第12話

 道場の扉が開いているはずがない。魂なき玄昌はすべての扉を閉め、あの暗い穴で睡眠をとるはずだ。

 木戸は道場に足を踏み入れる。畳に無数の引っ掻き傷がついている。どうつけたのかは分からない。

 筆先を思いっきり振ったような血痕が道場内に散らばっていた。

 真ん中には玄昌がいた。膝をつき、両腕をだらんと垂らしている。玄昌の道着の右袖が血を吸って赤黒い。胸元に大きな穴が開いていた。

「……玄爺ッ!!」

 叫ばずにはいられなかった。すぐに木戸は甲冑との闘いで出来た右手の傷に爪を立てる。鋭い痛みが走った。

 痛みは思考を鎮静化させる。そもそも、塚本が玄昌を殺すのは見込んでいた。だからこそ、木戸流に招いたのだ。

「成長とは人骨の積み重ねなり」

 背後で、歌うように塚本がそらんじる。それは、昨晩、玄昌の放った言葉だった。

 あの時、塚本はいなかったはず。

 木戸の視線も気にせず、塚本が道場を歩き回る。

「甲冑男と戦う間、俺はとっくに目が覚めていた。生憎、身体は痺れていたけどね……。氷川さんと木戸くんが話しているのも耳に入っていた」

 塚本の額に血管が浮き出ていた。

「随分と楽しそうだったな。俺を出し抜いたのか?」

 否定しようとすると、塚本が制した。

「分かっているよ……お前はそんな真似はしない。そもそも氷川さんはとらせない」

 一緒の沈黙のあと、塚本が顔をあげる。整った鼻筋に醜い皺が寄る。

「お前、氷川さんの評判を落とすつもりか」

 何のことか掴めず、木戸は首を傾げる。

「どういうことだ」

「俺はむかついたんだ。お前ほど強い奴が人質なんか取られて言いなりにされてるのがな。氷川さんがせっかくお前を認めてるのに、そのお前自身が情けなかったら氷川さんの評判まで落ちる! だから、零指をもらうついでに殺った!」

 これ以上、御託を聞いているつもりはない。木戸は前蹴りを放っていた。急所を狙った鋭い一撃を、塚本が左手で受け止める。

「塚本。お前、絶対K-1で勝てるよ。上を目指せ」

 木戸が素早く左の三本貫手を放つ。これも塚本が受け止める。

「どうかな」

 塚本の三本貫手。防御が間に合わず、木戸は鳩尾を撃ち抜かれた。勝ってもなお、塚本の顔に笑みはない。

 左の眼が潰れて痛々しい。それが却ってぞっとするような美しさを生み出していた。

〈見事なり!!〉

 その時、地を這うような声が道場の空気を揺らした。

「お歴々ッ!」

 玄昌の亡骸は血で濡れた口を歪ませ、塚本を見ていた。畳が弾け飛び、風が吹いた。

 胸に開いた穴に風が通過して不気味な音を奏でた。

〈気に入ったぞ、塚本君。儂らと融けて陰指となるのだ!〉

 胸の穴が膨らんだ。髑髏達が穴から這い出そうとしているのだ。

「俺に何の得がある」

〈儂があの娘とくっつけてやろう!〉

「あの世の亡霊がか! うわははは!」

 塚本が笑い声をあげた。

 地獄にも似た光景だった。この男は、お歴々をも従えて木戸流を潰すつもりなのではないか。

 ひとしきり笑うと、塚本が携帯を取り出す。ハンズフリー機能で通話をかけていた。

「はい」

 数コール後、聞き慣れた気だるげな声が聞こえた。

「俺だ。塚本だ」

「着拒にしたのにかけてくるのヤバいね」

「今日は試合を見にきてくれるんだろ」

「行くよ。今、支度中」

「良かった。氷川さん、好きだ」

 氷川の舌打ちの後、通話が切れた。

「死人に告白の同席は務まらない」

 塚本が言うのと同時だった。

 髑髏の身体が膨らむ。叫び声とともに、桜が舞った。

「身体がなければ夢も持たないだろう」

 塚本が呟いた。

 桜の奔流が起こった。道場内の肉吹雪がぐるぐると渦を巻いた。意思を持った竜巻が、恨めしそうに木戸たちの周りを暴れ回る。

〈おのれ……おのれ……これで済むと思うな……!!〉

 桜は入り口から一斉に出ていった。

 風はごうごうと唸る。怨嗟の叫び声と混じり合い地獄の旋律を奏でた。

 玄昌も髑髏も跡形もなく消え去った。

 木戸と塚本だけが残った。

 木戸の心は戸惑っていた。

「なぜ、お歴々を葬った。お前なら陰指になれたはずなのに」

「そんなものに興味はない。俺はただ、髑髏の世迷言に苦しむお前が見ていられなかっただけだ」

 塚本が残った右眼で木戸を見据えた。

「ワンチャイを殺してお前が陰指になれ」

 木戸も改めて塚本の姿を見た。最初に会った印象とかけ離れている。片目が潰れた顔は肉が削げ落ちて精悍な顔つきとなっていた。

 筋肉のなかった身体は引き締まり、木戸流零指としての風格を兼ね備えていた。

 塚本は木戸を見て笑った。

「俺は好き勝手にぶち殺して告白してきた。お前も老人の言葉なんぞ忘れてぶつかればいい!」

 木戸の心にあったのは虚無だった。これから永遠に背負うと思っていた髑髏たちがいとも簡単に消し飛んだ。責務、使命として木戸流を抱えて生きてきた自分にどうやって簡単に道を曲げられるだろう。

「それが出来れば苦労しない……」

 歯の隙間から呻くように木戸は言った。

「超えろ。木戸流は無敵だろう。お前は最強の木戸流で、俺は氷川さんのお婿さんだ」

 また塚本の携帯が鳴った。

「……もしもし」

 氷川の囁くような声だった。

「アンタ達、また何かした? ずっと桜が吹雪いてるんだけど」

 木戸と塚本が顔を見合わせる。

「今どこにいる」

 木戸が割って入った。

「会場のリング前だけど……あっ!」

 氷川の後ろで笑い声が聞こえると、通話が途切れた。木戸たちには覚えのある声だった。

「髑髏は生きていたのだ!」

 塚本が叫んだ。木戸が外に出る。太陽が輝く空の下、巨大な桜吹雪の柱が立っていた。

 K-1の試合が行われる総合体育館がある方角だった。

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