい、この階段を上った先が緋水ひすいの樹が植えられたエリアになります」


 同じくピラートを外しながらナターシャが教えてくれた……のだが彼女の口元とピラートの間を結ぶ唾液の橋に一瞬意識が持っていかれてしまった、呆けた私を心配したのか覗き込むように近付いたナターシャの顔につい心臓が高鳴る。


「ティス様? どうかされましたか?」


「あ、ああいえ何でもないのよ……少し疲れたのかもしれないわね、先を急ぎましょう」


「はい……?」


 首を傾げるナターシャを適当に誤魔化しながら水を抜いたブーツを履き直して立ち上がると、足早に階段を駆け上がった……全く、こんな時に私は何を考えているのか。


「それにしても緋水の樹って一体どんな――」


 何とか今の挙動を流してもらおうと適当な話題を振ったつもりだったが、階段を上り切った私の前に現れた光景に言葉を失ってしまった。


「……こちらがヴィオレッタ様のお作りになられた、この統合施設全体に魔力を送るドール……緋水の樹、でございます」


 いつの間にか隣に並んでいたナターシャが樹をまっすぐに見つめながら説明してくれた。

 雄大さすら感じさせる大きな紅い葉を揺らす大樹、根元の力強く太い根からは幾重にもチューブのような細い根があらゆる方向へと伸びている……恐らくあれで各施設に魔力を送っていたのだろう、樹の中腹辺りには浮遊する金属製の大きなリングが緋水の樹の中腹辺りを囲っておりあれが大樹自身に魔力を送っているのだろうか?……それともあのリングも含めて樹なのか、何にしても私には構造の想像すらつかず技術者としても私は時計屋クロッカーと比較するとまだまだなのだと思い知らされる。


「ん……葉が、振動してる?」


 風も届かない地下深く、それなのに何故木の葉が揺れているのか疑問だったが近づいて見てみるとその理由が分かった……葉だと思っていたそれは緋色に色付いた水だったのだ、それらが細かく分かれた大樹の枝先であたかも葉の一枚一枚であるかのように振舞っていた。


「綺麗……紅い水の葉だなんて……」


「ええ……でもどうして時計屋はこんなものを……?」


「ヴィオレッタ様はこれを『世界のカタチ』だと仰っておりました……自分には世界はこんな風に見えているのだと」


「これが……時計屋の見ていた世界?」


 私の言葉に頷くナターシャから視線を逸らし再び緋水の樹を眺める……すぐ傍まで近づき、私の背でも届きそうなぐらい低い枝先の水の葉にそっと手を伸ばし……触れた、指先の触れた水の葉は呆気ないぐらいにあっさりと弾け私の指先を僅かに濡らす。

 樹の一部だった時はあんなにも赤かったが今指先を濡らすこの水は何の変哲もない無色透明なただの水と化していた……濡れた指先に鼻を近づけるが何の匂いもしない。


「その言葉が何を意味するのか、この樹の外見が何を指しているのか……到底私には分かりかねます……が、ティス様は私などとは違います」


 そっと私の隣に並んだナターシャが不透明な硬質ケースを差し出してきた、それを受け取り蓋を外すと中から時計屋から預かったあの懐中時計が姿を現した。

 耳を近付けると小さいが、断続的に時を刻む音が聞こえてくる……目を閉じてその音に集中すると時計屋と過ごした時間が思い浮かんでくるかのようだ。


「ヴィオレッタ様が去られた今……これより先は私自身を含めて施設の全所有権はティス様に譲渡されます、どうか私共をお導き下さい」


「ちょ、ちょっと! 頭を上げなさいって!」


 胸に手を添え、片膝を折って頭を下げるナターシャに慌てて声をかけるが目を閉じたままその頭を上げようとはしない。

 乱暴に頭を掻いて辺りを改めて見渡す……この緋水の樹のエリアだけでも相当な広さだしここまでの通路は浸水して天井はボロボロ、文字は翻訳無しじゃ読めないし何より知らないドールだらけだ……水抜きに修理、そしてリリアの体とやる事は今から眩暈がしてきそうな程に山積みだ。


「……まずはここの水抜き?……いいえそもそも昇降機って作れるのかしら? ああもう、こんな事ならもっと時計屋に教えてもらうんだったわ」


「え、えっとティスさん?……今はそういう話ではないかと、思うんですけど……わっ、わわっ!」


「なぁに言ってんのよ、これこそ今の問題でしょうが? 毎回毎回びしょ濡れになるなんてたまったもんじゃないのよ?」


 両手でエルマを握り、グリグリと転がしながら視線を落とすとポカンとした表情でこちらを見るナターシャの姿があった、そんな彼女にニヤリと笑顔をぶつけてやるとしゃがんで視線を合わせた。


「いい、ナターシャ? 私は時計屋の娘だけど時計の一つすら作った事は無いの、だからこの施設どころか貴方だけを導けるかどうかすら怪しいわ」


「お、お姉ちゃん……?」


「リリア、貴方も聞きなさい……ハッキリ言ってこの世界はもう終わってるわ、私達は緩やかな死の最中に取り残されただけなのよ。だから私は貴方を導かない……いいえ導けないの、ここまでは分かった?」


「……は、い」


「でも、よ!」


 陰りが見えたナターシャの顔を両手で包んでまっすぐに見つめるとその目が再び大きく見開かれた、ついでにわざとらしく笑ってみせる。


「だからってただ滅びを待つほど私は行儀良くないの、もっと美味しい物も食べたいし美味しい紅茶も飲みたいわ、刺激飲料もね! その為にも貴方には今後も私達と一緒に生きてもらうわ、時計の針が止まるその瞬間まで私の時間に付き合ってもらうんだから!」


 私は人を導けるような器じゃない、それは私が一番よく分かってる。

 でも終わった世界でだけなら私にも出来る筈だ、差し出した私の手にナターシャの手が重なった時その予測は確信へと変わった。


「はぁー……ティスさんはやっぱり食い気なんですねぇ、まぁお堅くお淑やかなティスさんなんて想像つきませんけど」


「ふふっ……期待してるわよ肉焼き名人さん?」


「わっ……くすぐったいですよぉ」


 すぐ傍で体を揺らす相棒を軽く撫でつける、そんな私達を見てリリアがくすりと笑い声を漏らした。


「さてさて、ではお姉ちゃん隊長殿?……最初の任務は何を致しましょうか?」


「うーん……そうねぇ、まずは……」


 わざとらしく唸り指先をくるくると回しながら少し考え……やはり欲求には素直になる事にする、なぁに時間ならたっぷりあるのだ。


「とりあえず、この辺りともう機能してない開発施設の魔導石を回収して今日はもう撤収! お風呂入ってご飯食べて……それからの事は明日の私に任せましょう!」


 一瞬の静寂、そしてそれはすぐに弾けて暖かい笑い声が辺りを包み込んだ。

 今の私達を時計屋はどこかで見ているだろうか? 今すぐにでも会いたいし開いた口から溢れる言葉がお説教でも構わない、でもそれはずっと後の事だ……私達はまだ終わらないのだから。

 だからもう少し、もう少しだけ待っていて欲しい。

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