第054話 くだらない/くやしい(10)
かつてあった、村長と自身の
危難の熱に浮かされて、忘れていられたはずなのに。どうして、いまになって、沈めていた後ろめたさが顔を出したのか。
ふと、銀に流れる美しい影が、いまは知らないはずの確固たる幻想が瞬いた。
ああ、そうか。肩の荷、すとんと落としていたのかな。
省みてのち、……俯いてしまう。
唇をかみしめて、拳を握りしめて。せめて、こみ上げたものを見せないことが、自身にできる精一杯。
“ああ、あのときは、みっともないところを見せてしまったな。いまはどうかな? これでも、ずいぶん練習したつもりなんだが”
ぜんぜんダメだった。あんなの、苦しいですって告白しているも同じ。
罪に苦しむ、善い人の顔だった。
“ダメですよ。ぜんぜんダメです。ほんとうに憎たらしくって言うのなら、せめて、あの
ついつい、そんなことをまで口にしてしまう。
“――なるほど、それは、……手厳しい。ジョン殿か。あの域に至るには、さてどうしたらいいものか”
……どうしよう。
“冗談ですよ。冗談。あんなの、どうやってもなれませんよ。あれは、きっと生まれたときからあんなので、正真正銘の化け物なんです。
もし、もしも、
“そうか。でも、いかんな。かつての不様を
“ええ、そうです。人にはできること、できないことがあるんだから。
売り飛ばされた身の上を、どうしようもない、の言葉で雑に総括する。いま必要なのは、きっとそういう開き直りだった。
“できること、はて、それは”
“決まっているでしょう。村の皆を助けてください。もう幸せなんて、難しいかもしれないけれど、せめて、つらくて、かなしくて、お腹が空かないようにしてください。道をまちがえないよう、導いてください”
これ以上、犠牲となる者の無いように。
勢いは大事。とても大事。ようやく、こぼれそうになっていたものだって、引っ込んでくれた。
ようやく顔を上げた。
“それは、それが、――許されて良いのだろうか”
“そのために、姉ちゃんを差し出したんだろッ!!”
さすがに声を荒げてしまう。
文句ひとつこぼすことなく、犠牲となることを受け入れた義姉。その意志を、価値を、意義を。無にするつもりかと、頭にくる。
ひどい矛盾もあったもの。犠牲に怒りながら、犠牲を
義姉が大切だから、売り飛ばすのが許せない。
義姉を売り飛ばして、
矛盾し、背反する想い。
だって、仕方ないでしょう。罪を犯したのなら、悪に染まったのなら、お前らぜーんぶ終わってしまえー、だなんて。
そんな綺麗に割り切れるほど、大人じゃないんだから。
簡単に、単純に、ただ憎むことを許してくれないのなら、せめて、そのくらいやってみせてよ!
“ああ、ああ、そうだった、わたしは”
いつかのように
――そのために、罪を犯したんだった。
罪の醜さと重さに惑い、得たはずの
ようやく自らが犯した行いの、価値と意義を取り戻したのだ。
これは、間違いだ。疑う余地なく間違いだ。誰がなんと言おうと、彼自身が彼の間違いを確信している。
けれど、――為したのならば、その罪にかけて。
罪の痛みに
きっとそれは、遅々とした、もどかしい、行きつ戻りつを繰り返す悪路だろう。営々と継続される苦難だろう。けれど、それがあたりまえの、人の営みなのだ。
“すまない。そうだった。そうだったはずなのに、この有り様だ。ルグ、すまなかった”
“お前の言うとおり、――私は、恥を知らずに、道を外れることなく、皆と共に
“ええ、そうしてください。その方がせいせいする”
吐いて出た、にくまれ口。なぜか、大人の顔に、初めて苦しみも歪みもない、笑いが戻った。
……言うべきも、語るべきも終わった。
だから、ふん、と鼻を鳴らして、さようならもなく背を向ける。
“ルグ”
なのに、
“あのとき、お前は正しかった”
その言葉の優しさに、またこぼれそうになる。
“皆も、私も、あのとき、お前に恐れをなした。あんな怪物を従え、多くの兵を率いた方に弓引いたのだ”
“お前も、そして、我々も。無事には済むまいと。なんということをしてくれたのかと。きっと、お前を憎みさえしたのだ”
悔いるように。言葉は重なり、連なっていく。
“けれど、恥を承知で言わせてくれ。ジョン殿が、
“正しかったのは、お前だったのだと。あのとき、あの場所にいた者の中、正しかったのは、お前ただ一人きりだったのだと”
底無き暴威に、底無き悪意。大いなる悪を前にして、平伏し、差し出す以外を選べなかった無力な
最中、ただ一人、同胞のため立ち上がった、小さな身体。どうして、
それは、
“どうか、お前を誇らせてくれ。弱い私たちが、これ以上、道を誤ることのないように”
ゆえ、讃えるのだ。願うのだ。どうか、
まるで、祝詞を唱えるみたい。切なる祈りが、自らの不足を知る身には、ただ痛い。
聞いていられなくて、苦しくなってしまって、逃げ出すように。急いで、家へと駆け込んだ。
ぱたん、と扉を閉じてから一歩だって動けやしない。
ちがうんです。ちがうんです。そんな格好いいものじゃあないんです。
あれは、泣きたいのに、喚きたいのに、それが、できなかったから―—。
“おかえり”
すべての苦しさを溶かすように。
撫でられた頭の感触。髪に触れる指の先。欲しかった誰かのてのひら。
“ご苦労様。ありがとう”
すぐに顔を上げられない自分の弱さに泣きそうになりがなら、ゆっくりと頭を傾けて、……ぼんやりと、幻想の終わり、お義母さんの笑顔を見た。
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