第024話 仮初めの庇護(2)

 尋常の領域を超えた体躯たいくを誇る肉食獣。黒い狼。バーゲスト、そう呼称される怪物。


 かの狼は、かたかたと震えるデヒテラにも、いまだ意識が戻らないルグにも関心がないのか――をしているのか――床にゆったりと巨体を横たえ、ただ目を閉じていた。


 傭兵たちに連れ去られ、ルグと共に馬車に放り込まれたデヒテラだったが、まさかその後にこの黒い狼が車中に入ってくるとは思わなかった。


 さきの短い逃避行の折、あのから。少なくとも、そう見えた獣。しかし、だからと言って、この大きさの肉食獣が側近くにある状況、平静でいられる人間などそうはいない。


 庇ってくれたのも単なる気まぐれで、今度は同じような気まぐれでデヒテラの頭をと来るかもしれない。いや意識のないルグだって、どうなるか。


 もはや自らは逃げる意志を失ったデヒテラ。しかし、ルグのことは諦めるわけにはいかない。


 意識のないルグの体を床に寝そべらせ、小さな頭を自らの膝の上に乗せて考える。


 自分たちは、これからどうなってしまうのか?


 いや、そもそもいまこの瞬間にだって、この狼の気まぐれで食べられてしまうのではないか?


 怖気を振るう想像は、いくらでも湧いてくる。デヒテラの震えは止まらない。


 ただ、いまは共に連れ去られてしまった弟のような男の子、彼の温度が、彼女の心を守ると同時に奮い立たせる。恐慌に陥ることを思いとどまらせていた。


「ぅ、……ん……」


 むずがる乳児のような唸り。ルグがうっすらと目を開け始めた。


「ル、ルグちゃん、大丈夫?」


 慌てて、ルグの顔を覗き込むデヒテラ。何せ、あのジョンという傭兵に蹴飛ばされ、首まで締められたのだ。ろくな手当も出来ず、ただ安静にさせただけだが、骨折などの重傷を負った可能性も否定できない。


 自分のため、命をかけてくれた弟に何もできない自分自身の不甲斐ふがいなさに、泣きそうになる。


「んー」


 ようやく意識がはっきりしてきたルグ。見たのは、可愛い義姉の泣き出しそうな顔。


 それを見て、かちり、と意識が切り替わった。生死をさまよう扼頸やくけい。最中に見た醜悪な笑顔。勢い良く身を起こす。


「姉ちゃん、大丈夫? 怪我してない? あれからどうなった――」


 問いかけの途中で、固まる。同じ空間に存在したもの。圧倒的な格差。ただ在るだけで幼い身が竦む。


 それは悠然ゆうぜんと寝そべっているだけ。敵意など、まるで感じない。荒ぶる様子など、まるでない。なのに、本能が明確な死の脅威に叫び続けている。


 ルグには、あれからどうなったのか、わからない。けれど、連れ去られてしまったのだと、容易に想像できる。


 、という点については、。しかし、これからのことを考えれば楽観などとてもできない。


 逃げるためには、まずこの怪物を何とか出し抜かないといけない。そして、仮にそれが叶ったとして、他にもどれだけの脅威が外にいるのか。


 とめどなく冷や汗が湧き上がる。


 思考を回転させる、ぐるぐる、ぐるぐる、と。


「ルグちゃん、ルグちゃん、お願い、危ないことはやめて、お願いだから。それより、自分を心配して。お腹とか首とか、痛くない? 大丈夫? 大丈夫?」


 ルグが、ことを察してデヒテラは彼を抱き締める。


「大丈夫。―――大丈夫? あれ、あんま痛くない?」


 デヒテラに指摘されるまで、ほとんど忘れていたのか。蹴られた脇腹やら、締められた首やら。あの時に感じた致命的な予感に反して、どうしたことか、さしたる痛みを残していなかった。


「本当に? 本当? 大丈夫なの? 無理、してない」


「うん、なんでだろ?」


 疑問ではある。だが、もとより異常な生まれの身体、ルグ自身にもよくわかっていない。まれた異形の形質、鱗がそこかしこに生えた左半身のみに限定するなら、既に成人男性を超える力が出せる。


 いままで大怪我には縁のなかったルグだが、ひょっとすると怪我の治りも常人より早いのかもしれなかった。けれど、いまそれについて検証する暇はない。いま切実なのは――。


「どうやって逃げるか」


 呟くルグ。


 企みに呼応するように、くあ、と音を立て、黒狼が大口を開けた。

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