第95話 弱者の抵抗/限られた選択(5)
“ねえ、おぼえてる?”
抑揚を欠いて、静かで、―—けれど、優しい
耳朶に触れた
姉が弟を呼ぶ声にそっくりだったから。
「あのとき、あなたは、首のないノイシュの身体を
遠くを
柱に吊るされたあの人の身体、よく見えたわ。腐敗が進行していた。胸には、抉られたような
醜くて、穢れた、哀れな
私には、いまでもわからない。
あの
朱い雫を滴らせながら、
罪の
「どうして、って。そんなこと、諦められなかったから。
あのときは、ただ、なんとかして、貴女を振り向かせないと!って、必死だったから。
俺じゃあ、だめだったんだ。結局、何をしても無視された。
俺だって、仕えた
だけど、可能性があるのなら、まだわずかでも残されているなら、すべて試してからでないと、終われないでしょう?」
傍聴人たることを強いられた子ら。
いっそのこと、この被告が常にそうであるように、たちの悪い冗談を口にしているのならば、それで良いとすら思えた。
だが、彼は、どうも本気で言っている。少なくともそう見える。
想い人が無視するから、振り向いてくれないから、それでも諦められないから、―—その恋人の亡骸を損壊して、晒して見せる。
動機と結果に極端な乖離があった。開始と終了の間には、
およそまともな人間なら、そもそも考えつかないだろうし、……もし仮に何かの間違いで考えついてしまったとして、まず実行には至らない。
人倫を放棄し、労力それのみを考慮要件とするならば不可能ではないが、越えるべき心理的な
だから、ひとまずは、不可解の答えをこう置いておくしかない。
被告は、
それとも、そこには、―—
「ただ、あのやり方は、正直まずかった。いまの俺ならもっと良い方法が思いつく。
ごめんなさい。
次は、次こそは、もっとうまくやる」
被告は、反省すべき点をまったく反省しておらず、―—ばかりか、おそらく、さらにろくでもないことを画策している。謝罪はあっても、まったく意味を成していない。
より根本的に、……この青年には、きっと尋問を行う意味はない。
罪の由来、犯行動機を明らかにするのは、共同体が
しかしながら、この被告がこれまで積み重ねてきた
その上、処刑人/被害者が訴因とした過日の
述べられた反省点も、……もっと
つまるところ、ここに罪を量るという意義も、反省を促すという価値もない。
明らかになったのは、意志疎通の双方向性という点について、あまりにも致命的なずれがあるということだけ。
端的に噛み合わず、伝わらない。道理を外れた自己認識の檻は、頑迷なまでに他者を置き去りに自己完結している。
ディアドラの行為は、とうの昔に理解していたことを再確認しただけ。無駄な骨折りであり、無価値な徒労であり、無意味な愚行だった。
さざなみのように震える処刑人/被害者の肩。情念の律動は、繋いだてのひらへと。
どうしてだろう。なぜだろう。
彼女に本来あって然るべき情動群。怒りがない、憎しみがない、恨みがない。代わってあるのは、掌から伝わるのは、―—切なる悲しみ。ただ、ひとつきり。
「どうして、そんなことが言えるの?
あのとき、あんなにひどい泣き顔をしていたのに」
「え?」
ジョンは、虚を突かれ、隻眼を見開く。過去を確かめるように、
「笑っていたつもりだったんだけど、……やっぱり上手くいってなかったか」
恥ずかしそうに頬をかく。
「そうだね、……結局、ぼくは、凡庸な人間なんだ。貴女が憎んだ
そこらの荒くれくらいは、騙せてもやっぱり貴女には、通じない」
変わる。変わっていく。
朴訥で、どこか誠実さすら憶える口調。なのに、少年少女の肌に
直感が告げている。これは、聞いてはいけない、罪の自白。
こいつは、真実、途轍もない罪を犯し、そして、その重さを正しく自覚しながら、軽々に己の罪を曝け出そうとしている。
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