第4話 お兄様
――キオンはお兄ちゃんだから、妹を…アリアを守ってあげてね
小さな頃、母に言われた言葉だった。それは不思議と胸の奥に刻まれて、いつしかあって当然のように、自分の一部となっていた。
「キオン様、面会の許可がおりました。ご案内致します」
「……分かった」
踏み出す一歩が重く、道程は果てしなく感じた。重い鉄扉が開かれ、冷ややかな空気が肌に触れる。
その人を前にした途端、突然金縛りにでもあったかのように身体が動かなくなった。どれくらいその場に立ち尽くしていたのだろうか。長い時間をかけてようやく口に出せたのは、たった一言だけだった。
「…………リア」
自分の妹は、ただ静かにそこに居た。
煌びやかな服を着ながら長い髪をはためかせ、いつも自信に溢れていた姿とはまるで違って。
一体どうしてこうなってしまったのかなんて、もう何度も考えた。後悔だって数え切れない程した。
今、世間からアリアは悪女だと非難されている。嫉妬に狂って、親友だったアイリスをついには殺しかけたのだ。
そう言われて当然のことをしたと頭では分かっているし、さっさと見限るのが賢い選択なのだろう。
……それでも。世間から見たら悪女でどうしようもない女だとしても、ボクにとっては今も変わらず大事な妹だった。
アリアは明日、身分剥奪の上この国から追放されると決定が下った。被害者本人であるアイリスが、アリアの罪を軽くすることを望んだからだ。そしてそれを殿下が後押ししてくれたおかげでもある。
なんて優しくて――残酷なのだろうと思った。
掃除も料理も全くしたことがないアリアが突然国から放り出されて、本当に生きていけるのだろうか。生きてさえいれば、いつかまたアリアが笑える日が来るのだろうか。
叶うなら、本当は一緒に行きたかった。そしてもう一度やり直したかった。今度は間違えないように。
だけど全てを捨てていくには背負っているものが多すぎて。何より、アリア本人が望まなかった。アリアが一人になることを不安に思った母さんが自分も行くと声を上げたけど、「足手まといは必要ないわ」とアリアが拒否したのだ。
鉄柵に手をかけて、もう一度アリアの名前を呼ぶけど、何も反応はない。
「リア……離れていても、ボクにとってはずっと大事な妹だから」
もっと早くに止められなくてごめんね。我儘でプライドが高くて、傲慢で。少しでも上手くいかないことがあればすぐ放り出す。嫉妬深くて、自分が一番じゃないことに納得できない。
だけど、知ってるよ。親友だった人を殺そうとするほど堕ちてたわけじゃないこと。
アイリスを階段から突き落とそうとしたのだけは、きっと本意じゃなくて、ただの事故だったのだろう。ずっと側に居たのだから、それくらいは分かる。
もしアリアが本当に罪悪感一つ持っていないなら、今この瞬間も、自分の処遇について永遠と文句を言ってただろうから。
「……馬鹿じゃないの」
聞き逃してしまいそうなくらいの小さな呟きだった。でもこんな時ですら、憎まれ口しか叩けない所がアリアらしい。
「ホントだよ。ボクもそう思う」
「こんな女、消えてくれて良かったってどうせ思ってるんでしょ」
相変わらず捻くれてるし。でも、そうだね。
「そう思えたら、楽だったよ」
笑って答えたボクのその言葉に、アリアはくしゃくしゃに顔を歪めた。いつもなら売り言葉に買い言葉で返すところだけど、せめて今日くらいは素直になってもいいでしょ。
「…………ごめんなさい――お兄様」
長い長い沈黙の後、聞こた声は震えていた。
いつからか呼ばれなくなった〝お兄様〟という言葉に目の奥が熱くなった。
***
うーん、避けられてる。
昨日誤ってキオンのことを名前で呼んでから、明らかにキオンが私のことを避け出した。こちらの様子をチラチラと覗う様子は、まるで怒られた時に飼い主の顔色を気にする犬のようで。
三日に渡って何度も行われた、アイリス達と会おうよ攻撃がないのは正直かなり快適だったから、暫くはこのままほっときたい所ではあるけど……無視をしたらしたで下がる耳と尻尾の幻覚が想像できる。
こういう時、どうするのが正解なのだろう。私に兄妹はいなかったし、学生時代に対人関係が拗れて悩んだ記憶もない。そもそもこれはなんだ。喧嘩かと言われると、それは何か違う気がするし。
「お悩みですか?」
「うん…ちょっとね」
シエナが淹れてくれた紅茶で喉を潤す。そういえばシエナってかなり若く見えるけど今は何歳くらいだろう?私と同じくらいか、少し年下くらい?……いや、さすがに年を聞くのは失礼だよね。
「シエナって兄妹いる?」
うーん、これくらいはセーフかな。どこまで踏み込んでいいのか分からなくて、少しドキドキしながら答えを待つ。
「はい、妹が一人と弟が二人おります」
「確かにシエナはお姉ちゃんっぽい」
納得しながら笑えば、シエナは驚いたように目をぱちくりさせる。もしかして馴れ馴れしかった?
焦りを誤魔化すように、話を続けた。
「えっと、シエナは兄妹と喧嘩したりする?」
「私はありませんが、妹と弟はよくしています」
解釈一致だった。私もシエナが怒ったり、喚いたりするところは全く想像できなかったから。
それに疑問も解けた。三人も下に弟妹がいるならワガママな子供に慣れていた可能性が高い。公爵家がいくら給金が高いにしても、アリアのワガママに嫌な顔せず対応できてるのが不思議だったから腑に落ちた。
「喧嘩して仲直りする時はどうするの?」
「仲直りですか?」
「うん、実はお兄様と仲直りがしたくて。でも喧嘩ってわけでもないから謝るのは何だか変で」
こうやって誰かに相談のようなことをするのはちょっと照れくさいけど、ただの子供の相談にもシエナは真剣に考えてくれる。
「ただ謝って終わるのが殆どですが……時々ちょっとしたお菓子を作ることもあります」
「お菓子?」
「はい。昔、妹がもの凄く怒ったことがあるのですが、その時に弟と一緒に妹のためにお菓子を作ったことがあります。その名残か今も時々仲直りの時に作ったりするんです」
思い出を懐かしむように、シエナは優しく微笑んだ。
「いいね」
「はい?」
「ううん、そのアイデア素敵だなって」
実際はシエナの暖かな記憶に対して零れた言葉だったけど、アイデアがいいと思ったのも事実だから間違いではない。
今の時間を確認すれば指針はまだ午前を指している。面倒くさくなる前に動きたかったけど仕方ない。お昼前にキッチンへ行くのはさすがに迷惑だろうし。シエナへお礼を伝えながら、ちょうどいい時間が来るまでの間レシピを整理することにした。
お昼も過ぎて落ち着きが戻ってきた頃を見計らい、私はキッチンへ来ていた。まだ子供、しかも貴族が料理をすることに最初はいい顔をされなかった。身分上の問題もあるだろうけど、それよりも〝アリアが〟自分達のテリトリーへ入ってくることに不満があるように感じた。
事情を話し、何かがあっても責任は私が取るという言葉と共に何とか許可を貰えたけど……許可を貰うだけでこんなに疲れるなんて。
シエナに材料を準備してもらっている間、気を取り直しながら手を洗う。
ホットケーキミックスのように簡単にお菓子が作れるような材料があればもっと楽だったのに。残念ではあるけど、お菓子の概念すらないような国じゃないのは本当に良かったと思う。
「アリア様、準備ができました」
「ありがとうシエナ」
「何を作られるのですか?」
「うーん、悩んだんだけど」
超簡単な物にするか。
私はパティシエでもなければ別にお菓子作りが好きなわけでもなく、稀に作る程度の実力だ。レシピだって数えるくらいしか知らないし。少ない手持ち且つ、真心を伝えるためには多少は手の込んだ物の方がいいだろう。どうせ作るならガッカリされるよりも、喜んでもらえた方が気持ちもいいし。
「フォンダンショコラにするよ」
たまにはちょっとだけ頑張ってみるのもいいかな。
***
気が散りそう。
私は材料を混ぜながら、浴びる視線に耐えていた。やっぱりもっと簡単に作れる物にするべきだっただろうか。
それに〝あのアリアがお菓子作り?〟のような意を含んだ疑問や困惑などの視線も混ざっている気がする。思わず溜息をつきたくなったのを我慢して、私は手を動かすことにした。
「これくらいでいいかな。シエナそこの容器とってくれる?」
「こちらで宜しいですか?」
「うん、大丈夫」
混ぜた生地を耐熱容器に流し入れて、あとはオーブンで焼くだけだ。
「アリア様の手際が良くて驚きました。お菓子作りは初めてなのですよね?」
「うん」
この身体では。そうやってシエナと話したり、片付けたりしているうちに、甘い匂いが漂ってきた。
「アリア様、完成しました!」
オーブンに付いている魔法石の色が変わり、シエナが嬉しそうに声を上げる。今までは落ち着いている所しか見たことがなかったから意外な姿に驚いていると、シエナも気がついたのか恥ずかしそうに小声で謝られた。
「あっ…すみません」
「私も楽しみだから大丈夫。ちゃんとできてるか確認してみよう」
「お待ちください、危ないので私がやります」
シエナがオーブンに手を伸ばした私を止めて、代わりに開けてくれる。ふわりと甘い匂いが広がった。
匂いと見た目は大丈夫そうだけど、重要なのは中身と味だ。
「…!!」
スプーンを手に取り生地をすくえば、中からとろりとチョコレートが溢れる。生焼けになってないし、味も大丈夫だ。ちゃんと成功してることに私はこっそり安堵した。
一つは試食に、もう一つはシエナに渡して、残りは家族用に。シエナは遠慮してたけど、色々と手伝ってくれたお礼だと言えば受け取ってくれた。
キッチンでシエナと別れて、庭園へと向かう。もちろん作ったお菓子を持って。ちらりと後ろを確認すれば、少し離れた所からちょこちょこと着いてくる紫が映る。やっぱり犬っぽい。その姿が何だか可愛くて、私は自分でも知らないうちに口角を上げていた。
庭園の真ん中。ガゼボが設置されている場所で私は足を止めて、振り向いた。
「一緒に食べる?」
「!!」
まさか気付かれていないと思っていたのか、目が合ったキオンが驚く。お菓子を作っている時から、ずっと見えてたけど言ったらまた逃げそうだし、黙ることにした。
好奇心が勝ったのか、キオンがこちらへゆっくり近づいてくる。
「リアが作ったの?」
「うん、お兄様にあげるためにね」
「………ボクに?」
キオンの瞳が輝く。その隙を見逃さず、私は作ったお菓子とスプーンを手渡した。
「そうだよ。だから、これ食べて仲直りしてくれる?」
そうしてキオンの機嫌はすっかり治った。
「リア!またあれ作ってくれる?」
「今度作るよ」
「明日?」
「毎日食べたら飽きるからもう少し経ってからね」
「毎日食べたい!」
それはちょっと。
仲直りするのは早かったかもしれないと、私はほんの少しだけ後悔した。
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