第15話
バンコクのスポーツバーでは、早朝に関わらず、客が集まっていた。日本で行われるK-1の試合がネット中継されていたのだ。ワンチャイを目当てに、プロジェクターの前に客たちが身を寄せ合う。だが、大映しになった画面に目当てのワンチャイはいない。髑髏男と片目の少年と傷だらけの少年が映っていた。
片目の少年が髑髏男の一撃をひらりとかわした。客たちから歓声があがる。
「あいつなら、やってくれるかもしれない」
最前列に座る髭を生やした大男が言った。
スポーツバーにいる全員が髑髏男に憎しみを抱いていた。ワンチャイに取り憑いた悪霊を殺せるのはあの少年たちかもしれない。仇をうて。お前たちならやれる! 客の期待が最高潮に達した。
「氷川さん! 好きだ!!」
少年が叫ぶのを聞いた時、画面が桜色変わった。
それを観るものはいない。スポーツバーにも桜が吹雪いていた。
総合体育館のリング上、氷川は夢ともつかない心地になっていた。
視界が桜色に染まった。朝焼けの雲に突入したかのようだった。
アナウンサーの声が遠のいていく。
欠片が視界に飛び込み、氷川は眼をつぶりそうになる。肉吹雪は足元すら見えないほどに立ちこめていた。
会場いっぱいに桜が舞った。
その日、観客たちはワンチャイとドナテロの試合を楽しみにしていた。各々が身支度を整え、総合体育館に集まった。鍛え上げられた肉体が躍動し、競り合うところを楽しみにしていた。
観客は塚本の一挙手一投足に魅了されてしまった。阿刀勢の一方的な殺しを観た後だったからだろう。片目の潰れた容貌は塚本の魅力を一層引き立てた。阿刀勢の猛攻を躱す姿は観客の心を掴むのに時間はいらなかった。
〈あまりにも愚か!〉
阿刀勢は不敵に笑う。おおよそ、観客の肉吹雪を目眩しにして不意を討つつもりなのだろう。環境を用いて反撃の隙を手に入れるなど、想定のうちだった。
阿刀勢は数秒前の記憶を辿る。相手の動きは覚えている。貫手が通る道さえ、避けてしまえば攻めの一手はいくらでも考えつく。
〈狙いは脳天だ!〉
阿刀勢が頭を右にずらす。
木戸の貫手は左を通過するはずだ。ならば完全に無防備になった心臓に簪を打ち込む。
〈右手を負傷したのが運の尽きである!〉
阿刀勢が三本貫手に力を込めたとき、違和感を覚えた。脳内で歴戦の零指たちの経験が警告を発する。
木戸の貫手は通過しなかった。
肉吹雪の中、木戸が現れた。
阿刀勢が見たのは変わり果てた木戸の姿だった。
木戸の両腕は肩からすっぱりと無くなっていた。
阿刀勢の前で桜が舞った。
木戸玄太郎は、中途半端だった。実力は一指に留まり、玄昌の後を追う影法師にすらなれなかった。だが、塚本の友人にはなることはできた。
肩口から木戸は肉吹雪を撒き散らす。距離が縮まる。
貫手も打てぬ身になったか。
阿刀勢は三本貫手をさらに強く握る。心臓へ目掛けて飛んだ。やることは変わらない。
木戸の動きは止まらなかった。
〈愚か! 勝負を捨てるとは!〉
木戸が目と鼻の先に到達する。
衝突する寸前、阿刀勢は眼窩を見開いた。
肩から先が無くなったのではなかった。肉体を伴わない腕が、木戸の前腕と上腕の肉の下から現れる。
腕は青白く、半透明だった。相手を狙い、三本貫手を握り込んでいた。
〈木戸流「簪」!〉
木戸と阿刀勢が交差した。肉吹雪に包まれたまま、互いの立ち位置が交換していた。
入り口からごおっと風が吹き込んだ。偽りの桜が荒れ狂う。
肉吹雪が場外に吐き出され、徐々に氷川たちの視界が晴れた。
木戸は残心をとっている。
阿刀勢は膝をついていた。
「陰指。成りました」
木戸は、背を向けたまま言った。
阿刀勢は自分の身体を確かめる。かすり傷おろか傷ひとつない。ただ、全身の力が湧かない。
〈……魂を貫いたのか〉
「お歴々は江戸の頃より渦巻く亡霊の集合体。爆殺できないなら魂を穿つまでです」
半透明な木戸の手に、赤黒い煙が握られていた。
〈待て──〉
言葉を待たずに木戸が握りつぶす。煙は青白い光を発した。
髑髏が青い炎に包まれる。眼窩から青白い光が放たれる。炎はワンチャイだった肉体に広がり、ごおごおと燃え広がった。叫び声とともに青白い光が天上に消えていく。
「心はぶち殺すに限る、だな」
塚本が言った。
〈見事なり……玄太郎〉
阿刀勢から一瞬、地を這うような響きがなくなった。
「玄爺ッ」
〈励めよ……〉
玄昌の声だった。小さい頃、木戸が帰りを待っていたのを思い出す。厳しくも優しい響きの声もまた天上に消えていった。
〈これで終わるものか……〉
玄昌の声ではなくなっていた。
かき消すように阿刀勢が叫び声を上げた。最後の力を振り絞った大音声だった。
爛れた阿刀勢の身体に血の泡が吹き出す。髑髏の首が落ちた。首の断面からも泡が吹き出し、ぬうっと腕が伸びた。
〈認めぬ! 玄昌すら超えられぬ貴様が陰指など!〉
首の断面から痩せ細った老人が現れた。
どことなく木戸自身に似ているが、誰かはわからない。血に塗れた顔面は憎しみに歪んでいる。なんという執念か。木戸は残心を取るので精一杯だった。
〈殺す! 儂らのいない木戸流など無意味! 霊を爆破などできぬよなぁ! 塚本! そこで指をくわえておれ!!〉
塚本は笑っていた。この期に及んで諦めたのか。老人は勝ち誇ったように叫んだ。
おおおおお……
老人の動きが止まる。聞いたことのない獣のような叫びだった。
木戸たちには聞き覚えがあった。あれは、屋上で聞いた鎧の叫び声だ。
おおおおおおお………
気づいた時には、入り口に黒い鎧が浮いていた。老人を含めた全員の視線が集まった。塚本の技によってついた五芒星の傷跡が痛々しい。鎧は、迷うことなく老人に飛びついた。
〈貴様……! 何奴……!〉
最後のひとり……最後のひとり……
鎧はぼそぼそ呟きながら、老人を食っていた。排水溝に髪が詰まったような不快な音がする。下半身のない胴の穴から音をたてて老人の腕を取り込んだ。
「おっかしいなぁ」
取り乱す老人を見下ろし、塚本は高笑いしていた。
「その鎧の持ち主は、鎧に自分の霊を下ろそうとして失敗したらしい。まあ、俺がバラバラにしちゃったからみたいなんだけどね。その鎧ね、ずっと最後の霊を探してたみたいなんだよ。これからは畑くんのご家族と生きるといい」
〈何を言っておる〉
「いやぁ、自分をボコしてた相手が無様に死ぬのを見るのは楽しいよ。最後にありがとうね」
塚本はそう言って食われる老人の顔の前で、あぐらをかいた。
〈塚本ォ! 許さぬぞ……やめろ! 儂は死にたくない……まだ木戸流が完成していない……〉
やがて鎧の出す咀嚼音だけが響いた。頭の先まで老人を食い終わると、黒い鎧は飛んでいってしまった。
「悪は滅びる、だな」
「アンタの台詞じゃないでしょ」
氷川が塚本に言った。少しだけ笑い混じりの悪友に向ける風だった。
──終わった
木戸は見届けると、仰向けに倒れこんだ。
「おっと」
塚本が木戸を支えた。
残った阿刀勢の身体は激しく燃え上がる。青い炎が燃え尽きた後には一掴みの灰が残っていた。
水銀燈と鉄骨の間を灰と桜が踊る。
無観客となった体育館に静寂が訪れた。
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