第21話 弱者の生き方/無価値な抵抗(5)

「いや、無理だと思うぞ」


 ルグのすぐ傍ら、小柄な、けれど子どものルグにしてみれば十分に大きな青年が。

 傷跡だらけの顔にある、たったひとつの眼球でルグを見下ろしていた。


「なあ、ここは、素直にお姉さんの言うことを聞くべきじゃないか?」


 なんて、並走しながら、もっともらしい表情でひとり頷いている。


「なんで、――殺したはず」


「さあ、なんでだろうな?」


 青年は惚けた風に、笑う。そうして見ると、傷跡は酷いものだが、顔立ちそのものは整っていて、穏やかにすら見えた。


 少年は、で地を蹴る。ルグの異形は、。表皮に白い鱗がまばらに生えた、肉の内側はもっと違うはずの、忌まれた身体。


 けれど、いまこのときにおいては、与えられた呪いギフトだけがすがることのできる唯一。


 脚力は、既にいまの時点で成人男性のそれを凌駕りょうがしていた。一足飛びに、青年から距離を取って、――デヒテラを下ろす。


 反転、今度は勢い良く、青年へ向かって突撃。伸び上がるように、


 大きく見えた敵の身体、目線が等高に至る。生死が懸かった刹那、幼い身体は限界を振り切って埒外の速度を達成した。


 大きく隻眼を見開いた傭兵。


 握りしめた拳が、間抜けな顔面に突き刺さる、その刹那、――意識の隙間に滑り込むように、敵は一歩を踏み出していた。間合いの内側に潜られ、拳は呆気なく空を切る。流れる小さな身体。少年の左腕が無造作に掴まれた。


 「っ!」


 ままに腕を引かれて、空を泳がされる。最中、肩の内部で確かに聞こえた、湿って鈍い悲鳴みたいな痛覚。外れてはいけない、何か。抜けてはいけない、何か。なのに、すっぽ抜けるみたいな気安さで、関節の接続が不連続に。

 

 ぐるりと世界が回る。そして、――弾ける衝撃。ちかちかと明滅する視界。


 ルグという意識が砕けて散逸さんいつし、いま何をしているのかすら曖昧あいまいになる。


 ただ、本能は、現在の危機と、いま何もできないことへの恐怖に叫喚きょうかんしていた。


 ばらばらに拡散しかけていた意識。少年は、本能に導かれるまま、強引に手繰り寄せる。


 だから、自身は背中から勢いよく地面に叩きつけられたのだと、そう理解することができた。


 けれど、現状把握に数瞬を要したのは、まさしく致命。


「よっと」


 左の脇腹が破裂した。


 そう錯覚するほど、突き刺さった傭兵の爪先の勢いは容赦がない。跳ねてから、ごろごろと転がり、ルグの小さな身体は木の幹に激突して止まる。


「ルグちゃんっ」


 悲鳴を上げて、少年に駆け寄ろうとするデヒテラだったが、――同じく、気負いのない足取りでぐったりとしたルグに近づこうとしている傭兵の存在に顔を引きらせた。


 少女は、慌てて傭兵の前に回り込み、そのまま地に伏して懇願こんがんする。


「や、やめて、やめてください、やめて、お願いしますお願いします、やめて」


 傭兵は、そんな哀れな少女をじっと見下ろした。


 義弟を守ろうとする姉の必死の願いに心を打たれた、――まさかそんな安い事情ではない。


 視線は、先の品定めともまた違う。いまそこに在ったのは、単なるを定める無機質ではなくて、もっと何か、生々しいおぞましさが蜷局とぐろを巻いている。


「――それで、お嬢さんは抵抗しないのか?」


 そこで転がっている少年のように、と。小首を傾げ、見詰めてくる。


「もう逃げたりしません、我がままも言いません、どんなことでもします、、ですから、ですから――、旦那様、旦那様、どうか、どうか、その子は許してください、お願いします、お願いします」


 涙ながらに、声を震わせ、慈悲を訴えるデヒテラ。


 少年のように、凶器と害意を帯びている風情はない。隠し持っているわけでもないだろう。


 少女は、ただただ請い願う。哀れに請えば、縮こまっていれば、嵐は過ぎるのだとでもいうかのように。


 いたいけな姿に、笑う。


「ああ、そんなにかしこまらなくても良いんだよ。――さっきのアレは、そう、をした子どもへのお仕置きだ。何せ、こっちは、わけだから。少しぐらい痛い目にわせて、反省させないと、あの子のためにもならないだろう? 」


 まるで悪意を感じさせない物言い。だが、その言葉をそのまま信じるには、隻眼の奥に粘つく光が不穏に過ぎた。


「さて、あの子が本当に反省したかどうか、確認してみようかな」


 うずくまったルグの元に向かう傭兵。


「待ってください、待ってください、お願いします、許してください、あの子には私からちゃんと言い聞かせますから、お願い、待ってください、待って――」


 とうとう足にしがみ付き、必死に止めようとするデヒテラ。だが、土台、青年男性を十かそこらの少女の力で止められるはずもない。


 ずるずると、デヒテラを引きずりながら、傭兵は気にした素振りもなく歩みを進める。


 先に広場で行われた凄惨せいさんなる処刑。その過程をデヒテラは見ていない。


 だが、傭兵たちへの報酬として、あの広場に連れてこられた時点で、結果は、ちらりと見てしまった。


 あれを、あんなことを平然と出来る者たちが、自分を殺そうとした者にどのような暴虐を加えるのか、デヒテラには、想像もつかない。


 ただ、酷く良くないことが起きる。途轍とてつもなく悪いことが起きる。


 そんな確信だけがあって。無駄とは知りながらも、弟のような少年を守るため、懸命に懇願こんがんする。


「許してください、許してください、待ってください、許して――」


「おっ」


 ジョンの軽い驚き。ルグが立ち上がっていた。


 ただ、身体がひどく痛むのか、その足元は頼りない。さらには肩が脱臼と思しき左腕、だらりと垂れて動く様子がない。


 引きるような足取りで、傭兵に近づいてくる。


「ねえちゃん、から、はな、れろ」


「なかなか根性あるな、男の子」


 傭兵は、感心したように呟く。


 ままにルグに近づいて、少年の敢闘かんとうを称えるように、目線が合うところまで屈み込もうとして。


 ――瞬間、少年がばね仕掛けのように跳ねた。


 右手に隠し持っていたのは、尖った石。傭兵の側頭を殴りつけようとして、――再び、呆気なく腕を掴まれる。


 傭兵は、逆の腕で少年の細い喉首のどくびを掴み、――そのまま持ち上げた。


 関節の外れた左腕は、ろくに動かすこと能わず。いまも右腕は拘束されている。


 足をばたつかせて、必死に抵抗を続けるルグ。しかし、ぎりぎりと首に指が食い込み、呼吸も血流も妨げられていく。少年の顔は、次第に赤黒く染まっていって。


「はぁ、なぁ、せぇ、」


「やめてやめてやめてやめてっ、やめてぇー!!」


 少年の苦鳴も、少女の嘆願も一顧だにせず、傭兵は少年の首を絞め続けた。


「はは」


 ジョンはわらった。


「お前たち、良いなあ」


 先ほどまでの薄っぺらい作り笑いではなかった。


 それは、見下ろす傲慢ごうまんそびえ立つ自尊、無邪気な暴虐――そんな、あらゆるの相とは無縁だった。


 ただ、致命的に、卑しく、惨めで、病んでいた。


 地をう貧者が、天の恵みに憩う富者を睨め上げるかのような。


 状況も道理もまったく顛倒てんとうした異常。笑みと呼ぶには、あまりに陰惨な引きり。


 ルグは、血流の阻害によって意識が消失する瞬間まで、憎悪すべき男の、その醜悪なるかおを見続けていた。


 ―—ずっとずっと、後になって。


 ルグは、その笑顔を思い出すことになる。何度も何度も。


 その笑顔の意味を知ることも、考えることもなかった、かつての自分とともに。


 もし、もしも、その笑顔が示す物が何であったのかを、もっとずっと早く知ることが出来ていたのなら、――あるいは、別の結末もあったのかもしれないと。

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