第13話

 総合体育館の水銀燈が照らす中、氷川は目の前の出来事を見ているしかなかった。

 会場の中央にリングがある。選手たちが意気揚々と立っていたマットは血の色で元の色がわからない。今や、倒れ伏す格闘家の山と化していた。

 その山の上に片膝を立てて髑髏男がキックボクサーの胸に貫手を貫通させていた。

〈何をしておる! 盛り上げよ!〉

 実況席にいた中年のアナウンサーは短く叫んだ後、気を取り直して叫んだ。

「相手の心臓を貫いたッ!」

 観客は恐怖と混乱で歓声をあげるどころではなかった。

びききっ

 風化したプラスチックが壊れるような音が、キックボクサーの身体から聞こえた。次いで湿った音が続く。髑髏は両腕をキックボクサーの胸の真ん中に突っ込み、無理矢理に縦に裂いた。

 臓腑が飛び散る血の雨がリングを濡らす。

 最前に近い氷川にも容赦なく降りかかった。恐怖が混乱を上回った。

「ふ、フィニッシュムーブッ! 決まったァー!」

 上擦ったアナウンサーの声がこだまする。

〈オーディエンスよ〉

 髑髏が観客を睨む。

 次は自分かもしれない。人の形を保っていない選手の死体を見て観客全員がそう思った。

「うおおおっ!」

 観客のひとりが歓声をあげる。

 波紋のように狂気は伝播した。耳が割れんばかりの歓声が会場を揺らした。

〈祭はこうでなくては。我は木戸流永代当主、木戸阿刀勢あとぜなり!〉

 髑髏は観客に手をあげる。満足そうに赤く眼を光らせた。

 観客たちはしきりに名前を叫んだ。氷川はこの時、熱狂と恐怖は地続きにあるのだと知った。

〈快調!〉

 阿刀勢は立ちあがろうとした名前も知らぬ男の背中を踏み抜いた。

 絶叫と血飛沫の中、氷川は会場の入口に目をやった。

 扉は開かれない。

 早くしろ。氷川は念じずにはいられなかった。

 電話をした15分前までさかのぼる。

 木戸阿刀勢はその瞬間まで、ワンチャイと呼ばれていた。

 選手紹介でリングに上がったワンチャイを桜吹雪が包んだ。意思を持った桜色の龍がまとわりつき、ワンチャイへと収縮していくさまは、美しいものだった。

 超常的だが、主催側の演出だろう。

 楽観的な観客の希望は打ち砕かれた。

 桜吹雪が消えると、ワンチャイの身体は別物に変わっていた。

 その生まれた何かは、根源的な恐怖を持っていた。山で迷子になった時、熊に出会ってしまったような無力感と絶望感を見るものに与えた。

 褐色の筋肉質な身体は、所々白い突起物が浮き出ている。骨だった。骨の棘が突き破って背骨に沿って生えている。

 異様なのは顔だった。人間らしい造形が溶けて、赤い髑髏頭に変わった。

 ワンチャイの鋭い目はなくなり、ぽっかりと眼窩が開いている。剥き出しの顎の骨にはずらりと歯が並んでいた。阿刀勢はばかっと顎を開き、哄笑した。

〈臆したか〉

 阿刀勢の言葉は、困惑する格闘家に火をつけるのは十分だった。それは同時に死へと続く一本道でもあった。

 阿刀勢は会場の格闘家たちを次々と屠って死の山を作りあげた。

 氷川の目に映るのは、自分の知っている木戸流とはあまりに違いすぎた。

 阿刀勢は襲いくる拳を指でなぞった。それだけで、野菜のように拳は切り裂かれた。鞭のようにしなる蹴りを、指突で脛骨ごと砕いた。ある者は頭を砕かれた。ある者は自分の足の指を全て食わされた後、腹を思い切りぶん殴られた。

 氷川は言葉を失った。

 鎧との木戸の闘いは泥臭く、守るための闘い方だった。

 阿刀勢の闘いは舞うような美しさと獣の残虐さが両立していた。

 観客たちは逃げる機会を失った。ただ阿刀勢の格闘家狩りを見るしかなかった。

「おおっと! ここでニューチャレンジャー、ドナテロ・フェルナンデスの登場だッ!」

 氷川の意識が、アナウンサーの実況が引き戻した。

「やろうか」

 今、阿刀勢の前にメキシコ人ボクサー、ドナテロが立っていた。

〈弟子よ。木戸流に下れ〉

 地を這うような声だ。阿刀勢は全ての人間を木戸流の弟子だと思っているようだった。

 超自然の恐怖が、会場にいる人間を凍りつかせる。

「お断りだ。ワンチャイは俺の相手だったんだぜ」

 ドナテロは笑っていた。

「これに勝てば優勝ってワケだ」

 ドナテロが両肩を回す。右肩に描かれた十字架のタトゥーが動きに合わせて動く。ドナテロは十字架を軽く撫でた。

〈木戸流は常在戦場。好きに来るがよい〉

「賞金は俺のものだ」

〈脚が震えておるぞ〉

「なめるなよ!」

 ドナテロが跳んだ。氷川の目には3メートル以上の距離を一気に進んだように見えた。

 ドナテロはそのフットワークの軽さから〈風〉と呼ばれていた。

 阿刀勢が立ち上がった。

 右ジャブからの左ストレートが、阿刀勢の顔に到達している。

 ばちん、と音を立て、阿刀勢の首が揺れる。

 ドナテロが続けて左フックを放つ。腰の入った重い一撃だ。阿刀勢の右腹を抉る。

〈打撃よし〉

 ドナテロがさらに打撃を重ねる。鈍い打撃音が会場に響いた。

 もしかしたら、今度は効いているのかもしれない。観客たちに淡い期待を持たせた。

〈だが、遠い〉

 髑髏が右手を握りこみ、三本貫手に変える。

〈木戸流「かんざし」!〉

 阿刀勢が大きく貫手を引き絞る。

 ドナテロが左にステップしようと重心をずらした。深紅の風が走る。

 予備動作の大きさに釣り合わないスピードを備えていた。

 阿刀勢の貫手がドナテロの身体の芯を捉えていた。素早く引き抜く。ドナテロは絶命している。倒れる前に、阿刀勢はドナテロの額に指を置いた。

〈木戸流「爆ぜ船」!〉

 桜が舞った。

 ドナテロ・フェルナンデスは貧しい一家の三男坊だった。兄弟の中で最も腕っぷしの強いドナテロは警官を熱望されたが、選んだのはボクシングの世界だった。強さがそのまま己の価値に変わる。シンプルでこの上なく残酷なシステムはドナテロを魅了した。しなやかな筋肉と素早い連撃はすぐにドナテロをプロの世界に運んだ。今日は去年死んだ母の命日だった。

 ドナテロの身体は肉吹雪となって会場に散った。さらさらと桜色の欠片は観客たちの頬に触れて消える。

 会場は静まっていた。死への恐れと景色の美しさに思考が殺されていた。

 氷川の目にも肉吹雪は映っていた。水銀燈の光を受けて欠片たちが輝いていた。屋上で見るのとは異なる美しさがあった。

 絵筆とキャンバスが欲しいと氷川は思った。

「綺麗……」

 氷川の呟きは、静寂の中で一際大きく聞こえた。周りの観客の視線が集まるのを氷川は感じた。

 背筋が冷たくなる。

 阿刀勢はドナテロの首を山に置こうとしたまま静止した。

 髑髏頭がゆっくりと氷川に向いた。暗い眼窩と目が合った。

〈お主、知っておるぞ〉

 暗い声の中に怒りを含んでいた。

 ぺた、ぺた、とリングの死体山を阿刀勢が登る。10メートルほどの高さまで飛び上がる。

 音もなく、氷川の前に着地した。

〈電話の女だな〉

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る