第56話 くだらない/くやしい(12)
溜まったものが決壊しそうになった。
さりとて、与えられたものから目を離すこともできない。矜持と本能が懸命に綱引きをしていた。待てと指示された飼い犬みたい。ルグは、ぶるぶる震えて動けなかった。
デヒテラがそんなルグの身体に優しく腕を回した。よしよしと頭を撫でてくる。
ふと、最前に落ちていた夢の手触りを思い出す。てのひらが温かかった。
「――これは、この隊の予算から出たものではない。私の稼ぎから得たもの」
処刑人が抑揚なく告げる。
あの傷の青年とは、関わりのない糧なのだと。自尊心を踏み
「貴方たちには、小間使いとして、働いてもらうのだから」
義務に対する権利。労働への対価。その前払い。
言葉をそのまま信じることができたなら、ルグは、とても幸せだった。自ら持ち得るものを対価に獲得した成果なら、たとえ、どれだけわずかでも、最低限、矜持を守ることはできたのだ。
けれど、これはどう考えたって、悪意に弄ばれた、惨めで、何も持たない、みなしごへの哀れみだった。
けれど、だとして。食事を、施しを受けないなんて選択もあり得ない。
巨人が
哀れみだろうが、嘲りだろうが、企みだろうが、――力を得るためには、与えられるすべてを糧としていくしかない。
それは、どれだけ情けなくとも、いまの少年が自覚しなければならない分際だった。
ルグは、ぎゅっと目をつぶる。心を必死に落ち着ける。決壊しそうなものを堪える。重要なのは覚悟。
そうして、ふと、ルグは、そしてデヒテラも気付く。
ディアドラは、少年少女を見ているだけ、―—彼女は食事を手にしていない。まさか、子ども二人に与えた分がすべてということもない。鉄鍋の中、まだ煮込みは残っていたはずだ。
少年少女の視線をどう理解し、解釈したのか。
処刑人は、少し考えるようにしてから、設置された長持ちの蓋を開けた。かちゃかちゃと、自らの分と思しき、木椀と匙を取り出す。煮込みをよそう。
屋内だというのに、被っていた
月の仄明りが室内を満たした。そんな錯覚に眩むくらい、やはり
「いただきましょう」
食事の前、“王”に捧げる祈りはなかった。ちょっとだけ困惑しながら、けど少年少女、あえて口を挟むことはしなかった。
そもそも、――少年にとり、いまは生命の補完こそが至上命題。もう限界だった。あとは、飢えた獣のように。
自らそう思いながら。ルグは、がつがつと糧を摂取した。欠乏の極みにあった小さな身体。ひたすらに
味をどうこう評する余裕はない。
空白を満たして彩る滋養こそ、何よりもって、優先されるべき唯一つ。
陸で溺れた魚が末期の水を夢見るように。生きるため、生きて為すため、
行儀が良いなんて、お世辞にも言えない。はっきり言えば、みっともない。おかあさんがいたら、きっと大目玉。
見詰めるデヒテラ。しかし、咎めることなんて、できなかった。
悪意を、強要された殺人を。否定しながら、――ただ泣くことしかできない無力。
無惨を否定する資格の欠落。意義の質量に潰れ、立ち行かなくなり、何一つ為すことなく閉じるはずだった
代わって、重荷を背負い、大いなる悪に立ち向かったのは、瞳に映る小さな身体。姉を守る。一念のみをもって、ルグは限界を超えたのだ。
咳き込むみたいに平らげていく。獣にも似た余裕の無さ。
デヒテラを守ろうと、懸命に戦った代償なのだ。ちょっとした見てくれの悪さ。咎めるなんて、どうしてできる。
ちらりと、デヒテラは、視線を移す。
ディアドラは、静かに食事を摂っていた。ルグの有り様を気にした風もない。
子どもの無作法をよそに淡々と食事を進めていた。所作は、どこか上品で洗練されているように見えた。
紅くて、つやのある、品良く整った上唇と下唇。切り口みたいな境界に匙が滑り込む。どきり。デヒテラは妙な感覚を覚えて、なんだか目を逸らしてしまう。
この人は、この方も、よくわからない。
かつて、故郷でちらりと見た解体された人の残骸。それを為した人だという。
どれだけ恐ろしく、おぞましいひととなりなのかと思えば、――こうして、みなしご二人に情けをかける心も持ち合わせている。
だから、困惑してしまう。
凄惨と慈悲が隣り合っていた。醜と美が並存していた。呪いと祝福が同居していた。背反し、矛盾したような処刑人で魔女。
無から大樹を成し、もって威を示す。まるで、おとぎばなしから、はみ出て伸びた優美な影絵。
思えば、ジョンという傭兵隊長が故郷を訪ってから、あの巨人を皮切りに不思議なことが多過ぎた。それこそ、おとぎばなしに迷い込んだみたい。
もちろんデヒテラなんて、その背景として消えるだけの無名の一。
巨人、黒狼、人喰い、魔女、そして――少年とも少女ともつかない、儚げな花にも似た佳人。クリス。
彼が亡くなった後、起こった現象。果たして何だったのか。彼諸共、人喰いを落して消えた奈落。
けれど、あれが起こらなければ、きっとルグもデヒテラも怪物の餌だった。
物柔らかで優しい、綿毛みたいにふわふわで、花弁みたいにひらひらの、とびりき可憐な人だった。傭兵隊なんてものには、いかにも不似合いだった。
つまり、彼もまたディアドラのように、なにがしかの不条理を身に宿す異端異質の担い手であったのかも知れない。
あの奈落が、その顕現であったとするならば、……いや、きっと間違いなく、そうなのだろう。
ルグとデヒテラは、疑いなく、彼の最期の意志に救われたのだ。
物思う少女と糧を食む少年。
そして、―—謎を湛えた麗人は、幼子二人をよそに、実に気のない素振りで食事を継続中。
だというのに、ふと、視線を動かした。ルグへと。
内面へと沈んでいたデヒテラも釣られる。
見ると、ルグの手にある椀が空になっていた。結構な量が盛られていたはずだが、もうこの有り様か。
空の器をじっと見る少年。とても、さびしそうな目だった。
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