第020話 弱者の生き方/無価値な抵抗(4)

 少年は、無駄口なく、デヒテラに寄り、――


 「ちょ、ちょっと、る、ルグちゃん、え、え――」


 混乱するデヒテラ。ルグは構わず、駆け出した。


 十かそこらの痩せて飢えた子ども、しかも自身と同等の人体おもさを抱えた状態とは思えない驚異的な速度。


 み子とされた獣の相、


 村長や、他の村人たちは、まずジョンを介抱すべきか、ルグとデヒテラを捕らえるべきか、咄嗟とっさの判断に迷って硬直。


 ――構わず、ルグは一目散に走る。いまは、刹那せつなを争う。そう理解して。


 この村に唯一残された駄馬のつながれた厩舎きゅうしゃへ向かう。

 

 走る。走る。ひた走る。


 追ってくる者もないままに、粗末な作りの厩舎きゅうしゃが見えてきた。


 あと、せいぜいがところ、子供の足でも三十歩、そういう距離まで迫っている。


 だが、心の片隅でチリチリと鳴り響く警告。

 

 なぜ、誰も追ってこない?


 いくら突然の事態といえ、ここまで上手く事が運ぶだろうか?


 その不安きたいに応えるように。絶望は、きっと子どもをこそ逃がさない。


 ルグの背後、得体の知れない敵意が空を泳ぐ。そのまま、小さいな背丈を飛び越えて。

 

 行く手をさえぎるように、墜ちてきた


 「――」「――」


 ルグとデヒテラの頭が真っ白に染まる。恐怖を恐怖と実感することすらできない。

 

 幼い命の活動は、凍りついたように強制停止を余儀なくされる。

 

 理解を隔絶かくぜつした怪物があった。

 

 昆虫と鳥類と爬虫類を混ぜて、真白い骨で鎧ったような、まるで出鱈目でたらめな生命体。


 突出した大きな顎からは、まるで噛み合っていない乱杭歯らんぐいば放埓ほうらつに生えている。


 昆虫か、はたまた鳥の肢を思わせる手足、酷く細くて、左右で長さも関節の数も異なる。そのくせ、手足の末端に備わった凶悪で長大な鉤爪。


 瞳孔が縦に割けた、真ん丸な翠緑すいりょくの眼球。ぎょろりと凄絶せいぜつな憎悪に濡れて、少年を射抜いていた。


 この時点で、少年は自身の死を覚悟した。


 これは駄目だった。無理だった。不可能だった。どうやったって生き残れない。逃げられない。


 大人だってどうにもできない。これは、そもそも遭遇そうぐうした時点で終わる、おとぎばなしの不条理かいぶつ


 騎士にあらぬ、騎士の助けの無い少年は、犠牲者となる他、道はない。


 だから、あとは、義姉をどうにかして逃がすことだけを考えなければ。


 少年を駆り立てるのは、賊に襲撃された日、隠れていた地下で震えながら聞いた義母おかあさんの苦鳴。


 


 無力から喪った痛み、悲しみ、憎しみ、―—そして飢え。あらゆるさいなみみが彼の頭蓋の内、さらに最奥にある器官を熱狂させ、破滅へと駆り立てている。

 

 決意というには、あまりにいびつな脅迫観念が煮えたぎっていた。


『おい』


 怪物の呼びかけは意外にも澄んでいた。声を掛けられた。声を掛けてきた。眼前の怪物には、知性があるということか。いや、そもそも。


『どういうつもりだ、


 怪物の眼がルグから、さらに背後に移っていた。


 少年が振り返ると、そこにはあったのは、―――馬鹿馬鹿しいほどに悠大ゆうだい体躯たいくをした漆黒の狼が一つ。


 鈍重な様はない。かつて森で見たどんな肉食獣よりも洗練され、研ぎ澄まされた造形美。


 静かに、それこそルグが振り返るまで気付かないほど、ごく自然にたたずむ様は、もう一方の悪夢じみた支離滅裂とは対照的。


 炎のように赤い瞳。その理性の光が向かう先は、少年少女―――ではなく、それを挟んだ先にある破綻した生き物。


 すっ、と小さきをかばうように前に進み出る。


『そこ、どけ、でないと、てめえから、喰い殺す』


 弾ける寸前の激情、言葉を切れ切れにしていた。


 黒狼は応えない。ただ黙して、たたずむのみ。あるいは、その瞳で何かを語っているのかも知れないが。

 

 ぱし、と軽い衝撃。ルグの頬が狼の尻尾に叩かれる。


 弾かれたように、ルグが再びデヒテラを抱えて、駆け出す。


『逃げんなぁぁぁ!! 糞餓鬼ぃーーー!!』


 空を裂く怒号が小さな全身を震わせる。


 恐怖が背骨に突き刺さり、心臓をえぐる。中心から末端まで行き渡る死の手触り。


 暴走する生への渇望かつぼう。限界を超えて、足を稼働させる。

 死、そのものである狂気の脅威から、けっして振り返らずに遠ざかる。


 すぐに人里の境界をまたぐ。人ならざる者たちの領域。森の中へと入り込んでいく。余人ならばあっという間に方向を見失い、迷い人となる、暗く深い生命の巣窟そうくつ


 けれど、ルグは狩人の子。森もまた彼にとっては、生活の一部。ましてこの一帯は、彼にとっては庭も同然。


 ここに逃げ込めば、たとえ大人であっても、兵隊であってもそう易々とルグを発見することは難しいはず。


 だが、そんな幼い心算は、先の化け物のおぞましさに吹き飛ばされている。


 あれは別だ。


 人ならともかく、あんなワケのわからない怪物が、たかだか森に紛れたくらいでこちらを見つけられないなんて楽観、とてもできない。


 とにかくあれから遠ざかりたい、その一心でデヒテラを抱えながら走る。


「ルグちゃん。やっぱり駄目だよ。戻らないと、みんなが、みんなが、――」


 、とそこまでは言葉にはならず。


 けれど、ルグは分かっていながら、いやだ、と駄々をねるように走り続ける。

 だって、


 「駄目だよ、きっと逃げられない」

 

 「逃げるんだよ」

 

 「


 ぎょっと、ルグの、強迫にかれた瞳が見開かれる。


 ルグのすぐ傍ら、小柄な、けれど子どものルグにしてみれば、十分に大きな青年が。

 

 傷跡だらけの顔にある、たった一つの眼球でルグを見下ろしていた。

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