第19話 弱者の生き方/無価値な抵抗(3)
「姉ちゃん!!」
幼子の、叫び。
たたた、と駆けてくるのは、デヒテラとそう年の変わらない少年。顔色が悪く、ひどく痩せてはいた。
しかし、こちらもよくよく見れば、栗毛に鳶色の瞳を持った非情に愛らしい容姿をした男の子。
いまは、なぜか、あちこちに擦り傷を作り、髪も乱れ放題、粗末な服にも藁やら何やらをまとわりつかせている。左肩には、何やら、がちゃがちゃと音を立てる素朴な
「ル、ルグちゃん」「ル、ルグ」
村長と、デヒテラのやけに動揺した声。
小さな
デヒテラを唯一の財産といった割には、この少年もなかなか捨てたものではない。
さては、また出し惜しんだな、と村長を咎めようとして。
ふと、少年の首筋、そして服の袖口から覗く左手に在り得ざるもの、爬虫類の鱗じみた組織があることに気付く。
得心がいく。
時折生まれる異形の
いくら見てくれが良くても、これでは売り物にならないと判断されたか。
デヒテラを連れてきた中年女が慌てて、男の子を制しようとする。
「これ! ルグ、あんた! どうやってあそこから出てきた―—―、じゃなくて、いまは大事な話の最中なんだ! 出てくるんじゃ―――」
「いえ、いいんですよ」
ジョンが年増女の
見た目、まるで威圧感のない傭兵隊長。けれど、その隻眼の不気味に女が黙り込む。
「村の一員は一族も同然。その行く末を想うのに大人も子どももない。そういうものでしょう。その子にだって、お姉さん? の
「ええ、その、この子は」
なんといったものか、と言い淀む村長。
息を切らせた男の子は「ルグといいます。親を亡くしてから、デヒテラ姉ちゃんのお家でお世話になっていました」端的に自身の素性と、どうしてこの場に割って入ったのか、その事情をまとめて答えた。
なるほど黙っていられないのも無理からぬこと。きちんと人の
ジョンは、ふと何かに気付いたように顎に手をやって、―—それからにこやかに笑う。
「なるほど。坊や、いやルグ。こうして怖いおじさんたちがたくさんいる中、よくやって来た。君は、とても勇気がある。素晴らしい」
「え、ええ? あ、ありがとうございます?」
暴行を受けるくらい当然。そう覚悟して乱入したにも関わらず、急に
「だけど、ちょっと早とちりだな、君は。俺たちがお姉さんを連れ去って酷い目に
嘘だ。
ルグは直感した。それは周囲の大人たちも、デヒテラも同様だった。
この傭兵隊長は、明確に嘘と分かる嘘を吐いている。
そして、誰にでも分かる態度で示している。一見して、にこやかな表情の中には、相手を小馬鹿にしたような成分が結構な割合で含まれていた。
未だかつてこれほど不誠実な態度をルグは見たことがない。
あるいは、あらかじめ嘘と分かるようにしている態度は、一周回って誠実と言えるのかも知れないが。しかし、重要なのはそんな言葉遊びではなくて。
彼らが、義姉を連れていく気で、そしてそれが彼女の不幸に
肩にかけた
「―—お願いです。お姉ちゃんを連れて行かないでください」
「困ったな。俺が信用できないと」
震えながら、地に頭を擦りつけるようにして、懇願する幼子。
ジョンは作り物ではない、本当の笑いを
「村長殿、ルグはこう言っていますが、どうでしょう? 俺たちを信用できませんか? こんな幼いデヒテラを不幸にする、そんな心無い
どうしろというのだろう。村長は泣き笑いのような表情で固まった。
こんな幼い子どもの抗弁、無視してしまえばいいではないか。なのに、この傭兵隊長は、あえてルグの我が
要は身売りなのだ、不幸以外の結末はあり得るはずがない。
そういう本心を告げろとでも。それとも、――自らの、村の命脈のために子どもの前で、子どもすら騙せない、子どもを犠牲にする嘘をつけとでも。
村長は
「ルグ、見てのとおりジョン殿たちはとてもお強い。あの賊どもを簡単に始末できるくらいにだ」
周囲にいる武装した屈強な傭兵たちを見る。震えながら、小山のような巨人を仰ぎ見る。
「そして、とても裕福だ。ジョン殿の仕立ての良い服や、兵の方々の立派な武具や大きな身体を見なさい。比べて私たちはどうだろうか、日々食べるものにすら心配をしなければならない」
村長の言うとおり、村人たちはずいぶんと
例外は、デヒテラだけだった。
デヒテラが痩せた風はなく、健康体であったのは、どういう意味での配慮であったのか。
どういう思いで村人たちは、親を喪ったデヒテラに食事を与えていたのか。どういう思いでデヒテラは、食事を摂っていたのか。
「ジョン殿たちに連れていってもらえれば、この村でこれからも過ごすよりは、安全にひもじい思いをせずに生きて行ける、そうは思わないだろうか」
村長の顔は、どうしようもなく引き攣っていた。彼は、けして悪人ではない。きっと善良とすら言って良い。
ただ、力がないだけだ。そして、村の長とし、共同体を存続させる義務と責任があるだけだ。
「皆を困らせてはいけない。デヒテラのことを思うなら聞き分けなさい」
ルグが伏せた小さな身体を震わせる。あらん限りの力で握りしめた拳から血がわずかに滴った。声はない。そろりと地面から頭を離す。
首を傾けて、村長の、大人の顔をわずかに見た。ルグの眼は妙に据わっていた。とはいえ、それも一瞬のこと。すぐに視線は逸らされる。
男の子は、
「全部あげます。だから、お姉ちゃんを連れていかないでください」
頼りにならない大人にもはや
とはいえ、わずかばかりでも価値がありそうなのは、包丁や短刀といった金物くらいか。あとは、ほぼ見るべき価値もないガラクタばかり―――いや、ひとつだけ、ジョンがおや、と目を
木材と金具そして動物の腱などで造られた機巧細工、こんな場所でお目にかかるのは珍しい器物。
状態も悪くなく、丁寧に手入れされていたことがわかる。
ジョンが興味を抱いたのがわかったのか、ルグが妙に淡々と続ける。
「狩人だった父の形見です」
「なるほど、お父さんの、な」
得心し、頷く。多くは人殺しに使われる道具だが、もちろん獣を狩るのにも使える。板金すら貫く威力を持った弩は、特に大型の獣を狩るのに重宝されるのだとか。
確かにこれは、そこそこの値が付くもの。
ただ、ジョンの隊では必要数備えているし、たかだか
そういう計算を知ってか知らずか、ルグはジョンが唯一関心を示した
「大きな獣を狩るのに使えます」
「そうか、それはよかった。大事な形見だ。大切にするといい」
「足りませんか」
「ああ、足りない――それはそうとして、ひとつ確認していいか?」
「はい」
「どうして、それは矢を装填しているんだ」
ルグの眼は妙に据わっていた。応えはなく、ただ、ジョンへと向けられた
風切る音は、すみやかに。
ジョンが弾かれたように仰け反って、――そのまま倒れた。動かない。
最前まで、圧倒的優位に立って村人たちを
少年の手には、いままさに番えた太矢を放ったばかりの弩。
その因果を、村人たちは理解できない。理解したくない。
子どもによる、あまりに
場に空白が生まれる。
だから、この場で一番行動が早かったのは、空白をもたらしたルグ本人。無駄口なく、デヒテラに寄り、――その身体を横抱きに抱え上げた。
「ちょ、ちょっと、る、ルグちゃん、え、え――」
混乱するデヒテラ。
少年は構わず、駆け出した。
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