第010話 裁く獣、裁かれる獣(10)

 ジョンが通路を進む。もしかしたら、どこかにまだ盗賊の一味が潜んでいるかも―――なんて夢にも思っていなそうな気のなさで。もちろん実際のところそこまで気が抜けているかは不明ではあるのだが。


 そうして、さしたる間もなく、地下へと続く階段へと行き当たる。


 その先に明かりはない。宵闇よいやみかげる穴蔵。底のない奈落ならく陰鬱いんうつわだかまる。


 ジョン自身の手には火の着いていない松明があった。が、彼はそれに火を付けることはなかった。気負う様子もなく、階下へと降っていく。


 途中、ふと、風が吹いた。いや、空気が動いた。


 続いて、ずっ、と湿った抵抗に何かを突き立てる音。そして、ごつっ、と何かが階段に激突する音。


 ジョンの歩みに変化はない。ただ、彼の足は、何の気もなく、硬い石の階段ではなく、もう少し柔らかさのあるモノを踏み締めて、一歩一歩、地下へと向かった。


 階段が終わった先、いくらか広さのある空間に出る。が、やはり明かりらしい明かりもない、真っ黒な、常人の目にはそうとしか捉えられない空間。


 そんな暗闇の中だというのにジョンの足どりは、相変わらずすたすたと迷いない。


 実のところ彼は暗がりは苦手だ。だが、同時に慣れ親しんでもいる。一向に仲良くなれない隣人といったところ。最低限、敬意を払っていれば、怖がらせてくることはない。


 自らの足音の残響から闇の中に配置された物体をまるで目で見るように把握。


 すぐ近くに迫ったあるものを察して、すっと手で触れる。木製の頑丈な格子。つまり、目的の牢。ようやく到着。


「ふむ」


 そして結構前から漂い始め、もう隠すことなど到底不可能な、彼には嗅ぎ慣れた悪臭。


 それはいまごろ外に連れ出され、アニスの胃袋に収まるか、単に殺されるかを待つばかりの盗賊や、彼らに囚われた犠牲者の体液であったり、汗やあか、血や嘔吐おうと物、糞尿ふんにょうの類、腐敗した肉、―――そういったものを混ぜ合わせた、生命の醜さを凝集した臭気。


 ジョンは、ここに至ってようやく手に持っていた松明に火打ち石で火を付ける。

ささやかな発火音。闇に慣れた目に灯火が眩しく突き刺さる。


 格子の先にあったのは、ひとりの女。そして、もう、かえったいくつかの人の残骸。


 もっとも、まだ生きている女もさして長くないだろう。身にまとうものを何ひとつ身に付けていない肢体したいには、それだけの外傷があり、汚れがあり、そして、死に誘われた者が漂わせる特有の香りがあった。


 そういったアレコレを何の感傷もなく観察した後、ジョンは口を開いた。


「やあ、どうもこんばんわ。貴女あなたは、ふもとの村から連れ去られた人かな? あぁ、随分ずいぶんと酷い目にあったようだ。可哀想に。だが、もう心配はいらない。貴女は助かったんだ。もう、苦しむこともない。さあ、ここから出て、家族の元に帰ろう」


 彼なりに、ではあるが誠実を取り繕った顔でつらつらと言葉をつむいでいく。義務的な、まったく価値のないなぐさめ。


 彼自身ですら、そうと弁えながら、営業努力で口を動かしていたジョン。ふいに、女の瞳がこちらをはっきりと捉えるのを見た。おや、と口を閉ざしてしまう。


「―――」


 殴打により元の見た目も分からぬほどにれ上がった女の顔。その唇がゆっくりとわずかに動く。


 声にはならない、うめき。それは弱々しくも、空気を必死にむしるような、情念と執念の重みがあった。


「ーーめーーじ」


 ジョンは少しだけ、隻眼せきがんを見開いた。わずかばかり珍しいものを見た、と。音として、確とは形にならない問い。けれど、ジョンにはその唇の動きから何を言ったのかがわかった。


「ああ、。これまでも、そしてもちろんこれからも健やかに生きていくだろう―――さて、子供の無事を祈るのも、もちろん大事だけれど、今は貴女のことを考えよう。娘さんも、村の方々も貴女の無事を祈っているはず」


 それは、今際いまわきわにある者に向けた不実な空言そらごと。実際のところジョンは彼女が誰なのか知らないし、もちろん彼女の娘も知りはしない。


 依頼主もいちいち連れ去られた女は、どこの誰で、その家族構成はどうで、その家族がいま無事か、なんて、そんな無駄を知らせてはこなかった。


 だが、これからも生きる者と、これから死にく者は、この邂逅かいこうにかける情念の度合いが致命的に違った。


「やーーそ―――」


 続く、黒く変色した唇が、ようよう吐き出したことば。ジョンは目を瞬かせた。


 何を言ってるんだ、こいつ?


 ここで、ようやくジョンは、はっきりと女の瞳を覗き込んだ。


 そこにあったのは、明確な理性と意思。確かな、力強くさえある、視線。


 死の間際にある者が、混濁こんだくした意識の中、幻を見ているようには思えなかった。


 はっきりと、見ているのだ。己という人物を。見定めた上で、判断し、先の願いをつむいでいる。


 よって、やはり当初の疑問に戻るジョン。何を言っているんだ、こいつ?


 ふむ。さて。しかして、どうか。


 数瞬の間、考え込んだのは、この珍事に心を動かされたわけではない。


 正しく、。ジョンにとっては、損にも得にもならない死にく者からの


 そんなものだったからこそ即決できず、考える余地、なんてものが生まれてしまった。


「貴女の娘の名前は何ていうんだ?」


 ジョンが悪びれる様子もなく問う。つまり先の娘は無事云々は、実にいい加減に返答したんですよ、と暴露ばくろしたも同然なわけだが、女に激した様子も沈んだ様子も呆れた様子もない。


 ただひとつ、吐息のように―――、と。


 ジョンには解析できない万感ばんかんらした。

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