第032話 善意の奈落(1)

「あ、来た来た」


 デヒテラとルグを迎えたのは、そんな軽い調子。


 歩く最中に見た天幕ではなく、周囲一帯を見渡せる小高い丘の上で。


 簡素な木箱を逆さにしただけの椅子に腰かけた、傷跡ばかりが目立つ青年。朗らかに、笑っていた。


「元気そうでよかった。どうだった、この五日間は? もう、うちの隊にはいくらか慣れたか?」


 屈託のない、柔らかとさえ言っていい顔つきのジョン。


 だからこそ、デヒテラは不安だった。

 直感の正しさを保証するように、彼の片方だけの黒い眼は、まったく笑っていない。


「は、はい。皆さまには良くしていただきましたので」


 それでも、デヒテラは精一杯の愛想で笑い返す。

 一方でルグは、自分が相手に対し、なんと答えたものかわからず、ただ警戒を表に浮かべて強くジョンを見返す。


 そうかそうか、なんて。相槌を打つ青年。この間、彼の表情はまったく変わらない。


 ジョンのかたわらには、むっつりとした十人以上の屈強な兵たち。

 そして明らかに、この場に不相応な、が一人。

 手足を剥き出しにした際どい恰好で立っている。奔放ほんぽうに晒された肌や、ほっそりとした指など、およそ荒事や野良仕事とは縁のなさそうな生白さ。


 デヒテラは、野良仕事に水仕事、あれやこれやで、すっかりかさついた自分の指が少し恥ずかしかった。


 こんな状況でなければ、思わず見惚れるほど、可愛くて綺麗な女の人。


 そして、デヒテラは気付く。、と。

 

 もっとも、それはあくまで造作のみ。雰囲気は、まるで別人。


 クリスの、あの如何いかにも病弱で儚げな様子が、この女の人にはまるでない。


 内に秘める生命の熱。その総量を示すがごとく、肢体したいは健やかで伸びやか。

 髪もろくにくしを入れていないクリスと違って、さらりと流れる金砂のそれ。


 そして、クリスと彼女を隔てる見逃せない点。吊り目がちの大きな翠緑すいりょくの瞳。不思議な瞳。なぜか、


 まるで、ルグが時折捕まえてきた、蛇か蜥蜴とかげみたい、と一瞬想像してしまい、慌てて頭を振って変な考えを戒める。その瞳がいくら物珍しかろうと、少女のたぐいまれなる容姿が損なわれることはない。


 どうして、こんな人がこんな場所にいるのか。覚えず少女をまじまじと見ていたデヒテラは、―――少女が自身に向かって、にぃ、と笑うのを、見た。


 つやのある柔らかな唇の隙間から、ひととき覗いた真白い歯。それは犬歯どころではない異様な尖り方をしていた。ぶるり、とデヒテラの身体が無意識に震えた。


 なぜだろう。眼前にある人型は、さながら泡沫うたかたの夢に舞う妖精のよう。だというのに、―――貪婪どんらんな肉食獣に見詰められているような、あり得ない錯覚に支配された。


「ん? その子、気に入ったか?」


 年頃の娘と少女の無言のやり取り。気付いたジョンが口を挟む。


「―――そういえば、


 美しい娘の応え。デヒテラにはよくわからない。


「おいおい、せっかく報酬代わりにもらった奴隷なんだぞ。そんなに早くさせてたまるか。役に立たなかったら、くれてやってもいいけど。人目に付かないところでやれよ? 俺の隊の人間は、俺も含めてみんな繊細なんだから」


「別に、そこまで欲しいってわけでもないよ、旦那。ちょっとした興味」


「あ、そう」


 なら良いかぁ、なんて言いながら、ジョンは再びデヒテラと―――ルグに視線を戻す。

 それから、村を出てから五日間のことを、ジョンはアレコレとデヒテラに確認してきた。特に答え難いものでもなく、本当に世間話のようなことばかり。デヒテラは、拍子抜けする思いながら、素直に答えていく。


 だが、途中で気づく。ジョンはデヒテラに話かけながらも、ルグのことも仔細しさいに観察している風情だった。当のルグがデヒテラの隣でどんな顔をしているのか、彼女にはわからない。まさか、このと会話しながら、よそ見をするわけにはいかない。


 じっとりとした、不安。どんどんデヒテラの中で大きくなっていく。


 


「―――そうか、トーマスたちがな。いや、いきなりこんないかつい輩ばかりの集団に放り込まれて、怖がっていないかな、って気にはしていたんだ。思ったよりも馴染めているならよかった」


 白々しい芝居気のある口調。外見はあくまで穏やかなのに、身体を虫が這いあがってくるような悪寒が消えない。、なんて言えないデヒテラ。


 そんな折、こちらに近寄ってくる複数の足音を聞いた。


「旦那、連れてきましたぜ」


 低く、重い、年月を積層させたいわおを連想させる声。


「お、グレゴリ。ご苦労さん」


 軽佻けいちょうにして浮薄ふはく、およそ威厳というものとは無縁の声をジョンが返す。

 

 現れた新たな人物を見て、デヒテラの顔が強張る。


 禿頭とくとうの巨漢。縦にも横にも大きい、荒く削りだした木石を思わせる隆々たる筋骨を備えた体躯たいく。それは、もちろんあの巨人のような常軌じょうきを逸した規模のものではない。あくまで人の範疇はんちゅうに収まる程度のもの。


 だが、むしろ、だからこそか。


 生々しい圧迫感が、幼い子どもの小さな身体をさらに縮こまらせた。

 おびえた様子のデヒテラをちらりと見て、すぐに眼を逸らす。その容貌には、獣のような獰猛どうもうさより、年経た石像のような威厳が色濃い。


 その後ろから続いてきたのは、縄打たれ、猿轡さるぐつわを噛まされ、ふたりの兵に半ば引き摺られるようにしながら連れられた青年。あちこちがほつれた粗末の服を着て、血や土に汚れてはいるものの、その容姿は中々に見目が好い。


 ところどころに見える、手当もないあざや傷にデヒテラの心が痛んだ。


「ああ、そんなに悲しそうな顔をしなくても良い、―—―


 デヒテラとルグの表情が凍り付く。


「あの日は、たまたま根城を留守にしていたらしくてな。結果的に生き残っていたみたいだ」


 だから、同情なんて必要ない、とジョンは気軽に事情を話した。そして。


「ええっと、デヒテラって言ったっけ? 女の子の方」


「は、はい」


 いまさらな確認に、デヒテラは戸惑いつつも素直に肯定する。


 うん、とジョンは一つ頷いて。


「お前に初仕事をやろう―――

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る