第025話 仮初めの庇護(3)

 欠伸あくびをひとつ。


 大狼は、閉じていた瞳を開く。炎のような、血のような、真っ赤な瞳。悠々とした動作で小さな者たちを見る。


 反射的に身を竦めるデヒテラ。それをかばってルグが前に進み出た。「ちょ、ルグちゃん」慌てたデヒテラは、さらに彼をかばうべく前に出る。「姉ちゃん、危ないって」さらにその前に出ようとするルグ。


 幼い姉弟が互いをかばいあって、くるくると体を入れ替え続ける。くるくる、くるくる。


 黒狼は、眼前で繰り広げられる幼い姉弟の珍騒動をどのように捉えたのか、理と知を備えた静かな瞳を眇め、――ふ、と笑った。


 笑った。そう、犬面ながら笑った、と明確に判断できた。


 なんというか、子どもたちは、毒気を抜かれた。


 よくよく考えてみれば、さきにあの怪物からも守ってもらったのだ。その威容に怯えてしまっていたが、こちらに味方してくれる可能性も考えられないではなかった。


「あのときは、ありがとうございました」


 ぺこりとルグが頭を下げた。デヒテラはまだ顔が青いままであったが、「ありがとうございます」同じく頭を下げる。続けてルグが。


「そこを、通してもらえませんか?」


 獣に話が通じるはずもない。けれどこの大狼には、当たり前の道理を超越させるだけの知性を感じた。


 果たして、狼はというと、小さく嘆息じみたものをもらした後、ゆっくりと頭を左右に振る。、ということだろう。


「あなた、ええと、あなたも傭兵の一員なんですか?」


 続く質問に、狼はやや考える素振りを見せた。そして、いかにも何か含むところがある様子ではあったものの、頷く。


 ルグが、身を硬くした。


 一方でデヒテラは言葉が通じる様子にいくらか勇気づけられたらしい。思い切ったように口を開く。


「お願いです。ルグちゃん、この子だけでも逃がしてもらえないでしょうか」


 これには、狼は特に考えることもなく首を振る。


「だめだよ。姉ちゃん。ふたりで逃げないと、意味ない」


「そんなことないよ。ルグちゃんは巻き込まれただけなんだから、皆のところに戻らないと」


「それこそ無理だよ。俺、ここの隊長さんを殺そうとした」


「―――それは」


「そんなことしたら、村に仕返しされるだろうってわかってたけど、あの場で姉ちゃんを連れて逃げるためには、そうやってあいつらがびっくりしてる間にやるしかないと思った。俺は、村の皆に見捨てられたんじゃなくて、


 ルグは、淡々と自らの凶行を省みる。そこに後悔の色はない。自身の。ただ失敗した。その苦さがあるのみ。


「もともと俺はだし、前はお義母さんがいたから、あんまり言う人いなかったけど、迷惑がられてるのはわかってる」


 もとよりみ者とされる要因がある上、あわや村を壊滅させかけたという実績がついたのだ。同情的な者もいるだろうが、おそらくそうでない者の方が多い。子どもといえど、容赦はされないと見ていい。


 殺されはしなくとも、戻ったところで追放されるか、別の人買いでも売り飛ばされるか。その程度が関の山。


 そも、村の大人がデヒテラを売り渡すという決定をしたときから、ルグもまた彼らとの決別を決定している。


 自分ひとりだけの身の上は重要ではない。


 だから、さしあたっては、どうやってデヒテラとふたりで傭兵たちの元から逃げるかだ。ただ、さらにその先にも問題はある。


 この乱れた世相、義姉と子どもふたり、容易く生きていけると考えるほどルグは楽観的ではない。だからこそ父を失ったとき、ルグは疎まれると知っていても、山から降りて村に厄介になったのだ。


 優しく受け入れてくれた、義母は、もういない。何も、返せないままに。だから、せめて、お姉ちゃんだけは。


 つと、ルグが視線を黒狼に戻す。

 

 彼は、泰然たいぜんと揺ぎないまま、ルグとデヒテラを見ている。


 味方にはなってもらえないだろうか、と思う。けれど、先の問答の様子を見るにその可能性はほぼない。彼も現状は、越えるべき障害のひとつ。


 ぐるりと周囲を見渡す。がたごと、がたごと、揺れる馬車。


 出入口である両開きの扉は、黒狼の奥にあった。扉には、動物の角を磨いて加工した半透明の板が採光用の窓枠に取り付けられていて、室内に明かりを提供していた。


 自身の身体の状況は既に把握できている。多少の痛みがあるくらいで動くことに支障はない。脅威までの距離を測る。拳は握らず、だらりと垂らす。


 黒狼はというと、小さい者のきざしに――立ち上がった。


 圧倒的な体躯。ただ立つ。たったそれだけで、幼い二人とっては、見えない圧力が何倍にも増したかのようで。実際、この黒狼が貨物室の空間の半分近くを占めていることを思えば、けして気のせいとも言えないだろう。


 呼吸ひとつが命取りになる重く濃密な緊張。黒狼が、前脚を一歩、前に踏み出そうとして、――機先を制して、ルグが左拳を握りしめる。その鼻面に殴りかかろうとして。


「うおっ」


 いきなり視界すべてを覆い尽くした。。伸び上がった狼の腹。

 

 認識はできても、反応を許さない迅雷の速度。黒狼が覆い被さってきた。


「うぎゃっ」


 圧される。潰される。重い。とても重い。


「うわっ、どけよっ、このっ」


 狼の腹の下でずりずりとい回り、顔を外に出して、何とか呼吸を確保したルグ。だか、そこまで。


 黒狼が少年にかける体重を調整しているのか、ルグは頭だけを出したところで完全に動きを止められてしまう。


 顔を真っ赤にして、うんうん唸りながら、動こうとする。びくともしない。


「えー、と」


 デヒテラと言えば、眼前の光景をどう評価したものか迷っていた。


 黒狼がルグに飛びかかった瞬間には、恐怖しかなかったが、――彼は腹の下に少年を押し込めた後、なにやら再び目を閉じていた。


 どう考えても、こちらに害意があるようには思えない。


 むしろ、くそっ、どけー、はなせー、といまだ腹の下でもぞもぞしながら、喚き続ける聞き分けのない子供の面倒を見ている風情すらある。


 どうしよう、これ。


 さきほどまでの生死の境界を現す危機感が霧散。


 何とも言えない、生暖かい雰囲気が周囲に満ちるのを感じた。なんというか、


「ふぎー、このー、どけー、はーなーせー」


 ルグが再び喚き出す。多分、じたばたと暴れてもいるのだろうが、頭以外が黒狼の下にすっぽりと収まっているため、まったくわからない。


 不意に、黒狼が目を開け、デヒテラを静かな眼差しで見やる。一瞬だけ、びくりとしたデヒテラ。黒狼が自らの腹の下にいるルグと、デヒテラとの間で何度か視線を行きつ戻りつする。そうして、最後にデヒテラに視線を固定。


 デヒテラは、その意図するところ、何とはなしに察した。

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