第098話 弱者の抵抗/限られた選択(8)

 すべては、刹那。


 ジョンが獣さながらの勢いでに跳ぶ。敬愛するディアドラから距離をとる。同時、外套の中にひそませていた鎖がひらめく。風を裂いて、殺到する。


 蛇の敏捷で。叫ぶ間もない。絡め取った小さな身体を牽引。あっという間に両脇に抱え込み、――


 恐ろしいほどの手際の良さ。しかし、人攫ひとさらいというよりは、脱兎と評するほうが相応しい。


 魔女と、そして


 わき目もふらず、恥も外聞もない。恐怖あいする化物おんなから全身全霊をもって


 一切の抵抗を許されず、鎖でと拘束された子どもたち。


「この! 離し、――」


 ルグが異形の力を解放しようと、身じろぎする。途端。


 かくん。


 首にまで巻き付いた鎖が頸動脈を圧迫、一瞬で締め落される。


「ルグちゃん!」


 デヒテラが叫ぶ。こちらは無害と判断したからか、手荒な真似には及ばない。


 。人により異論はあるかもしれないが、……彼は、確かに誓約ちかいを守ったのだ。


 気を失って、うなだれる義弟。悲痛なまなざしで見る少女。しかし、当のデヒテラとて余裕があるわけではまったくない。


 ジョンは、極端な前傾姿勢で駆けている。目線は低い。荷物のように小脇に抱えられて駆けているにしては、異様なほど揺れが少ない。まるで、地面をすべっているみたい。しかし、――


 ! ! 


 体感する速度は、故郷で乗った駄馬などよりも、ずっともっと速い。凄まじい速度。景色が溶けるように流れていく。


 おかしいでしょう!? こんなの人の走る速さじゃない!


「は、はなして!」


 恐怖のあまり思わず叫ぶ。


「黙れ。舌を噛む」


 ジョンの応えは短く、するどい。


 軽薄さなど微塵もない。それどころか、前を見据える横顔は、これまで一度も見たことがないほど


 傷跡をあまた刻んだ整った顔。ふいに仮初めに庇護を与えてくれた大狼バーゲストが重なった。


 錯覚にとするも、――しかし、そんな感慨、悠長に想ういとまなどなかった。


 炸裂ごう!/発破ごう!/爆轟ごう!――唐突な衝撃に意識が


 揺さぶられたのは、鼓膜ではなく総身。骨が殴打され、臓物はらわたが掻き混ぜられる。


 激震ふるえ裂傷さけ連鎖つらなるは、――大地の叫喚さけび


 動乱ぐらぐらする視界。咄嗟に少女が振り返って見たもの、――地面を下から割っては、めくり上げ、土塊を撒き散らしながら、次々と天を覆うように伸びていく大樹。


 一本や二本ではない。一〇、二〇、……数えきれない。またたく間に百の位すら突破して、数多のを形成する。


 人外けものの敏捷で逃亡するジョンを追い、馬鹿馬鹿しいほどの規模で緑が生まれ、広がっていく。


 人の道理など置き去りに、王の法理をも書き換えて、―—神の摂理が塗り潰していく。


 放埓に過ぎる豊穣の神秘。暴走する生命活動。仮初めに人という鋳型かたちに拘束されていた正体なかみ


 どこかの頑迷な駄犬ばかが、だなんてわめくから、窮屈な虚飾をぶちやぶって深層をこぼしている。


罪人いけにえは足りていたはず、何が悪かった?」


 この期におよんで馬鹿ジョンは、つぶやく。

 

 彼には、本当にわかっていない。彼は、再び示された奇跡に歓喜し、言祝ぎ、拝跪はいきしていただけ。


 棄てられたが、いまひとたび息を吹き返す色彩いろ躍動おとに感謝し、祈りを捧げ、をあらたにしただけ。


 ぼくの為してきた悪辣無道わるいこと。積み重ねてきた死屍累々いけにえにして死山血河ざんがい罪過のわだちに間違いはなかったと、安堵しただけ。


 だから、敬愛する女性/恐怖する災厄が、いったい何を、本当に、まったく、これっぽっちもわかっていない。


 彼が外界せかいを読み解く妄念ルールには、義姉あねと慕った化物ばけものの心理を読み解く法則が存在しない。


 だから、こんな形での破綻は、想定していなかった。ただ、憂鬱に自嘲するだけだ。


 しょせんは、ぼくは、只の人、あるいは、只のいぬ。王だろうが神だろうが、騎士だろうが怪物だろうが、およそ幻想奇譚おとぎばなしに語られる実存もの価値ちから意義しくみも測れるはずなど、―—。


『また』『また』『また』『つまら』『つまらない』『理屈ばかり』『理屈を』『こねている』『わめている』『考えている』『どうし』『どうして』『なぜ』『わから』『ない』『わからない』『それ』『それこそ』『あな』『あなた』『おまえの』


 森の魔女、あるいは、。莫大な思惟がざわめく。


 意志を発しているのは、。破裂の勢いで、生成し、発展し、拡大を続ける森という


 を形成した樹々の、たったひとつの矮小ちっぽけを標的に連鎖発火した情念とげを刺している。


「っ!」


 ジョンがに顔を引きらせる。


 これは、悲嘆なげきを糧に繁茂する豊穣みどりの神秘。


 この地、旧代ふるくは、常若の国ティルナ・ノーグと呼ばれた、……今代いまは、強者の強者たるをこそ尊ぶ


 勇猛に、荘厳に、そして絢爛に。


 綺羅星に輝く戦舞台は、――地を這う


 ゆえに、、其を宿痾しゅくあとして刻んだ末裔まつえいたがの外れた祝福のろいと成るのは、


 ことわりは、――罪過おまえをけして許さない。


 覆い被さるように、取り囲むように、呑み込むように……深緑の森林せかいは、天蓋おおいにして、囲壁おりにして、途方もない規模の消化器官はらわただ。


 嘆きをならす裁きの牢獄。真昼に生まれた深淵。神域森秘の木陰にして、わずかな木漏日きぼうも許されない暗がり。


 たかが、程度の価値ちからなど、無いも同然だ。


 増殖増大は、燎原りょうげんの火のごとく。猖獗しょうけつを極める旧神災禍わざわいは、――、留まることを能わない。


 だから、――あっけなく、胎内はら加害者けもの被害者こどもを呑み込んだ。


 これは、語るまでもないこと。


 この世のあまね人間いのちは、他なる命を奪うことで生を継続する。


 仮に命を奪うことを罪とするならば、……


 ゆえに、―—この復讐ことわりは、あまねく罪過いのちを許さない。


 ……。


 …………。


 ………………。


 かつて、災厄があった。災厄は、ひとつの領邦くにを滅ぼした。かの地は、そのすべてを、そこにあった命は、おわりを賜った。


 領邦くにひとつを呑み干すまで成長を続けた災禍の神群もり。いまは、しずまり、微睡まどろみ、留まっている。分裂を、増殖を、拡大を止めて、


 知る人間ものはない。


 かの地において、意義ほこりを棄て、罪過かくごだけを背に負って生き永らえた獣を。暗い森から、、一匹の猟犬を。彼の者が亡き主がために継続する、たった一つの誓約やくそくを。


 責務つとめを果たす。


 果たし続ける、其の罪過かくごすべてに懸けて。


 それが、棄てられたに捧げる贖罪つぐない。悲劇に終わった物語の。終わった以上、未来つづきに、もはや変転はなく、終点は見通せず、救済もまたあり得ない。


 ――委細すべては、承知わかってる


 それでも猟犬は、―—もの外見そとみを鎧い、中身なかみを染めて、足掻き続ける。


 最後さいごまで、結末さいごまで。


 ……きっと、死に至るさいごまで。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る