第055話 くだらない/くやしい(11)
ルグは、ぼんやりと目を開く。
光は少ない。飛び込んできたのは、こちらを覗き込む、デヒテラ。心配そうな困り顔。柔らかくて、すべすべした顔。どうしてそんなに曇っているの。
わからない。でも、そんな顔はよくない。まったくもって、よろしくなかった。ぼやけた考えの間に身を起こす。
途端、視界が眩む、頼りなく。ふぅら、ふらふら。波間漂う小舟みたいな上体。気合一つで、なんとか保持。
すぐに思い出す。先にあった一幕。
丘を登って対峙した、想像を絶する悪意。それを打ち倒した銀麗の魔女。
けれど、手を繋ぎ、丘を降って、野営地へ踏み入れてから、―—記憶がふっつりと途切れていた。
遠く、微かに、男たちの濁声が聞こえていた。けれど、姿は見えない。
ルグの視線の先。あったのは、ランタンの仄灯りにしっとり映えた木目の壁。天井も同じく、沈むような飴色に艶めている。
方形の空間。鎧戸の取り付けられた窓。開かれ、そこから件の男どもの声と煙の臭いが少し漂って来る。
壁に沿うように、長持ちが置かれていた。蓋の上には、座り心地の良さそうな厚手の敷物。
ルグ自身、対岸に設置された同型の品の上に寝かされていたようだ。
馬車の架室の中、そう見えた。しかし、気になるものが一つ。外に通じると思しき扉とは別にあった、いまひとつの扉。
ずっしりと重々しい錠前で厳重に封じられていた。そこだけ、灯りが逃げて、暗い
壁一枚隔てた先、いったい何があるのか。ぼんやり、さまよって、定まらない思考。最中でも、ひやりと肌に突き刺さる、意思の疎通が不可能な、不吉の兆し。
言いようのない不安に背を押され、義姉に気弱な上目遣いを向けてしまう。
「俺は、……?」
「気を失って倒れたの。大丈夫? 痛いとか、気持ち悪いとか」
デヒテラは、ひどく気遣わしげだった。
言われて、ルグは気付く。言われるまで、気付かなかった。それぐらい、自分自身が希薄になっていた。ひょろひょろで、すかすかで、ぺらぺらだ。
ルグという小さな命の構成要素。ごっそり欠けている。欠乏し、欠落して、すっからかん。びっくりするほど、自分自身が足りてない。
痛みや気持ち悪さなんてものはなかった。いまは、唯々、身も心も軽過ぎた。
風が吹けば、きっと、そのままとこかへ飛ばされてしまう。風なんてなくても、気を抜けば、崩れて落ちて、さらさらの灰になる。
おかしな空想。なのに、切実な実感としてルグの背筋を震わせた。
「ちょっと……しんどいけど、大丈夫」
だけど、一生懸命の強がりで応える。声は、ぼそぼそと力無く、
こんなの、余計に心配させてしまう。
ふと、左手を見る。あのとき変化した、白い鱗に覆われ、鋭い鉤爪の生えた強靭な手。悪党を殴りつけた腕。外敵に立ち向かうための力。得たはずの、力。
なのに、いまは、白い鱗が点々と生えるだけの、小さな子どものそれに戻っていた。
しかも、びっくりするほど、肌が蒼白い。指には力が入らない。ぷるぷると、細かい震えが止まらなかった。
のそのそとお尻のあたりを探る。下穿きに穴が開いていた。だけど、そこから伸びていたはずの尾っぽはない。ない。ない。ない。
急に心細くなって、きょろきょろと周囲を見回して、――ばっちり目が合う。
「大事はなさそうね」
漆黒の長衣に包まれた優美な女性の肢体。処刑人、そして魔女たる者。救い主、ディアドラ様。
「――腕が肥大して、尻尾が生える。腕を自切する。また、腕を生やす。異形、忌み者が元の形から、そんな極端な変化を起こすとは、聞いたことがないけれど」
「尋常の理に則るなら、そんなこと、相当に体力を消耗する。子どもの貴方なら、なおさらに」
要するに限界だったのだ。
過剰な出力が、小さな身体に蓄えた、ちっぽけな燃料を瞬く間に消費し尽くした。空っぽになった身体は、当然の帰結として、速やかな
意識消失に至る直前。心に誓ったばかりなのに。
デヒテラが、再び心折られる事態のないように、目を光らせて。そのときには、いつでも、何度でも、どうなっても、立ち向かうのだと。
だというのに、この始末。まだ信用できない、なんて思っていた、この処刑人が側にいる状況。なのに、あっさり気を失ってしまった。
なんだよ、それ。大はしゃぎで、遊び疲れた子どもか?
怒るやら、恥ずかしいやら。渦を巻く、行き場のない感情。けれど、萎れた草木みたいに、へたれた身体。
ルグは、自身の太腿をぎゅっと掴んで耐えようとしたが、――掴むその手にすら力が入らない。
自分がますます情けなくなるだけだった。
かててくわえて、……ぐぅぅぅ、ぎゅるぎゅる。ぎゅるぎゅるぎゅる。
貧しく、乏しく、力の入らない心身とは、裏腹に。堂々と元気よく自己主張を始めたのは、空っぽのお腹。
もはや、声すら上げられず、少年は俯く。
ぐぅぐぅ鳴るのが止まらない。お腹が空いた、お腹が空いた、お腹が空いた。泣いて、喚いて、駄々こねる。まったく聞き分けない、聞かん坊。
何もかもが不足し、欠乏し、覚束ない中。ただ空腹だけが、強烈な生の実存を叫んでいた。
羞恥。あまりの羞恥。ぷるぷると身体を震せる以外、できることなんて、なかった。
「――食事にしましょう」
淡々と、乾いた言葉。けれど、
ルグが気を失っている間、用意は済ませていたのだろう。
処刑人は、傍らに置いていた鉄鍋の蓋を開ける。柔らかく豊潤で、空きっ腹には、あまりに蠱惑的な芳香。ふわりと鼻孔をくすぐる脂の甘み、香草の爽やかな刺激。
中にあったものを木の椀へとよそっていく。子どもには、大き目の椀にたっぷりと盛られたそれは、具沢山の煮込み。
葉物、根菜、豆、そして肉も。消耗し尽くした幼い身体に、浅ましいほど貪欲な衝動が沸き起こる。
渡されたもの。ルグは、憑かれた目で見詰める。目元がひくひくと
“しっかりと食事を摂らなければ、……はしゃぐこともできませんものねぇ”
おかしそうに囁かれた、怪物の言葉。
かつて、与えられた糧。
それは、家畜の餌どころか、気まぐれに弄ぶ玩具の燃料であったのか。ならば、いまこの手にあるものは。
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