第61話 怪物ども、こぼればなし(1)
「――そろそろか」
つぶやく。自己の檻に囚われつつも、
危険の可能性は低い。しかし、対象が持つ脅威を思えば、油断などもってのほか。
地面に闇が開く。宵闇すらも呑み込む
そこから、ずるり。ずるずる、這い出るもの。
『だ、……だん、なぁ……』
アニス。そう呼称される、そうジョンが名付けた、人を喰う不明の怪物。変容する、何ものかへと至る過程。
自己の本質からすれば、矛盾も
普段は顎部のみに留めている変化。いまは、頭部全体に及んでいた。前方へと凶悪に突出した大顎、そして頭蓋すべてを覆う白骨じみた外殻。
あちこちが、ひび割れ、砕けて、欠けている。
人を
ようよう起こした上体。半裸。
代わりのように、皮膚を突き破り、せり上がった肋骨の鎧。人が持つ左右十二対より明らかに数が増え、かつ一本一本が異常に太く発達していた。
しかし、多くは半ばで折れ、
その下に見えた、娘らしく、なまめく肢体。ひとつ、ふたつ、……数えて合計九つの穴が開いている。
開かれた洞に臓器の類はなかった。白っぽい桃色の肉がうねうねと蠢いているだけ。
形良い二つの乳房も露わになっていたが、この状況で喜べるほどジョンの性的嗜好は異常ではなかった。
右の腕からは、肉がすべて削げ落ちている。人間の胴くらい余裕で鷲掴みにできる骨格だけの掌。
苦痛に喘いで、わしゃわしゃ動いている。鉤状になった指先が地面をざくざくと裂く。筋肉に相当するものはない。なのに、どうやって稼働しているのだろう。
左の腕はない。根本から断たれていた。
両足は、太ももや膝まではまともだったが、膝から下が欠損。
右足の方は綺麗な切断面が見えた。
左足は、潰され、ぐちゃぐちゃになった肉とも骨ともつかない組織が救いを求めるように
この化け物、どうして死なないんだろう?
それが、ジョンの純粋な感想であり、評価だった。
手にした力の耐久性を喜びつつも、生まれながらにして、こんな法外な力を勝ち得ている不公平。
恨むこと、妬むこと、憎むこと。それこそが本質的な生命活動である獣からすれば、殺意を抑え込むのも一苦労。
しかし、内心とは裏腹。ジョンは、すぐさま
「これは、……ひどい。痛かっただろう。でも、よく戻ってきてくれたアニス。あのときは、守ってくれて、ありがとう」
怪物を撫でる。
ジョンは、愛を知っている。
だから、空事だろうと、こうして相手が求める労りを与える術も心得ている。
その気になれば、自身を一瞬で噛み潰せるはずの怪物を慰撫する。感謝を伝える。
怪物もまた、いたい、いたいよぉ、と
アニスという怪物は、知性や情緒といったものを育み始めてまだ日が浅い。
まだ、二年程度。
発生からジョンと出会うまでの
自らがもたらした深秘。氷結の獄たる常冬の山に、ただ存在し続けた。
時折、縄張りへと捧げられた生贄を自動的に捕食するだけ。
誰かの願いに基づいて、終わりを知らず、続いていた。
きっと世界の終わりまで、飽くことなく、ただ捕食して生を継続するだけの、何ものにもなれない優越の幼生。
昆虫じみた、……いや、もはや環境そのものとの境界さえ曖昧な、現象じみた自らのない生を送っていた。
そのときのアニスを知るジョンからすれば、正直なところ、こうして死に体を晒して苦痛に喘でいること自体、首を捻るものがある。
お前、そんなまともな生き物じゃないだろう。
なのに、いまや、人を喰うくせ、人の姿を
まだ、二年。事実上、容姿肢体とは関係なく、幼児にも近い純真さを抱えている。
だから、付け込まれるのだ。小悪党に。
不実な青年と幼い情緒を持つ怪物。空しいままごとが継続されていた。
最中、――彼らを他所に、奈落から湧き上がる黒闇の流動体。噴水のように盛大に。押し上げるように。掲げ持つように。
死を解体し、生へと回帰した、まったき善き人を現世へと還す。
宝物をそっと草むらへ寝かせた。
不定の流体、わずか名残惜しむように
ジョンは、よしよしとアニスを慰めながら、――穴から出てきた、もう一体の怪物を見た。
夜闇にこそ映える柔らかな金の髪。不揃いではあったけれど、指の隙間からすべり落ちる流れ、そのなめらかの甘さを予感させる。
弛緩した容貌は可憐。穢れなき、加虐を誘う少女の似姿。
瞼は閉じられ、宝石の煌めきこそ覆い隠されていたものの、長く繊細な睫毛が奥ゆかしさの香を添えていた。
すぅすぅ漏れる命の息吹。血の気の薄い唇の端、ちょっと涎が垂れている。
細い肢体。所々、継ぎの当てた白い長衣は、右肩から左の脇腹に至るまで、ずたずたに裂けている。裂け目から広がった血の染みは黒く変色していた。
けれど、下に覗く素肌。眩しいほどに蒼白く、そして、なめらか。傷などどこにも見当たらない。
其の善意は
自動発生する応報の現象が
なまめかしく儚い佳人の形象。しかして、その綺麗な宝箱、うっかり暴こうものなら、――
ともすれば、けだものに襲われそうな無防備であったが、――幸いなことにジョンにそっちの気はない。
あったとしても、こんな死の絶対性をも超越した、世界そのものに発生した
そもそも様々な意味において、彼とは趣味が合わない。端的に、ジョンは彼が嫌いだった。
忌々しそうにつぶやく。
「のん気に寝てやがるな、こいつ」
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