第035話 善意の奈落(4)
「そうか、――聞き分けないなら、躾が必要だな」
ジョンは、いかにも子どものわがままに困ったという顔で。
「アニス、そいつ、ちょっと喰っていいぞ」
ごきみきごきりごきん。胸の悪くなる骨の稼働音。
娘の顎が人体の可動限界を無視して、大きく裂けるように開く。次いで、上顎と下顎が狂ったように突出して成長。
「―――!!」
言葉にならない、
悲鳴は、きっと始まりの合図だったに違いない。
反応し、動けたのはわずか。
ルグのいまだ頼りない右肩。怪物の顎に噛み砕かれる、瞬間。
とん、とその衝撃は軽い。
「さすがにダメでしょ。こういうのはさあ」
気の抜けた声。次いで、ごぼ、とせり上がった何かを吐く。
散る間際のあえかな花。子どもと怪物の間に割り込んだ、
右肩から左の脇腹に至るまで、怪物の大顎に生えた鋭い歯にずたずたに裂かれていて。
漏れ出す生命の色は、肌の蒼白さに相反する鮮やかな深紅。むしろ、その蒼白にこそ良く映えていた。
まったく、いつの間にだろう。
誰も、聞こえていなかった。誰も、見えていなかった。誰も、気付いていなかった。
自ら死に近づく、無力な善意の
おとぎばなしの中、名も語られることなく消える命のように。ごく自然で至極当然に
『ば、お前、急に割り込んでくんなよ、』
怪物が、怪物がましくない動揺を露わにする。
「アニス、前に言ったこと、あるよね? 悪い人の言うことばかり聞いてると、いつかきっと痛い目に
そっと、慈しみを持って、自らを殺した怪物の
「子どもを食べようなんて、だめじゃあないか。いまの君なら本当はわかっているでしょう? 悪いことをしたのなら、罰がないといけないよね。因果は結ばれた。――お仕置きの時間だよ」
かく、と怪物の
どう見ても、彼は死んでいた。
『ひぃっ!』
怪物が、正真、恐怖に
だから、――ここからが怪異の始まりだった。
クリスの
唐突で、何の前触れもない、異常現象。まるで底の見えない、無限の
『っっ!!』
落下直後、怪物の、まだ娘らしい
しかし、それを許さない、とばかりに。
光の届かない穴底。宵闇よりもなお暗い正体不明の
『ちくしょう! いやだ! いやだいやだいやだ!! また、あんなところに行くなんて冗談じゃ――』
怪物の絶叫の最中。
暗い
いま一つの罪、――すなわち、
風が奔る。
《人喰い》の腕、奇形的に伸長した鉤肢が、ジョンを捕らえようとした闇を引き裂く。
そして、自身を穴の
『おぼえてろよォォォオォォーーー!!
負け惜しみの残響が尾を引く。
抵抗を封じられた怪物。クリスの死体とともに、あっという間に穴の底へと呑まれていった。
怪物と
あまりに衝撃的な出来事と、まったく理解不能な現象。
少年少女は声も出ない。
だが、即座に気を取り直したデヒテラ、突き飛ばされ尻もちをついたままのルグに屈み込む。
「ルグちゃん、ルグちゃん大丈夫!? 怪我は!! 血が、こんなに血が!」
「お、俺は大丈夫。でも、でも、クリスさん、が、」
ルグの顔は蒼白。そして身体には、クリスから飛び散った生命が点々と赤い跡を残している。
たったいま自らの命を救うため、一つの命が失われた。
喪失の事実にがたがたと震え、身を竦ませている。
病を得たような熱さと冷たさが少年を狂わせる。なのに。
「あー、いろいろ台無しだな」
なんて気の抜けた感想が、呟かれた。
先にあった惨劇など、さながらつまらない道化芝居といったところ。
ジョンがやれやれと額に手を当てる。
そこにはクリスの死を
デヒテラは、歯をかちかちと鳴らす。
思う。ジョンはついさっき何と言ったのか。喰っていいぞ、と。
そして、怪物へと
――子どもって試したことなかったなって。
――役に立たなかったら、くれてやってもいいけど。
恐い、恐い、恐い。
いったい何なのだ、この人は。
友好的に振る舞ったかと思えば、裏で怪物の餌にしようと企てていたり、試しにデヒテラに人を殺せと言ったと思えば、それはさも善意で処刑人にしてやるためだと言う。
故郷を襲ったあの盗賊は、ただひたすらに単純だった。純粋とすら言っても良いかもしれない。
幼児のように気ままに直線的に暴れる、ただそれだけだったのだ。
もちろんそれは充分以上に恐怖の対象なのだが、眼前にある男の振る舞いはまったく種類が異なっている。
まったく意図の理解できない
かつての賊は日常を破壊するものだったが、これは日常を狂わせるもの。
けして、触れてはいけない
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