第052話 くだらない/くやしい(8)

 目を覚ます。すっきり冴えた起床おはよう


 さあ、今日も一日頑張ろう。一日を。


 の姿はない。見ると、床に寝転がっていた。


 良い子の割に寝相が悪いのだ。とてもとても。ついでに寝起きも、あまりよろしくない。むずかるようにした義姉をベットに戻す。


 。よく似た親子、綺麗な寝顔。ちょっと、笑ってしまう。あくびなんてしてないのに、なぜだか少しこぼれたものをぬぐった。


 古びた水桶を手に、軋む扉、そぉっと開く。そろりそろりと家を出た。


 まだ明け方。空気は、肌にちょっとひんやり触れてくる。


 ぽつりぽつりと点在するわらぶき屋根。お年寄りな木の柵で区切られた道、ててて、ととと、と歩いてく。遠くに見える、実った麦の穂、まだ淡い陽の光に映えていた。


 なにひとつ欠けることのない、完成された世界。


 おかしいな。少しだけ、さみしくなって、ここにあるもの、あったものを確かめるように。ゆっくりと一歩一歩を確かに踏みしめていく。


 硬い土、確かな地面、これまで続いた、これからも続く村の暮らし。踏みしめてきた皆の足跡。辿って、確かめ、参加するように、目指す場所へと歩んでいく。


 井戸に向かう途中、が声をかけてくる。


 “おお、ルグ、朝早くからご苦労さん”


 、断たれたはずの両の腕。。こちらに向けて、大きく振っていた。


 “いいえ、いいえ、これくらい、なんてことありません”


 手を振り返す。大きく大きく手を振って。言えなかった、さよならを告げた。


 “ああ、ひどい目にった、やんなっちゃうよ”


 “あんたが他人の目が気になるなんて、村を出ようとしたのが、いけないんじゃない”


 歩む先。あったのは、古びた柵に腰かけた、ふたりの影絵。陽気なお兄さんと、しっかり者なお姉さん。変らず、仲の良い男女の姿。


 “どうしたんですか、こんな朝早くから”


 いつも、内心ちょっとにやにやするだけ。声なんてかけないんだけど。なんでか久しぶりに見た気になって。こぼれそうになりながら、相変わらずのに声をかけていた。


 “お、いいところに。エスリンさん家の混ざりもの君じゃないか”


 “ちょっと聞いてよ、蜥蜴とかげのルグ。こいつが、なんだか最近人目が気になるなんて小さいことを言うから、あたしたち、まっさきにひどい目にったんだ”


 “ええっ、と、それは何と言うか……災難でしたね”


 言葉を一生懸命選んだけれど、結局、上手い言葉なんて捻り出せない。気休めにもなりやしない。顔を覆いそうになるくらい、ひどいお悔やみ、申し上げていた。


 “君は、相変わらず愛想が良いねえ。とてもあの無愛想なキアンさんの子どもと思えない”


 “そりゃ、あれだけ可愛い子と暮らしてたら、口も軽くなるでしょう”


 “俺みたいに?”


 “そ、あんたみたいに”


 最終的にそこに行き着くんですね。呆れと、感心と、さみしさと。


 変わらない二人にこぼれたものを拭って、さよならを告げてから駆け出した。


 “おおい、少年、慌てて走ると危ないぞ”


 “そうそう、まだまだ小さいだから、転んだら大変。ゆっくりでいいんだよ。ゆっくりで”


 馬につながれ、引きられ、骨まで見えていた。こそげて果てた恋人たちの姿。焼き付いた、いつかの残滓を振り払うようにして、駆けていく。


 井戸まで大した距離なんて、ないはずなのに。なんでだろう。とても、とても長くて、大事な時間を過ごしたような気がした。


 そうして辿り着く。井戸の側にも、がちらほらと。


 “来たよ、蜥蜴とかげの子ども”


 まずいところで出くわした。この時間なら、いつもはいないんだけど、この人。


 “ねぇ、いつも思うんだけど、それ感染うつったりしないよねぇ”


 顔をしかめて、じろじろと。こちらの首筋にある白い鱗。すがめるように、責めるようにして、何の仇だよって思うくらいに見詰めてくる。


 “あの女も、昔の男の子どもだからって、変なもの、持ち込んでさ。男連中も、あの女が綺麗なもんだから、強く出やがらない、ああ、本当に腹が立つ”


 この人は、苦手だ、……けれど、言わないといけないことがあったから、丁度いい。


 “あのときは、ありがとうございました。おかげで俺はまだお姉ちゃんと暮らせています”


 “ああ、やだやだ。蜥蜴とかげのくせに、お利口さん。あんなの当たり前だろ。別に礼を言われる筋なんてないんだよ”


 子どもたちを逃がそうと、盗賊につかみかかって、――たくさんの凶器に貫かれ、事切れた人。


 順番を待って、水を汲んで家路を辿る。


 途中で出会う、まだ存えている人、いないはずの人。隣人は、皆が皆、穏やかで健やかだ。痛みはない、飢えてもいない、欠けてもいないし、失ってもいない。


 それは、かつての滅びが訪れる前、在りし日を描いた絵画にも似て。


 軽く弾んだ、ありきたりの対話に万感を。


 皆に言えなかった、言葉。


 さようなら、ありがとう、そして、ごめんなさい。


 たくさん告げて、家路へ戻る。小さくて古びた家の前に着く。


 家の前、ひとつの影が佇んでいた。いないはずの人ではなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る