第057話 くだらない/くやしい(13)

 満ち足りているようには、見えなかった。


 デヒテラは、自身のものを分け与えようとして、――ディアドラがルグに手を差し出す方が


「貸しなさい」


 ルグが悪戯を咎められたような、しょぼくれた上目遣いでディアドラを見る。おずおずと椀を差し出した。


 無言で受け取ったディアドラ。すぐにおかわりをよそって、ルグに椀を返した。


 ルグの肩、ひく、ひくっと不規則に震えた。瞳が潤んで、にじんでいく。鼻を、すんすんと鳴らし始めた。


「――貴方たちには、小間使いとして、働いてもらうのだから」


 その、ような繰り返し。処刑人の目は伏せがちだった。長い睫毛が瞳を隠そうとしていた。つまり、彼女は、自らのを自覚していた。


 そして、―—事実、彼女は失敗した。目も当てられない大失敗。だから。


 ルグが、


 情けによって、木っ端微塵に粉砕された矜持のせき


 感情の奔流は、留まるところを知らず、体裁も自制も矜持も押し流す。我が身一つで何も為せない理不尽に吠え猛る。


 


 そして、現実は少年の激情とは裏腹。泣いて、喚いて、地団太を踏みたいのに、……力無い身は、うずくまり丸まって、すすり泣きみたいな、か細い嗚咽を漏らすだけ。


 無力が、くやしかった。


 無力だから、賊に奪われた。無力だから、姉共々、売り飛ばされた。無力だから、代償の犠牲があって。無力だから、弱者をなぶるばかりのクズすら打倒し得ない。


 不公平が、くやしかった。


 おかしいだろう。理不尽だ。あんなしかできない奴が、なぜ途方もない、法外な力を勝ち得ている。


 たくさんの兵隊が従って、存在自体が反則そのものの怪物も言いなりだなんて、だ。。ぜったいにしてる。


 だいたい、なんで、


 初めに会ったとき、結果こそ確認しなかったものの、弩で射抜いたはずなのに。先の一幕では、石でも握り潰せる異形の腕で全力で殴ったのに。挙句、おとぎばなしの魔法じみた大樹の一撃で潰されたはずなのに。


 平気で喚いて、ずっと動いていた。


 おかしいだろう。村の皆は、賊にちょっと槍で突かれて、斧で断たれて、馬で蹴られたくらいで亡くなったのに。


 人は、簡単に壊れて、死んで、終わる。そんなもの、幼いルグですら理解するほどの、単純にして明解、不変不動の定理なのに。


 なんで、あんな屑が、へらへら生きている。


 まるで、死の方が拒んでいるみたい。当たり前に、不可解に。さながら呪いのような生を継続していた。


 “巨人わたくしや、あの人喰いが、どうして旦那様に従っているのか、その意味よぉく考えて”


 よみがえる巨人の声。慇懃に糊塗した嘲り。指先一つで潰される、どうにもならない力の象徴。


 知らない。知らない。知らない。そんなの知るもんか。


 まさか、おとぎばなしの“騎士”みたいに、正々堂々、打ち倒して恭順させたとでも!?


 きっと、ぜったい、何かのをした。

 

 口に出すことすらおぞましい、汚い手管でもって従えたのだ。


 こっちは、こんなに棄てて、――望みを可能な限り切除して。たった、ひとつ。姉だけを守ろうとして、その程度を叶える力も無いのに。


 こんな不公平、あんまりだ。


 “しっかりと食事を摂らなければ、はしゃぐこともできませんものねぇ”


 情けに縋る自分が、くやしかった。


 嘲笑されたばかりなのに。こうして、また、与えられたえさを犬みたいに有難く頂いて。


 足りないからって、お情けで、御代わりまで頂戴しまして。ええ、ええ、なんて良いご身分なんでしょう。うるさいよ。


 情けなくて苦しい。消えてしまいたい。でも、こうして身体を縮こめるのが精々ですねえ、ご愁傷様。だまってよ。


 大丈夫ですよ、大丈夫。きっと、ディアドラ様は、無価値な子にこそ、のですから。ちがう、ちがう、ちがう。


 本当は、この人ディアドラは、こんなことをしてはいけないのだ。哀れみ、情け、慈悲なんて、もってのほか。


 だって、処刑人なんだから。


 罪悪の破壊者。公平を量り、不正をただし、均衡を強制する天秤。単一機能に特化した機巧。その残酷なる性。無謬むびゅうであることなど、当然の前提。博愛なんて瑕疵かし、許されるはずがない。


 手を差し伸べてくれたとき、躊躇ためらいがあった。震えがあった。自身の途方もない間違いを恐れるような、ひどい苦悩の影があった。


 だから、きっとあり得ないことなのだ。


 ディアドラにとって、禁忌に相当して、けれど、それを曲げてまで、手を差し伸べてくれたのだ。


 どうしよう、どうしたら良いんだろう。


 ジョンは、きっとディアドラに強く心惹かれている。ディアドラが来たとき、子どもみたいに笑っていた。


 義姉を好いていた、村の同い年の子におぞましい連想。つながってはいけないつながり。妄想ならぬ妄想。怖気が止まらない。


 もしそうだとするなら、哀れみ、手を差し伸べた無力な子どもなんて、ただのつけ込み易い弱みじゃないか。


 どんな悪意を持って、どんな醜い願いを持って、どんな穢れた手で迫ってくるか。


 振り払うには、あまりに力が足りない。まったく力が足りていなかった。


 もう無理だった。認めない振り、見ない振りはできなかった。嘘で自らを騙すことすら難しい。


 ルグは、


 たくさんの兵隊を率いているのが、怖かった。反則みたいな怪物を従えているのが、怖かった。


 そして、なによりも。


 あの一つ眼が怖かった。まったく理解不能な悪意に淀んだ眼球が。

 

 悪党だなんて、生温い。あれこそまさに、言語に絶する怪物だった。


 “どうか、お前を誇らせてくれ”


 過ぎ去った夢の言葉が、いたい。


 正しくなんてない、勇気なんてない、思慮なんて当然あるはずもなく。


 力と意志。介入するために必要な、その資格を持ち得ないにも関わらず、我慢のできない衝動一つでもって、子どもの無思慮を武器に挑んだだけ。


 泣き喚きが形を変えただけの、みっともない子どもの我が儘だ。


 どうして、自分の身体はこんなに小さい。こんなに弱い。何も為す力が無いのか。


 手を伸ばしても、背を伸ばしても、家族一人守れない。目を覆わんばかりの、悲惨なる欠乏。埋め合わせる術すら見つからない、この恐ろしい不完全。


 堪えようもなく泣くばかり。後ろに残した悔いと未来さきに待つ恐れ。震えることしかできない自分が、くやしかった。


 泣き止まないルグの背をさすっていたデヒテラ。少女もきっと耐えていたのだろう。そして、耐えきれなくなった。いつしか、少女もすすり泣いていた。


 小さな二人。ただ身を寄せて、しんしんと涙をこぼし続ける。


 二人でいられることは、きっと幸福だった。二人でしかいられないことは、疑いなく不幸だった。


 欠落し、不足し、空白ばかりが目立つ小さな温もりの絵画。色彩では描けないものが、溢れていた。


 誰かのため、己の無力を悔やみ、零される。透明なもの。色を持たないそれは、死と破壊の鮮烈がため、世界が見落としがちな、確たる貴さのひとつだった。

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