第091話 弱者の抵抗/限られた選択(1)
“恵み深き”/“戦狂い”ウィリアムの領地には、四つの都市が存在する。
良質の鉄鉱石を産出する鉱山を
広大な
牧羊業とそれを背景にした彩り豊かな織物の産地として名を馳せる《紬糸の館》。
そして、《風の寄る辺》。
この四つ目の都市、他にはない特異な点があった。
空を行く隊商が立ち寄るのだ。
ある騎士の領地でのみ生まれる、この産業動物。荷馬車どころか、河川を航行する大船にも匹敵する量の積み荷を吊るして、空を行く。
契約により、この鳥の群れを使役する交易商人の一団が、ここを中継地点として利用しているのだ。
都市として《風の寄る辺》自身には、さほど目を惹く産業があるわけではない。
しかし、交易によって莫大な利益を得ることで、元はただのちっぽけな共同体から始まり、―—たった数十年で都市へと急速に発展した。
もっとも、それもここ数年来、領地の治安が悪化するにつれ、臆病な気質の鳥たちが寄り付くことを拒みがちになって、――最盛期に比べれば、ずいぶんと活況にかげりを見せている。
さて、この《風の寄る辺》。
いくらか落ち目を見せているとはいえど、そこはまだ一つの都市。
外周は、高さがやや心許ないが、外敵を防ぐための頑強な市壁がぐるりと取り囲んでいる。
鉄製の二枚扉を備えた大門では、役人と門衛がきびきびと、ひっきりなしに訪れる者たちを検めていた。
そこを潜ると、きちんと石畳で舗装された本通りに出る。馬車がゆっくりと、通行人はせかせかと道を行く。
両脇には、肉に、野菜に、果物に、酒に、反物に、金物に、槍やら斧やら帷子などの武具に、と。
さまざまな品々が、いろいろな思惑の下、だましだまされ、虚実織り交ぜながら、誠実に不実に取引されている。
どこかから、鉄を鍛える金槌と金床の合奏がひびいた。かと思えば、豚やら
とにかく忙しなく騒がしい。
あるのは、活気という名の方向性の定められた
そして、……勘の良い者なら、気づいたかもしれない。この活気の裏側、ひそやかに隠された不安や焦燥、あるいは、うしろめたさといった
すぐそばにある暗がりから目をそらしたいから、いまこの
思考のすきまにつけ入り、すべり込む、
瞳に映る
誰かが、その
どこか
そんな思わず居住まいを正さずにはおれない、―—はずの
重厚な机の上、つっぷして寝ている者がいた。ときおり、ぴくぴくと
ややあって、……びくんっ!
ひときわ大きく身をふるわせた。勢いのまま、がばっと身を起こす。はぁはぁ、と乱れた吐息。うろんな瞳のまま、周囲を見回す。
「―—お目覚めですか? メイブ様」
「状況は、覚えておいででしょうか?」
冷静に続けられた侍女の言葉。ようやく頭が少しずつ理性のはたらき、取り戻しはじめる/取り戻しはじめてしまう。
かつて発生した問題はおろか、新たに発生した問題もまったく解決していないという、ろくでもない
「どうしよう、どうしよう、どうしよう。どうしよう、どうしよう、どうしよう」
ばね仕掛けの人形みたいに、急に勢いよく立ち上がる。
ハツカネズミのように、落ち着きなく、室内をうろつきまわる。
いらいらと爪を噛み、血走った目は、きょろきょろと一時たりとも動きを止めない。
つやのある長い髪は――おそらくは掻きむしったのだろう――火事場か、はたまた戦場からでも逃げてきたかのような乱れ具合。
いまは見る影もないが、身なりを整えて、
身に着けた深い
控えめに光る銀の装飾品も、名のある細工師の手になる一品と見えた。
「知らないわからない、後のことも考えろよ馬鹿ども、考えられないのも仕方ないけど、考えてくれよ、それがお前らの立場で役割で責務だろ」
咳き込むみたいな勢いで、強迫的に口を動かす。
「しかもなんで自殺行為に何千人も従ってるんだよ。おかしいおかしいおかしい。なんでこうなる、なんでどうして、こんなろくでもないことばかり続くんだよ」
「―—どうかお平になさってください。メイブ様」
メイブと呼ばれた娘は、まなじりを急角度で吊り上げ、声の主――扉の側に控えていた侍女を見る。
わなわなと震えた唇から、
「ええ、そうねそうね、その通りだわ。ありがとうクレア。あなたは、いつもいつだって私に価値ある
そうねそうね、まずは落ち着くべきだわ、そうよそうよ、そうなのよ。私は、お父様にも散々に、
忘れていたわ! 思い出させてくれて、ありがとう!
そうよ! まずは落ち着いて状況を整理して、冷静に問題を
たった、それでだけで、いかなる
抑圧から解放へ。
あえて指摘するまでもないが、かなりうるさい。
侍女クレアの耳にきんきん突き刺さるも、彼女は黙して目を閉じるのみ。けして耳をふさぐなんて無作法には及ばない。
上り調子で叫んだメイブ。うふふ、あはは、と微笑んだ後、ふと
「ああ、なんてこと! ざんねんざんねん、困ったわ! なんて愚かしい見落とし!
落ち着いて考えるなんて、そもそも落ち着きのない私にできるはずないじゃない!!」
まったく益体もなく、げらげら笑い出す。しまいには笑い過ぎてむせたのか、ゲホゴホと咳き込み出した。
とはいえ、そのあたりで感情の放出に一区切りがついたのか、どかっ、と
「あーあ、やってらんねー」
だらーん。身体を脱力させる。有り様は、もはや
まことおいたわしい主の姿にクレアは、そっと目を伏せた。
「あー、もういっそリネットと同じ手でも使うかぁー」
「メイブ様」
抑揚をおさえた、努めに努めておさえた、
びくり、とメイブは、肩を震わせた。
「ごめんなさい」
両手で顔を覆って、肩をふるわせて、繰り返す。不安定な浮き沈みのはげしさが、少女の追い詰められた精神状態を端的に示していた。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」
自らの、そしてこの都市の
あまりにも
余裕がなくなった人間とは、かんたんに、粗暴になれる。残酷にもなれる。そして、下品にもなれるもの。
ただ、この娘には、いまだ自らの卑しさと向き合い、恥じ、苦しむだけの真っ当な誠実さが残されている。幸か、不幸かは、さておいて。
鎮魂か、悔恨か、それとも、もっと別のなにかなのか。広い部屋、小さいすすり泣きの音律が満ちる。しかし、その時間は、そう長くなかった。
メイブは、涙の痕の残る顔を上げる。
「クレア、奴を呼びなさい」
クレアは、わずか、考える。指し示すものが何なのか、理解しながら、主の覚悟をただすために。
「―—奴、とは?」
そんなの、決まっている。
「この都市にたかる、
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