第011話 裁く獣、裁かれる獣(11)

 ただひとつ、吐息のように――、と。


 ジョンには解析できない万感ばんかんらして。


 それきり、もう女は口を動かすことはなかった。まだ死んではいなかったが、もう自発的に動くことは叶わないのだろう。


 あとは、もうただのに変わるのを待つばかり。


 さて、この女がどんな意図でもって、己にを申し出たのか、ジョンは素朴な疑問を感じるところではあったが、重要なのはそこではない。


 ただ、この女の娘ならかもしれない。ジョンの中の利害を測る機能がそう判定を下した。


「では約束しよう。貴女の願いに、可能な限り沿うように取り計らう。そのように努力すると。――ただ、だからと言って娘さんの幸福を約束することはできない。なにせ世は、どんな理不尽もまかり通るところだ。貴女も、終わった後で王の御許みもとで、ゆっくりと娘さんの先行きを願っているといい。貴女の娘のこれからには、苦しみもあるだろう、悲しみもあるだろう、怒りもあるだろう、憎しみもあるだろう、まあ、もしかしたら数少ないながら幸せもあるかも知れない。ただ幸と不幸のどっちが多いかなんてことで気をんでも仕方ない。僧たちに言わせれば、仮にどんな辛酸しんさんめたとしても、この世すべての痛みには何らかの意味があるんだそうだ。そう、王がお定めになった。王から与えられた祝福に他ならないのだとか。どんな苦痛も、どんな苦悩も、どんな悲哀ひあいにも、――、ととっ、あ、もしかして、もう聞いてない?」


 ぶつぶつと、急に何かかれたように執拗しつような呟きを漏らすジョン。しかし、途中で話し相手が事切れたことに気づき、どことなくばつの悪そうな表情を作った。


「さて、って、どうしようかなー?」


 改めて、ひとりになったジョン。目の前の惨状。たったいま死体になった女とそれ以外の腐乱してくずれた人体。辺りにぶちまけられた猛烈な肉の腐敗臭。


 ジョンにとっては見慣れてぎ慣れたもの。


 けれど、常識的な感覚を持った者なら、またたきの間も我慢ならないだろう。


 特に臭気は、鼻のみならず、体全体を刺す強烈な刺激そのもの。


 かの盗賊たちは、部屋のお手入れには無関心か、あるいは怠惰たいだな性質だったのか。いずれにしてもお粗末に過ぎた。


 もしかしたら、監禁した者が死んだことに気付かず、腐敗し出してしまって、――でも、腐敗した死体を片付けるのは、面倒で、とてもとても面倒で、……、最終的にはこんな状態になったのかも知れない。


「死体くらい山の中に捨ててくればいいのに。疫病えきびょうでも流行ったらどうするんだ?」


 そう考えれば、あの盗賊たちはジョンの一党が討伐に来るまでもなく、自滅していた可能性がある。


 ただ、ジョンにとってみれば、この討伐は稼ぎのようなもの。である以上、彼らの諸々の行いを別段、非難するつもりはない。


 需要があるから、供給が成り立つのが世の常。雇用安定のためには、ジョンたちが介入し易い暴力沙汰が世に適度に提供されていることが望ましい。


 だから、盗賊のような無軌道な暴力を振るう者たちは、ジョンたちにとっては有難い存在。


 所詮しょせんは同じ穴のむじな。我と彼は、共に力の信望者。その暴威の向かう先に指向性が有るか無いか、その程度の違いしかない。


「このまま運び出すのは、ちょっとなぁー。なんか、やばい病気でも持ってたら嫌だし、ここはやっぱりバーゲストにでも――ん?  気が効くな、命令する前から来るなんて」


 音もなく、暗い闇よりなお黒い、つやめいた毛並みの大狼が階段の前にいた。


「ははは、お前の鼻なら、上にいてもこの状況はわかったか?  しかし、よく我慢できるな。うん、そう不満そうな顔をするなよ」


 顔をしかめる黒狼。ジョンの放言を無視して牢屋に歩み寄る。


 その獣の眼にあったのは、――いかなる感情か。瞳に無惨を焼き付けた後、緩やかにまぶたを閉じた。黙してたたずむその様は、何か祈るようで。彼は果たして一体、何にどんなことを乞い願うのだろう?


 黙した時間は長くない。狼は瞳を開く。


 変わらず映るのは、人々の苦しみの果て。ちらりと視線を変えれば、それをごく在り来りのものとして捉えた、ある傷跡だらけの男の顔。


「やってくれ」


 軽い声。


 応じるように、黒狼の口腔から輝かしく眩しい光が、――否、白い炎が放たれる。


 白炎は、木製の格子を一切焼くことなく通過し、――まるでそれ自体に意思あるかのごとく、奇妙に枝分かれして亡骸なきがらたちを包み込んだ。


 不思議なことに、腐肉などが焼ける不快な臭気はない。熱も肌を炙るそれではない。閉所でものを燃やしているというのに、呼吸が苦しくなることもなかった。


 白々と、煌々こうこうと、焼けて亡骸なきがら


 白炎に、燃え盛る激しさはない。蝋燭ろうそくのように柔らかく揺らめき続ける。


 もし、この光景を見た者が彼らの他にもいたのなら、何気ない家の灯を、あるいは、穏やかな葬礼そうれいを想ったかもしれない。


 瞬く間に、俗世のけがれを落とすがごとく、腐った肉の塊は、白々とした骨格のみに姿を変えた。


 次いで、白炎は、遺骨たちを中心に外へと広がっていく。


 牢内を掃き清めるように、石畳の床から、壁、天井に至るまでを薄く広く覆いつくし、人にとっての苦なるものたち、汚濁おだくなるものたち、その一切を滅却した。


 後に残ったのは、人として、最低限の誇りを取り戻した、人々の欠片。


 そして、血に、汗に、垢に、臓物に、吐瀉としゃ物に、排泄物に、腐敗した食物――ありとあらゆる汚れが燃焼し、消滅した、静謐せいひつなる閉鎖空間が現れる。それは、あるいはびょうと評することができたかもしれない。


「――ご苦労様。ほんと便利だな、お前たちって。こんな地下室で、盛大に物を燃やすなんて、正気の沙汰じゃないんだけどねー。あれだけ焼いたのに、煙も匂いもないなんて、どんな原理なんだか」


 ジョンからすれば、不条理とも言える大狼の炎。


 黒狼に向けて、労いとも、呆れともとれる感想を漏らす。


 そして、うーんと伸びをした後、欠伸をひとつ。奪った鍵で牢屋の錠を開く。


「さて、骨だけなら、六、七人分程度。まあ、後始末の一環だな」

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