第094話 弱者の抵抗/限られた選択(4)

 びゅう。


 突然、強い風が吹いた。


 処刑人の長い髪、背の半ばまで達する銀麗がそよぐ。たなびく銀糸の流れ、綺羅綺羅きらきらしい光輝が、ふいにジョンを過去へと誘った。


 。むかしは、もっと短かったのに。―—、


「――“騎士”に」「ん?」


 風にまぎれる、かすかな響きだった。感慨に気を取られていたジョンは、―—少年みたいに気の抜けた声を漏らした。


 背を向けた不義のまま、向き合わない不実のまま、



 ジョンが、隻眼を見開く。正真の驚きが、つかの間、偽装された外殻から剥離はくりさせる。


 “もう二度と、―—、と”


 告げられた託宣ことば。求められた誓約ことば。それが、どれだけありえない言葉ものなのか。


 理解し、共有しているのは、ふたりだけ。


 罪を犯して、死に損なった/生き永らえた、ふたりだけ。


 魔女の宿痾しゅくあを抱えた処刑人/獣の烙印らくいんを背負った咎人だけだった。


「ああ、あぁ……ああ!! もちろん! 誓う、……誓うよ!


 俺が信じて、仕えた、騎士に誓って!!」


 とめどない衝動かんどう痙攣けいれんする。


 極まった万感が、深層なかみを覆う虚飾そとみをぼろぼろと崩していく。


 まるで、臓腑ぞうふを吐き出すみたい。咳き込むような懸命で、喉を震わせ、絞り出す。


 言葉それは、疑う余地なくだった。


はずかし最愛の人たいせつなひと!!


 もう、二度と、この子どもたちに不要ないらない手出しはしない!!」


 


 いま、このひとは、―—なんて言った?


 子どもたちが、後ずさる。


 一歩、二歩、……それ以上は、下がることができない。手をつないでいるから。


 手をつないだ庇護者おとなを見る。処刑人は、何も応えない。否定は、ない。


 


 それこそが、……ふたりの間を分かつ、けして越えることも埋めることも叶わない、深くて暗い裂傷あやまちいち


 誓約こたえは、切開された腹のように、生々しくて、痛々しい。いまだ瑞々しい熱にんだ真紅いろどりに目を覆う。


 残酷な誓約ちかいだ。


 求める側も、応える側も、どれだけ冒涜ぼうとくに満ちた矛盾なのかを理解し、了解しながら、不義と不実を飲み込んで、断絶したままに契約を交わす。


 そして、だからこそ。


 ジョンは、満面の笑みをたたえて、目に喜びの涙さえ浮かべて、純粋な感動を表にしている。


 なんて無邪気なんだろう。


「ああ、よかった! ほんとうによかった! 奴隷こどもをそんなに


 これまで、どんな贈り物だって、生贄ざいにん以外の何物も受け取ってもらえなかったのに!」


 ジョンは、自らの愚行の数々を思い出し、その馬鹿さ加減に気が遠くなる。


 金銀財宝、名品珍品、美酒に美食、およそ価値ありとされた、あらゆるを片端から貢いで、そのすべてを拒絶された。


 ディアドラのかつて愛したひととよく似た男娼を連れてきて、危うく殺されかけたことなど、もはや笑い話だった。


 つまるところ、彼女の悲嘆けつらくを埋め合わせるものとして、そんな価値ものしか持ち出せない俗物性あさましさ即物性くだらなさこそが自らの無能の証明だった。


「やっぱり、俺は、だめな奴だな。こんな簡単なことだったんだ。こんな簡単なこともわかっていなかったなんて!


 生贄と貢物おくりものを積み重ねるなんて、馬鹿でもできる、馬鹿のひとつ覚えで、貴女の関心あいを買おうだなんて、なんて愚かしい勘違いをしていたんだろう!!


 必要なのは、やっぱり愛なんだ!!


 人と人との間にのみ構築される利他共生きずな! 群れては集い、慈しみ護り合って、外敵を拒絶する相互依存よすが! 共同体みんなの中にあることを許された、人間ひとの資格を持つ者だけが勝ち得る共存共営つながりの証だ!!」


 その証こそ、ジョンがもの。烙印を押された獣には、生涯を懸けたとしても還ることのない、永遠の喪失けつらくだ。


 かつて、……勘違いを、愚かで浅ましい勘違いをした。欠格事由かけたものを埋める術があると、くだらない間違いに惑った時代ときがあった。


 末路けつまつは、ありきたりで、途方もなく馬鹿馬鹿しかった。みすぼらしくて、みっともなかった。世界みんなは、分際を弁えない獣をけして容認しない。ただ、適当に打ち据えて放逐するのみだ。


 そう、は、世界がしめしたあまりにも酷薄な瑕疵きずは、すべてそこにこそ帰結して、それ以外の因果など辿りようがない……獣の信仰は、頑迷にして、迷妄だ。


 覚めることのない悪夢の中、妄信する教条くさりでみずからを雁字搦がんじがらめに拘束し続けている。


「ああ、よかった、―—貴女は、なにも変わっていない」


 ここにいる奴隷こどもは、貧しさゆえに売られた生贄こどもだった。無力ゆえに虐げられた弱者こどもだった。自らが信じる意義にかけて、悪にあらがう善だった。


 敬愛あいするひとが、救いの手をさしのべない道理など、あるわけがなかった。


 それこそ、かつてのが信じた“おとぎばなし”であり、いつかのが示した奇跡だったから。 


「だって、無視できなかっただろう!? 振り払えないだろう!? もう棄てられないだろう!? 相手は、人間こどもなんだから!!


 手を握った以上、おれに口をきいてでも、守りたいと思ったんだろう!


 みずからの行いを無価値と知りながら、それでも獣にあらがった弱者こどもに手をさしのべずにはいられなかった!


 その行為こそ、貴女を定義する深層しんじつだ!


 処刑人の業病も、魔女の宿痾しゅくあも関係ない。そんなもの、後付けの外装からで、の生えた伝承だ。


 たかが、そんな神話もので、貴女の意義も価値も失われる道理まちがいなんて、あるわけない!


 貴女は、


 あのときから、なにも、なにひとつ、ずっと、変わっていないんだよ!」


 感動を偽ることなく、ただ、吐き出し続ける。激情は、とめどなく、歯止めなく、際限がない。だれかにとって、呪いでしかない祝福を、はしたなく垂れ流し続けている。


 たとえ、すべてが破綻したとしても、いぬにとって、、与えられた救いの手は永遠だ。ずっと、ずっと、覚えていて忘れない。


 瞳に映るもの。かつて、“騎士”の隣に在った伴侶よきひとであり、いまは、裁定はかいする罪過いけにえを求め続ける宿業おんな


 たとえ、目を覆うばかりに、変わり果てていようとも、……変っていないと信じ込む限りにおいて、ジョンという一個人の世界観の中では、彼女は、変わらず、光輝すくいのままに在り続ける。


 そして、は、証明された。間違いは、間違いのまま、否定も訂正も許されず、定理として立証されてしまった。


 背を向けたディアドラの細い肩、ふるえていた。


 その応えならない応えを。


 ジョンは、みずからと同じ感動おもいを共有できた証と一人勝手に解釈して、―—とうとう自己完結した熱い涙を流す。


 おぼえず、顔をうつむけたとき、視界がとらえたもの。


 この奇跡をもたらした小さな御遣いこども。すなわちデヒテラの姿が充血した隻眼に映った。


 えにしをつないだ、弱者の最後を回顧かいこする。


 盗賊が巣食った廃城、暗い地下牢。なんの救いもない、けがれた死の床で、が残響した。


 “むすめを。あのこは、かならず


 “あなたにから”


 ”やくそくして”


「なぜだ!? なんでだ!? どうしてなんだよ!? 


 デヒテラ、お前の母親は、すごいよ。素晴らしい! どうしてだ! なあ、どうしてなんだ! どうしてわかった!?


 なんの根拠も、なんの因果も、なんの手がかりすらなかったのに!


 あの刹那、あの末期おわりに及んで、たった一度の邂逅であいだけで、俺の不足を同定し、無能を認めて、福音もの


 この奇跡みらいを手繰り寄せたんだよ!!


 誇っていい、―—いいや、俺はなんて、おこがましいことを―—


 お前の母親は、賭けに勝った。あの閉塞へいそくした限定状況のなか、弱者ひとの勝ち得る慧眼けいがんだけで、おれという悪性けものに打ち勝ったんだ!!」


 なにがそんなに嬉しいんだろう。わけのわからないことを、わめいている。


 


 それが、子どもたちの純粋な想いだった。


 そして、ことここに至り、デヒテラとルグは、ようやく理解した。


 このひとジョンは、


 かれは、おそらくこの世界でただひとりだけ、世界で生きている。かれの歪んだ自己認識によって閉塞へいそくされた檻の中で生存している。


 外なるものは、いかなるものであろうと、かれの閉じた世界おりに接触したとたん、誰にも理解できない、かれの人生が培った世界観おしえに従って、誤読デコードされる。


 かれが頑迷に信じ込む、救いと呪いの法則によって、歪められてしまう。


 一見して、会話が成立しているように見えるから、誰もがすぐには気づかない。


 破綻した人格たましいは、破綻したなりに外界に対して適応しているから、そのために相応しい偽装外殻うそいつわりをまとっているから、―—表面的な付き合いに留まる限り、見過ごしてしまう。


 けれど、かれは、基本的に。閉ざされた自己認識の中、歪んで反響した妄想に独り言を返しているだけだ。


 こんな破綻した妄想の標的にされてしまったら、……


 だって、なにを言っても、なにを訴えても、なにを叫んでも、―—


 これが、魔女と獣ふたりの間にある虚偽虚飾かんけい


 罪過の末路として築かれた、不実と不義にまみれた、破綻し切った均衡点だった。

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