あなたの為の、雨が降る

降霰推連

あなたの為の、雨が降る

 幼稚園の頃に、とても強い雨が降った日を今でも憶えている。


 幼かった私は、何故かとても近所の公園に行きたくて、親に連れて行ってとお願いした。

 案の定ダメと言われたけど、私はどうしても公園に行きたくて気付けば、一人、傘を持って内緒で家を飛び出していた。


 家から出てはみたものの、子供用の傘は家から少しした所で壊れてしまい、ずぶ濡れになって何度も転んで泥だらけになりながらも、私は公園を目指した。

 やっとの想いで辿り着いた公園は水浸しで、私自身も何でここにきたかったのかわからかったのを憶えている。


 帰ろうかなと思いながらぼーっと公園を眺めていると、隅の方に人影をみつけて、気になってとぼとぼと近づくと私と同い年くらいの女の子が傘も刺さずに楽しそうに両手を空に広げて立っていた。


 私が、何してるの? って聞いてみるとその女の子はこちらを向き「雨にさわってる!」って答えた。


 その時に私は思った。この子面白いって。

 それが彼女、雨音との出会いだった。


 私たちはその後、23年間共に同じ時間を過し、そして今日、私は彼女の葬儀を終えた。


 事故だった。誰も悪くない。ただ運が悪かった。ただそれだこのこと。


 偶然にも雨の日で、偶然にも道端で子供が転び、偶然にも通りかかった車が子供を避けて、偶然にも車のコントロールが効かなくなり、偶然にもそこに居た雨音にぶつかってしまった。ただ、それだけ。


 きっと、毎日どこかで事故は起きている。それが雨音だっただけ。そして助からなかった、それだけだ。


 雨音の両親から、何であんな雨の日に一人で出かけさせたの? って言われた。私は、雨音は雨が好きでその日も散歩に行ってくると言ったからと答えた。それを聞くと雨音のお母さんは泣き崩れ、幸せにするって言ったじゃないと私にいった。すみませんでしたとしか返せなかった。


 雨音の両親は私たちが一緒に暮らす事を反対していた。それでも一緒に暮らせたのは、雨音が駄々をこねたからだ。

 彼女は、「ぜったい、千里と一緒に暮らす!」とムキになっていたのを今でも憶えてる。

 私も腹を括り、絶対に幸せにしますと頭を下げた。その時に怒った雨音のお父さんにお茶を掛けられたのを憶えている。

 あの後の雨音は本人とは思えないほど怒ってその結果、心が折れた雨音の両親が同棲を許可してくれた。あの時の雨音の喜び方が凄くて、わたしもその時ばかりは大声ではしゃいだ。人生、足掻けばどうにかなるのだなと思った。


 まぁ、どうにもならない事もあるのだと、今になって思い知っているけど。


 葬儀が終わり、アパートまでの帰り道を傘をさし、一人で帰る。あの日から雨は降り続いている。このまま降り続いてくれないかなとも思った。その方が雨が好きなあなたも喜んでいそうな気がする。泣くことができない私の代わりに、あなたの為に。


 雨音が亡くなったのに私は泣くことができなかった。病院で遺体を本人か確認した時も、私たちの両親に亡くなったと告げた時も、雨音の勤め先に報告したて時も、葬儀の時でさえ一滴も涙が出てこない。


 私はなんて薄情なのだろうか。でもそれは今に始まった事ではなくて昔からそうだった。私は、感情の起伏が小さい。


 幼い頃から感情というものをはっきりと感じた事はない。いつもぼーっとして、どんな時も無表情だった。そんな私の前に、雨音は現れた。私と違い、感情の表現が豊かだった彼女はいつも些細なことで感動し、怒り、笑っていた。そんな彼女を通して、私も感情を感じることができた。だからこそ、私は雨音に惹かれた。



 アパートのドアを開けて、ただいまと言った。返事は返ってこない。ただいまと言われる事もない。あの元気な声は二度と聞く事はない。


 着替えてこの先の事を考える。今月中にはこの部屋を引き払わなければならない。家賃は二人で払っていた。私一人では払えない。


 ごめん、と言って雨音の部屋に入る。あまり入らなかった彼女の部屋には大小様々な形の棚があり、そこには様々な物が飾られている。雨音は「私たちの思い出の品」と言っていた。


 私の私物はいい、あまり持っていないからすぐに片付く。でも雨音の私物は正直どうしたらいいのかわからない。彼女にとっては宝物なのかもしれない。しかし、私にとってはただのガラクタ。私の大切だったものは雨音だけだった。


 棚の中から小さな砂の入った小瓶を手に取る。「私たちが初めて会った公園の砂だよ!」と言ってこの部屋に来た時に最初に説明してくれた事を思い出す。

 彼女は私が落ち込んでいるのを私自身よりも早く気付いて、その度にこの部屋に連れてきた。そして、ここにある品を手に取り「ねえ、憶えてる?」と言って何の品か説明した。そうやってあなたは、私という人間を証明してくれた。私はあなたといて幸せだった、でも。


 ねえ、雨音。私は怖くてあなたに最後まで聞けなかった事がある。あなたは私といて幸せだった?



 大学で就職活動が始まる前のことを憶えている。

 急に雨音が「卒業したら、一緒に暮らさない?」と提案してきた。あなたとの日々はいつも色づいていたけど、あの時ほど嬉しかった事はない。心が躍るようとは、ああ言う事を言うのだろう。でも、不安もあった。私はあなたに何もしてあげてない。私が一方的に幸せを感じていた。そんな私があなたの隣にいていいのか不安だった。

 そしたらあなたは「一緒にいたいから、たくさん考えて今日こうして話してるの」と言った。どうして? と聞くとあなたは理由を教えてくれなかったけど、「嫌ならもういい」と拗ねるあなたをみて私は慌てて一緒に暮らそうと言った。その時の笑顔を憶えている。


 ここに置いてある紙コップはその話をした喫茶店のものだ。いつもは紅茶しか飲まない雨音がその日は何故かコーヒーを頼んだのはこれを持ち帰る為だったのかと、知った時には流石に呆れた。


 他にも何故あるのか分からない品がそれなりに飾ってある。この傷ついた野球ボールもそうだ。


 高校生の頃、今みたいに雨が降り続いた日を憶えている。

 雨音が暗い顔をしていてまた虐められたのかと思った、私がどうしたのか聞いてみると「告白された」と俯いて話してくれた。相手は同じクラスの男子で雨音とよく話していたのを憶えている。

 目の前が真っ暗になった。以前から仲が良さそうにしている二人をみると、その度に私の胸は締め付けられるように痛んだ。でも私は俯く雨音に、精一杯微笑んで、雨音のしたいように返事をしなよ、と言った。

 苦しかった。本当は断って欲しい、でも私は雨音に幸せでいてほしかった。だから、もし彼と一緒にいて雨音が幸せならそれでいいと思う事にした。雨音は「うん」とだけ返事をして、その日はそれ以上喋らなかった。

 次の日、この世の終わりかと思うくらい私は落ち込んでいた。どうしよもなく教室の窓から雨が降り続く校庭を眺めていると、唐突に雨音がきて何も話さずに私の服を引っ張って昇降口に連れて行った。どうしたの? と聞くと雨音は泣きそうな顔で「断った」と唇を噛みながら言った。

 雨音は彼の事を気に入っていたはずだ。なのに、どうして? と聞いてもあなたは答えてくれなくて、私が顔を見ようとすると雨が降るなか走って校庭に行き、「バカー!」と大声で空に叫んだ。一体誰に対して言っていたのかわからないけど、その事よりも雨音が断ったと言う事実が嬉しかった。誰かが彼女の隣にいるのをみたくない。その時に私は自覚した。私は雨音のことが好きなんだと。でも、あなたが苦しんでいるのに内心ほっとしている自分が許せなくて、足元にあった傷が付き捨てられたであろう野球ボールを植木に向かって力一杯に投げた。 


 何故かその時のボールがこの部屋にある。この部屋に初めて入った時に何でこれがと、雨音に聞くと「だって、あんな千里は初めてみたんだもん」と言って笑われて物凄く恥ずかしかった。


 あの日に好きだと気がついたのに、告白したのは雨音と同じ大学に合格してから。もっと早く告白していたら彼女と今より親密に過ごせたのかもしれない。


 本当にこの部屋には私たちの思い出が詰まっている。でも中には思い出して欲しくないこともある。


 私は、棚の目立つところに置いてあるボロボロになった上履きを手に取った。


 ねえ、これもあなたにとっては残しておきたい思い出なの?


 中学生の頃を私は一生忘れない。

 その頃、雨音とは違うクラスで学校の中ではお昼しかあっていなかった。あの時のあなたは以前よりも少し元気がなくて、でもそれは些細なことが原因だと思っていた。

 ある雨の日のこと、一緒にお昼を食べようと思って学校中を探したけどあなたはどこにもいなくて、雨の日だから外にいるのかなと思って窓の外をみると、校舎裏の目立たないところで傘もささずに歩いているあなたを見つけた。私は急いで傘を持ってあなたのもとへ向かった。あなたのもとへ辿り着き、声をかけようと思って駆け寄ると私は言葉を失った。

 雨音は靴を履いていなかった。何で、と聞く前にあなたはいつも通り微笑みながら「待ってね、もう少しで見つかると思うから」と何でもないように私に話した。私は状況が飲み込めなくて、雨の中で濡れながら何かを探しているあなたを呆然とみていた。


 雨音はクラスから虐めにあっていた。

 理由は単純、鬱陶しいから。

 私が惹かれた感情の豊かさは、クラスメイトからの虐めの原因になった。虐め自体はその後に先生たちの尽力で落ち着いたけど、雨音がクラスに受け入れられる事はなかった。何で気が付けなかったのだろう。あんなに一緒にいたのに。あなたは私の前では平然としていた。辛かったはずなのに。


 手に力を入れ、持っている上履の形を変える。

 これはあの時に雨音が探していて唯一見つかったもの。

 あの時隠されたものは靴と傘と上履き。虐めの主犯たちは雨音が雨を好きなことを知っていて、わざわざ雨の日に外に隠した。

 許せなかった。あなたがどんなに雨が好きなのか、その事を思うと何かもが許せなかった。

 だから私はあなたを守りたいと思った。出来るだけそばにいて、あなたが幸せでいられるように。でも、私はあなたを失った。


 誓いというのは気がつくと薄れている。

 当時はあんなに強く思っていた事も、こうして思い返すまで記憶の隅に追いやられていた。今の私を、昔の私はどう見るのだろうか。


思い出しても何かが変わる事はない。

 そこにいたのがどんな私であれ、雨の日に散歩に行くと言ったあなたを止めるような事はしなかったと思う。散歩に行くと言うあなたはいつも幸せそうだった。そんなあなたを、私は止められない。

 

 手に持った物を元あった場所に戻す。

 そろそろ、前に進むべきだと思う。ここを片さないといつまでも私は堕落してしまう。


 電話を出して、雨音のお父さんの番号を確認する。

 雨音の遺品は、両親にも見せるべきだと思った。


 あの人とは一緒に住む許可を貰いに行った時以来あまり喋った事はない。葬儀の際も事務的な話だけで、会話と言えるものはしていなかった。


 話をするのが怖い。

 私達は二人の反対を押し切って一緒にいることを選んだ。それを間違いだとは思っていない。けれど、考えてしまう。

 もしも一緒でなかったらあなたは、今も生きていたのではないかと。

 こんな事は考えてはいけないと頭では分かっているのだけど。私の願いは、あなたに幸せでいて欲しかった。そう願っていた。だからあなたを失った私が何故、今こうして生きているのか分からない。


 誰も悪くなかった、だからこそ責められるべきはあの日、雨音を止めなかった私だと思う。

 きっと、誰もが我慢している。なら私を責めればいいと思う。その方が私も気が楽だ。


 電話をかけると、雨音のお父さんはすぐに電話に出てくれて、私の予想と違い優しい声で話かけてくれた。

 遺品を確認して欲しいと言うと、すぐに日程を決めてくれて、あちらでも準備すると言っていた。

 話が終わり、電話を切る。何もする事がなくなる。

 片付けは明日からでいいだろう。今日はもう休もう。明日からはやる事がたくさんある。



 その日に疲れていたからか、夢をみた。最後までみていたかったけど、途中で夢から覚めてしまった。

 遠い昔に雨音と普通の友達として過ごしていた頃の夢。


 夢の中で私はあなたに、何で雨が好きなのと尋ねた。

 あなたの返答は何だか難しくて、私には理解できなかったけど、あなたもよくわからないって笑っていた。

 その時に、あなたはすごく寂しそうな表情をして、まるで何かに堪えているようで、どうしてか理由を聞いてみるとあなたは素直に教えてくれた。それがとても寂しい理由で、それを悲しんだ私はあなたにある事を言おうとするのだけど、そこで夢は終わってしまう。


 これは実際にあった出来事。私にとっては大切な出来事で、いま思うと私の心はこの時から動き出していたのかもしれない。


 目を覚ましてから、あなたがどう思っていたのか気になって、あなたの部屋の棚でそれらししいものがないのか見て回る。

 でも、どんなに探してもあの日に繋がる物は何処にもなくって。途方に暮れて、窓の外をみると、あの日から降り続けていた雨はいつの間にか止んでいて、綺麗な陽の光が雲の隙間から線を引いていた。


 

 数日後、雨音の両親がアパートに来てくれた。お母さんは暗い表情をしていたけど、お父さんの方は電話から感じたように優しい雰囲気をしていた。


 リビングに通してから、雨音の遺品の入った箱を二人の前にだす。

 選別に困らないように、種類別に整理してそれぞれ箱に入れておいた。こうしてみると思っていたよりも物は少なく、雨音のいた痕跡が少なく感じられて、私たちの関係も実は希薄なものだったのではないかと思えてしまう。


 何でもいい、こんな思いをするなら何かを残しておくべきだったと選別をしながら後悔をした。


 遺品が入った箱を前に、二人は少し止まっていて、それからお父さんが箱に手をかけ中のものを少しずつ確認していった。お母さんはそれを横から見ていたけど、だんだんと顔色が悪くなっていき、ごめんなさいと言いい、泣き出してしまった。すまないねと言って二人は一旦外に行き、少ししてからお父さんだけが戻ってきた。

 戻ってきてからも少しずつ坦々と遺品を確認していくのを私は何も言わずにただ見ていた。

 罰を待つ罪人のように、あの時のお茶のように、私に向かって怒りをぶつけてくれるのを待った。でも、雨音のお父さんはそんなことはしてくれなくて、箱の中を確認し終えると、ありがとうと一言だけ言って私に頭を下げた。

 私も頭を下げながらも、何で怒ってくれないのだろうと内心ではおもっていた。

 これで全部かい? と言われて、私は迷いながらも雨音の部屋に通した。

 結局、あの棚に飾れれている物は何一つ片付けることが出来なかった。雨音の大切な物だからと言うこともあるけど、ここにない物を知ることの方が怖いかった。この部屋に通したのも、私だけでは決心がつかなかったから、出来る事なら一緒に捨ててもらおうと思ったのかもしれない。


 部屋に飾れれている物をみた雨音のお父さんは、ここにある物がどうして飾ってあるのか分からない様子で、私はそれが何なのか説明した。するとお父さんは、あの子らしいと微笑んでいた。

 その後、棚にあるものを少しみて、雨音のお父さんは私に、「あの子と一緒にいてくれてありがとう」と言った。

 咄嗟に唇を噛んだ。何かが崩れてしまいそうで、崩れてしまったら理性が保てないのがわかってしまって、でもそんな事は私には許されないと思って体のいろんなところに力を入れて、精一杯に理性を保って、雨音のお父さんに話しかけた。

「何で、そう思ったのですか」

「この部屋をみればわかるよ、あの子は、君のことを大切におもっていたんだね」

 勝手な事を言わないでほしい。何でそんな事が分かるのか、何故か苛立ちを感じた。

「そんな事、分からないじゃないですか」

「どうして、そう思うんだい?」


 私は口をつぐみ、一呼吸おいてそれから口を開いた。吐き出してしまえと開き直った。

「あの日から、雨音は私といて幸せだったのかって、疑問が頭から離れないんです」

 怒りをぶつけて欲しくてここに呼んだのに。今、私が何かよく分かっていない感情をぶつけている。

「ここには雨音が私にしてくれた事に関連した物がたくさんあります。でも、私に関連した物がたくさんあるのに、どんなに探しても、私があの子にしてあげたものが一つも無いんです」

 ここには確かに沢山の物がある。でも、全部が私にあてた物のように思える。私が彼女に向けたものは何一つ飾られていない。私が贈ったプレゼントも何一つなくて、だから雨音がいない今、この棚にあるのは私にはガラクタにしか見えない。


 それを聞いた、雨音のお父さんは再び棚の方をみて、それから口を開いた。「勝手な推測なんだが、必要なかったんじゃ無いのかな」

「千里さんが言ったように、きっとこれは君に向けた物で、その為にここに見えるように置いてあると思うんだ」

「何の為に?」

「あの子じゃ無いからはっきりとは分からないが、あの子はきっと、君がいればそれでよかったんじゃないのかな。ここにある物は別の目的があると思えるんだ」


 その事をを言った後、雨音のお父さんはありがとう、と言って部屋を出ていった。私はその後も部屋に残ってお父さんが言った言葉の意味を考えていた。


 

 その日、二人は何も持ち帰らなかった。もしかしたら初めからその気は無かったのかもしれない。遺品を通して自分たちが知らなかった我が子を少しでも知りたいから来てくれた、そう思える。


 二人は帰る前に、残った遺品をどうしたらいいのか相談に乗ってくれた。

 服は後で親戚などに欲しい人がいないか聞いてくれるそうだ。形見分けというらしくて昔からある風習みたいなものらしい。受け取ってくれる人は少ないかもしれないけど、余った時はその時にまた考えようと言われた。家具は雨音のお父さんが引き取ってくれるそうなのでお願いした。文房具とかのまだ使用できる物は私が今後も使っていく。


 概ね、遺品の行き先は決まった。だから、私は今まで目を逸らしていた物に向き合わないといけない。


 あなたの部屋にある。あなたが言う、この思い出の品たちと。


 私にとってはいらない物、だけど捨てるとなると決心がつかないと相談したところ、二人は私の前に紙を数枚おいた。そこには、神社やお寺のホームページが印刷されていて、どれも内容は共通して『御焚き上げ』についてのページだった。迷っているのなら、これに出してみないかと提案された。

 宗教については詳しくない。これをした所であなたの元へ届くとは思っていない。でも、何もしないよりは少しでもあなたの為にできる事がしたい。


 棚の前に座り、隣に箱を置く。

 緊張でのどに変な力が入って、呼吸がかたくなる。

 きっと、私があなたにしてあげられるのは、これが最後。これが終われば、私にできる事は何もない。


 ふかく息をし、決心をして、棚と向き合う。

 逃げようとする目に力を入れて、視線を逸らさないよう、強張っている手を動かして、飾られている物を手に取り、箱に入れた。

 なんて事はない。ただ箱に入れればいい。その筈なのに全身がそれを拒否しようとする。

 それでも、ひとつひとつ、手を伸ばしてあなたの物を箱に入れる。

 手で触れるたびにあなたの顔が浮かんできて、その度に、堰き止められていた水が急に流れ出すように、私の中を何かが巡っていく。


 手に取った物をみると、今まで忘れていた些細なことすら思い出せる。小学生の時だろうが、大学生だろうが、悲しんでいようが、怒っていようが関係ない。あなたを鮮明に思い出せる。

 でもそのたびに、病院での最後のあなたを思い出してしまう。


 フィクションによくある眠るようになんて嘘だ。人は簡単には亡くならない。死んでしまうくらいの出来事があったから死んだのだ。


 あの時、病院に着くと医者から見ない方がいいですよと言われた。それでも、通して欲しいと言ってあなたに会いに行った。病院で会ったあなたは、全身に打撲痕があって、顔にも大きな傷があった。

 つらかったよね。痛かったよね。でもそんな問いかけに答えてくれる人はいなくて、私には想像する事も出来なくて。だから今この時までその事を考えないようにしてた。


 ごめん、ごめんね。つらいからって、幸せだったのかなんて言い訳まで考えて、あなたから逃げようとしてた。

 そんな事わかりきっているのに。あなたの思いを捻じ曲げてまで私は逃げようとしてた。


 あの夢でみた日の事を、憶えている。

 何となく、何で雨が好きなのと聞いたらあなたは答えてくれた。

「水ってさ、わたしとか、木とか、動物とか、この地球上のいろんなものに流れているでしょ。で、それを循環させてくれるのが雨なの!たとえ、川や海にたどり着けなくても、水はいつか空に登って雲になって雨としてわたしたちのすぐ側に来てくれるんだって。凄いでしょ!」

 私は、よく分からないって言うと、あなたもよく分からないって言っていた。

 おばあちゃんが教えてくれたんだと言ってあなたは急に悲しい顔をした。私がどうしたの?と聞くと、

「千里ちゃんと初めてあった日にね、わたし家から追い出されたんだ」

 初めて知った。ずっと疑問だったけど。

「あの日はね、おばあちゃんのお葬式の日だったんだ。それで、急に雨が降ってきたから外に行きたいってパパやママに言ったら二人とも凄い怒っちゃって、勝手にしなさいって、外に追い出されちゃった」

「どうして、外に行きたかったの?」

「わたしね、千里ちゃんに会うまでおばあちゃん以外に話してくれる人っていなかったの。だから、おばあちゃんにまた会えるかなって思ったんだ。雨に乗っておばあちゃんの気持ちや一部でも届かないかなって。結局、来てくれたのは千里ちゃんだったけど」

「千里ちゃんがいなくなっちゃったら、また、一人になるのかな」と、あなたは泣きそうな声で言うものだから、ずっと一緒にいてあげるって私は言った。今思うと何の感情もなく無愛想な声だったけど、それでもあなたは喜んでくれて、何だか申し訳なかった。

 その時に、あなたは言った。「じゃあ、わたしもずっと一緒にいるから千里ちゃんを彩ってあげるね、千里ちゃん笑ってくれないから」


 あぁ、そうだよね。そう約束をしたよね。だからここには私が心を動かされた時の物があるんだよね。憶えてる。ここにある出来事は全部憶えてるよ。


 あなたは約束通り、私の心に彩りをくれた。あなたがくれた物は私の一部になって、巡ってくれている。

 でも、何で、何で、


「ずっと一緒だって、言ったのに」


 言葉とともに、ほほを熱いものが流れていく。まばたきをするたびに溢れるそれは、目をつぶっても、手で塞いでも止まってくれなくて、呼吸も荒げていった。


 約束をしたのに、私はあなたの隣にいない。どうして隣にいてくれないのと、ここには居ないあなたを責めたい。ここにある物じゃなくて、本当のあなたに会いたい。


 二人で過ごすために選んだ場所で、一人、言葉にならない声をあげる。

 これまで溜め込んでいた、あなたへの感謝も、一人にされた事への責めたい気持ちも、溢れていくばかりでなくならない。

 私はそれでも手を伸ばして、あなたの為に、この気持ちをあなたに届けたくて、ここにある物を箱に入れ続けた。



「お世話になりました」

 そう言って、数年前にここにきた時と同じように何もない部屋を見渡す。

 もう、二人で過ごした痕跡はここにはなくて、殺風景な部屋だけが広がっている。


「行ってきます」

 返事を返してくれる人はいない。それでいい。


 玄関をそっと閉じ、最後の鍵を閉めた。


 これから私は、あなたのいない世界を生きていく。


 世界の何処かで、あなたの好きな雨は降り、私もかけがえのない物をくれたあなたを思い、涙を流す事もあるのでしょう。


 願わくば、それがあなたの為でもありますようにと、私は祈る。

 だからきっと何処かで、あなたの為の、雨が降る。

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