裏切りと友情

春風秋雄

12年ぶりの千鶴が目の前に現れた

12年ぶりに会う千鶴は、やはり綺麗だった。俺より2つ年下だったから、35歳になっている。ぱっと見は、まだ20代で通るだろう。俺は12年前の気持ちがブリ返してきそうで、ドキドキしていた。

ただ、こうやって近くで見ると、疲れが見て取れる。かなり精神的にも参っているのだろう。

「それで、雄介の容態はどうなんですか?」

「現状の治療方法では、なかなか治癒は難しいらしいです。とりあえず、本人はまだ元気ですが、これからどんどん病状は進んでいくだろうと言われています」

「それで先進医療を受けるということですか」

「それで治癒するという保証はないのですが、少しでも可能性があるのであればと思って」

「保険には入ってなかったんですか?」

「入っている保険では先進医療は対象外になっていて」

「それでいくら必要なのですか?」

「300万円くらいです。他に頼れるところはなくて、こんなことお願いできる立場でないことは重々承知なんですが、お願いできないでしょうか」


俺の名前は須崎悦司。小さいながらも会社を経営している。それほど儲かってはいないが、業績自体は安定していて、ぎりぎりだが、黒字を続けている。

今、目の前にいる女性は椎名千鶴。今は結婚して近藤千鶴になっている。旦那さんは俺の中学校時代からの友達だった近藤雄介だ。

俺は社会人になって間もなく、友達の紹介で知り合った千鶴と付き合っていた。お互いの気持ちを確かめ合い、両家の親にも挨拶をすませ、結婚の準備を進めていた。親との同居を予定していたので、母親が千鶴のことを気に入ってくれたのは何よりだった。

親友の雄介にも婚約者だと紹介して会わせ、3人で食事したことも何度かあった。ある日、3人で食事をしていると、会社から呼び出しがあった。取引先とのトラブルだった。会社を立ち上げて間もない頃だったので、取引先とのトラブルは迅速に解決しなければならない。料理を頼んだばかりだったので、二人にはゆっくり食べて帰るように言って、お金だけ置いて会社に向かった。それから1か月もしないうちに、千鶴から別れたいと言ってきた。千鶴はなかなか理由を言わなかったが、問い詰めると、雄介と付き合うことにしたと白状した。あの日二人きりになったのがきっかけらしい。その後雄介から、会って話をしたいと何度も言ってきたが、俺は会わなかった。狭い街なので、バッタリ雄介と出くわすこともあったが、俺は無視して話をしようとしなかった。千鶴と別れて3年くらいしてから風の便りに、二人が結婚したと聞いた。あれから12年。俺はいまだ独身だ。


そんな千鶴が12年ぶりに会いたいと言ってきた。雄介が病気だという。治療費に大金が必要なので貸してくれないかということだった。いまさら、俺が手を差し伸べる道理はない。貸しても返してくれるとも思えない。俺は断ろうと思った。しかし、なかなか断りの言葉を口に出せなかった。その時、応接室のドアから総務経理を任せている朝倉沙織さんが顔を出した。

「社長、ちょっといいですか」

何かあったかと思い、俺は千鶴さんに「ちょっとすみません」と言って席を立った。

応接室の隣の事務室に行くと、朝倉さんは応接室から離れた隅に俺を連れて行き、封筒を差し出した。

「300万円入っています」

朝倉さんは俺たちの会話を聞いていたのだろう。応接室のパーテーションは天井までつながっておらず、会話は事務室に筒抜けだった。

「それは明日の支払いのために金庫に入れていたお金じゃないのか?」

「大丈夫です。明日の朝一番で私が銀行からおろしてきますから」

「俺はまだ貸すとは決めてないよ」

「でも最終的には貸すのでしょ?」

「なぜそう思うの?」

「あの方、以前社長が話されていた千鶴さんでしょう?」

俺は否定しなかった。

「そして、その旦那さんは、社長の友達だった雄介さんですよね?」

朝倉さんには以前事情を話したことがある。だからすべて理解しているようだった。

「事情は以前聞いていますから、社長の気持ちもわかりますが、今この300万円を貸さなかったら、社長は必ず後悔します。雄介さんが生きられる望みを、自分が閉ざしたのではないかと」

言われるとおりだった。他のことでお金を貸してくれというのだったら、即答で断っていただろう。ところが、雄介の命がかかっていると言われれば、断ろうと思っても、なかなかそれを口にできなかったのだ。

「しかし、今この300万円がなくなったら、今月の資金繰りがきつくなるだろう?」

「きつくなるだけで、倒産はしません。ましてや命まで取られることはないですから」

この人は、俺以上に肝が据わっている。

「わかった。ありがとう。経理処理は俺への仮払金にしておいてくれ。いずれ俺のポケットマネーから補填する」

応接室に戻った俺は、300万円が入った封筒を渡し、返済はいつでも良いと伝えた。千鶴は涙を流しながら何度もお礼を言った。その涙が、雄介が助かるかもしれないという喜びの涙なのか、12年前の行いに対する慙愧(ざんき)の涙なのかは判断できなかった。

千鶴が帰ったあと、朝倉さんがポツリと言った。

「千鶴さん、綺麗な人でしたね」


朝倉沙織は、6年前に入社してきた。現在28歳の独身だ。とても仕事が出来る。事務仕事でミスをしたという記憶がない。経理・総務はもちろん、俺の秘書のような仕事までこなしてくれる。いまや、この会社には不可欠な存在になっていた。彼女の人となりを知った俺の周りの人は、口をそろえて「彼女を嫁にもらえ」と言ってくる。社員からは、「朝倉さんが結婚して退職したら会社はどうなるんですか。他の男にとられる前に社長が嫁にもらってくださいよ」とまで言われる。朝倉さん自身も、俺に対して好意を持ってくれていることは伝わってくる。しかし、俺はその気になれないでいる。その一番の理由は、雄介への対抗心だ。俺は12年前に、結婚するなら千鶴より綺麗な人と結婚してあいつらを見返してやるんだと心に決めた。その気持ちは今も変わっていない。朝倉さんは、決してブスではない。どちらかと言えば可愛い方だろう。しかし、千鶴と比べると、どうしても見劣ってしまう。この狭い街で、しかも俺の狭い交際範囲の中から、千鶴より綺麗な女性と出会うなんてことは、そうそうあるわけないということは十分承知している。それでも俺は意地になっていた。

でも、ひょっとすると、それは言い訳で、俺はただ単に、また裏切られるのが怖かっただけかもしれない。


300万円がなくなったことで、月末の資金繰りはかなり苦しくなった。俺のポケットマネーですぐに動かせるお金は150万円くらいしかなかった。このままだと、社員の給与が危ないと思っていたら、朝倉さんがリストを俺に渡しながら言った。

「このリストの方々には、事情を話し、月末の給与は半額にしてもらい、残りの金額は来月10日の入金で支払うことで了解をとっています」

驚いた。いつのまにこれだけの社員に交渉したのだ?そのリストの金額合計で、不足分は確かに補填できていた。そして、そのリストには朝倉さんの名前もあった。


千鶴から連絡があったのは、あれから半年くらい経過した夏の暑い日だった。雄介は入退院を繰り返しているが、とりあえず快方に向かっているとのことだった。その報告と、返済についての相談をしたいということで、自宅に招かれた。自宅と聞いて難色を示したら、雄介は今入院中で、いないからと言われた。雄介の家で千鶴さんと二人きりで会うのは抵抗があったが、確かお子さんが二人いたはずなので、お子さんもいるからいいかと承諾した。

しかし、仕事が終わって、千鶴さんの家に行くと、子供たちの気配がなかった。

「お子さんたちはどうしたのですか?」

千鶴に勧められるままリビングのソファーに腰掛けながら聞いた。

「今は夏休みなので、私の実家に預けています」

図らずも二人きりになってしまったという心のざわめきと同時に、ふと12年前に挨拶に行ったご両親の顔を思い出し、懐かしさを感じた。

雄介は治療がうまくいって、今回の入院が最後で、その後は定期健診で様子をみるとのことだった。5年間は再発の可能性があるので、安心はできないが、とりあえず社会復帰できそうだということだった。

「須崎さんのおかげです。本当にありがとうございました」

「何はともあれ、社会復帰できるということであれば良かった」

「それで、お借りしたお金の返済のことなんですが」

「それは、いつでもいいです。余裕ができてから少しずつ返してもらえばいいですから」

「あんなことがあったのに、須崎さんにこんなことをお願いして、その返済もままならないというのが心苦しくて」

千鶴は目に涙をためながらそう言ってうつむいた。

「それは仕方ないことです。千鶴さんが会社に来たときは、俺も迷いましたが、自分で決めて貸したお金ですから」

しばらくうつむいたままだった千鶴が顔を上げた。その目には涙があふれていた。そして立ち上がり、俺の方へ歩いてきたかと思うと、いきなり抱きついてきた。

「私を抱いて下さい。今の私にはこれしかできないので」

「千鶴さん」


千鶴の家を出ると、朝倉沙織が立っていた。

「どうしたんだ?」

「ごめんなさい。気になって来てしまいました」

朝倉さんは泣きそうな顔でそう言った。俺と千鶴の電話での会話を聞いていたのだろう。もしかしたら、会社を出たときから後をつけていたのかもしれない。

「夕飯は食べたかい?」

「まだです」

「じゃあ、何か食べて帰ろうか」

「だったら、社長のマンションへ行きましょう。私何か作ります」

俺は驚いて朝倉さんの顔を見た。俺のマンションに朝倉さんが来たことはない。朝倉さんの、その顔から何か強い意志を感じた。

近くのコインパーキングに置いていた車に乗り込み、俺たちはスーパーマーケットで買い物をして、マンションへ帰った。

「それじゃあ、台所を借りますね」

朝倉さんはそう言ってテキパキと料理を始めた。

朝倉さんが作った料理はどれも美味しかった。食事をしながら朝倉さんが聞いてきた。

「千鶴さんとはどうだったんですか?」

「どうって、特に何も。返済はいつでもいいし、余裕ができてから少しずつ返してくれればいいって言っておいた」

「それだけですか?」

「それだけだよ」

朝倉さんは、訝しんでいるようだったが、それ以上は何も聞いてこなかった。


リビングのソファーで食後のコーヒーを飲んでいると、朝倉さんが聞いてきた。

「社長が結婚しないのは、まだ千鶴さんのことが好きだからですか?」

「千鶴のことをまだ好きかと聞かれると、今はそんな気持ちはないと言うしかないけど、結婚しないのは、その時のことを引きずっているからかもしれないな」

俺がそう言い終えると、朝倉さんはいきなり俺に抱きついてきた。

「私じゃあ、ダメですか?私は絶対に社長を裏切りません」

このシチュエーションは、今日2回目だ。どうやら今日は人生最大のモテ日のようだ。

俺が黙っていると、朝倉さんは俺の耳元で言葉をつないだ。

「私、千鶴さんに社長を取られたくないです。どうしても千鶴さんがいいと言うなら、一度でいいので、私を抱いて下さい。それを思い出に私は会社を辞めます」

「君に会社を辞められたら、俺は困るよ。それに一度だけ君を抱くなんてことは俺には出来ない」

俺は抱きついている朝倉さんを優しく離し、朝倉さんの顔を見ながらそういうと、朝倉さんの目から大粒の涙がこぼれ落ちてきた。

「一度しか抱けないなんて嫌だ。俺は君を何回も何回も、一生抱き続けていたい」

朝倉さんは、え?という顔をした。

「朝倉沙織さん、俺と結婚してくれませんか?」

朝倉さんは、新たな涙を流しながら、再び俺に抱きついてきた。


千鶴が「私を抱いて下さい」と抱きついてきたとき、頭に浮かんだのは、朝倉沙織の顔だった。今こんなことをしていたら、俺は朝倉沙織を失ってしまう。そう思った。その時初めて自分の気持ちに気づいた。俺は朝倉さんのことが好きなのだと。それから俺は、静かに千鶴を引き離し、彼女に言った。

「こんなことをしてはいけない。雄介を裏切ってはいけない。今は無理かもしれないけど、もう少し年をとったら、俺も雄介に会いたいと思っている。こんなことをしたら、俺は一生雄介に会えなくなるよ。せっかく助かった命なのだから、雄介を大切にしてあげなさい」


あれ以来、沙織は俺のマンションで寝泊まりするようになった。来週あたり沙織の両親に挨拶に行こうと話している。俺の親は、母親は4年前に他界しており、親父は会社に来るたびに「朝倉さんを嫁にもらえ」とうるさく言っていた。先日電話で結婚することになったと話したら、大喜びしていた。


ある日、会社あてに雄介から手紙が届いた。読まずに捨てようかと迷っていたら、沙織が

「ちゃんと読んであげたら?読んであげることで、お互い、過去を水に流せるんじゃない?」

と言ってくれた。俺は黙って手紙をカバンに入れた。


家に帰って、雄介の手紙を開いた。病気の後遺症で上手く字が書けないのか、すべてパソコンで印字された文字だった。


『悦ちゃん、ご無沙汰しています。

この手紙は読まれずに捨てられてしまう運命かもしれません。

それでも僕は、この手紙を書きました。書かずにいられませんでした。

僕の治療費を貸してくれたと聞きました。本当にありがとう。おかげで僕は復活することができました。お金の関係とはいえ、悦ちゃんと、また繋がりができたということが嬉しくて、変な話、病気になってよかったと思ってしまいました。


ずっと話したいことがあったのですが、なかなかその機会をもらえず、12年以上も経った今、この手紙で話させて頂きます。

12年前に千鶴が悦ちゃんに別れ話をした際、その理由を僕と付き合うようになったからと言ったそうですが、それは嘘です。

確かにそのずっと後に付き合うようになり、最終的に結婚までしましたが、僕たちが付き合うようになったのは、悦ちゃんと千鶴が別れて2年くらいしてからです。

千鶴が悦ちゃんと別れた本当の理由は、悦ちゃんのお母さんです。

悦ちゃんのご両親に挨拶に行った際、お母さんに連絡先を交換しようと言われ、連絡先を交換したところ、毎日のように連絡がきたそうです。最初のうちは、悦ちゃんの好きなものとか、嫌いなものとかを教えてくれる程度だったようですが、そのうち買い物や家の用事を頼まれるようになったそうです。千鶴もお母さんに嫌われたくない一心で、言われるまま買い物を手伝っていたようですが、さすがに千鶴も仕事をしているので、どうしても行けない時もあります。今日は仕事があるので行けないと連絡すると、「どうして来れないのだ。仕事と旦那の母親とどっちが大切なのだ」と責め立てるようなメッセージが来たそうです。食事中に悦ちゃんが仕事で抜けて、僕と千鶴の二人になったとき、その相談を受けました。僕は悦ちゃんに相談しろと言いました。すると、お母さんから「悦司にくだらん告げ口なんかしたら、あんたら結婚できんようにするからね」って言われていたそうです。悦ちゃんに別れ話をした頃は、一日に何回も連絡がくるようになったそうで、千鶴は精神的にかなり参っていました。僕も気になって何回か相談に乗ろうと連絡をしていたのですが、千鶴は僕からの連絡は一切無視していました。やっと千鶴から連絡がきたとき、悦ちゃんと別れたと告げられました。その時会って詳しい話を聞きました。そして、その時初めて、別れる理由を僕と付き合うことになったからだと言ったと聞きました。どうして本当のことを言わないのだと言うと、あのお母さんがいる限り私は悦司さんと結婚はしない。例え両親と別居すると言われても、あの人と親戚付き合いなんかしたくない。だから、結論は決まっているのだから、本当のことを悦司さんに言って、母親思いの彼を悲しませたくないと言っていました。それでも僕は本当のことを悦ちゃんに伝えるべきだと思い、何回も連絡をとりましたが、悦ちゃんは会ってくれませんでした。

悦ちゃんと別れたあとの千鶴は、ボロボロでした。しばらく心療内科にも通っていました。変なことを考えないだろうかと心配になり、僕は放っておけなくて、出来るだけ千鶴のそばにいるようにしていました。それが、いつのまにか千鶴への思いに変っていったのです。僕は千鶴のことを好きになってしまい、悦ちゃんに申し訳ないと思いながらも、交際を申し込んだというのが経緯です。

だから、これだけは言わせて下さい。千鶴は何も悪くないのです。悦ちゃんを裏切るようなことは何一つしていません。悪いのは僕です。別れたとはいえ、まだ悦ちゃんは千鶴のことを好きなんだろうなと思いながら千鶴と付き合ってしまった僕が、一番悪いのだと思います。

あと、これは書かなくて良いことなのかもしれないけど、

悔しいけど、千鶴の心の中には、ずっと悦ちゃんがいます。僕はそれを承知で結婚したのだけど、悦ちゃんのお母さんが他界されたと知って、何とも言えない気持ちになりました。ただ、今の僕に出来ることは、千鶴と二人の子供を幸せにすることだと思っています。

いつの日か、直接会って悦ちゃんに謝りたいと思っています。

そんな日が来ることを心から願っています』


何て言うことだ。雄介は一番悪いのは僕だと言っているが、一番悪いのはお袋じゃないか。そして、雄介の話を聞こうとしなかった俺が悪い。何よりも、千鶴には本当に申し訳ないことをした。

この手紙を読む限り、雄介には感謝しかない。ボロボロだった千鶴を守ってくれてありがとう。心底そう言いたい。今さら俺に何が出来るわけでもないが、二人には幸せになってほしいと願わずにはいられなかった。


「手紙どうだった?」

沙織が聞いてきた。

「うん、読んで良かった。沙織のおかげだよ」

「そう、それならよかった」

そういう沙織の顔はとても綺麗だった。

男ってやつは、一番好きな女性が、一番綺麗に見えるようだ。

沙織だけは何があっても幸せにしようと思った。

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