第9話

「アーマーゲドン……!」

 木戸はその破滅的な名前を繰り返した。

 西洋甲冑のどす黒い殺気が強まる。

 木戸は氷川を背後に隠す。塚本が気絶したままである今、彼女の命は木戸が守らなければならなかった。

「あの甲冑知ってるの」

 氷川の質問に、木戸は首を横に振る。

 アーデルベルトと目の前の甲冑は何の繋がりがあるのか。木戸が思案する暇はなかった。

「全員粉砕だ! 千斤担ぎのヴィルヘルムよ!」

 アーマーゲドンが叫ぶ。重なるように、どこかから叫び声がした。鼓膜を引っ掻くような音に氷川が耳を押さえる。

 重厚な鎧が突き進んでくる。木戸たちめがけ一心不乱に迫った。風が鎧に触れると、黒い瘴気にたちまち変わった。

 木戸は邪悪な何かの存在を感じた。

 並外れた速さだった。入り口から木戸たちまで5メートル以上はあった。それがすでに1メートルを切っている。

 迫る金属音は死の足音だ。

 木戸は氷川の腕を取る。突進方向が明らかなだけに、かわすのは容易だ。

 身を翻そうとした時だった。

 何か忘れている。木戸が振り向くと、背後にイーゼルが置いてあるのに気がついた。描きかけの風景に桜が儚く散る。

 咄嗟に氷川を突き飛ばしていた。

 アーマーゲドンが眼前に迫る。回避の余裕はない。

 無様に肉塊を晒すか。

──否

「木戸流に死の恐れなし!」

 木戸が決然と叫ぶ。

 骨と鎧がぶつかり、鈍い音がした。

 全身が爆ぜた。筋肉と骨を繋ぐ腱たちが悲鳴をあげる。意識が遠のく中、木戸は脚に力を集中させる。大洪水を一人で受け止めているような感覚だった。足が後ろに摺れていく。

──俺にできるのか

 木戸の脳裏にこれまでの記憶が蘇る。決して木戸流の中で強くない自分がこの窮地を救えるのか。

 それを塗り替えるように、氷川が絵筆を取る姿がよぎった。

──やらなければならないのだ

 木戸は全身の力を振り絞る。甲冑の進みが遅くなる。手応えを感じる。木戸はさらに重心を低くして突進を止めようとした。木戸流の技術などなにもない。

 イーゼルに足が触れた。甲冑は重戦車のような進みを続ける。

「でぇりゃっ」

 掛け声とともに、黄色い筆洗いが飛んできた。水がぶちまけられ、兜を濡らす。

 木戸は一瞬の機を逃さなかった。地面を蹴り、兜の高さまで飛び上がる。

「木戸流〈あぎと〉」

 昆虫の顎を模した両足が兜に絡んだ。想定外の動きに、アーマーゲドンの対応が遅れる。

「鎧を着たことがないのか。無理矢理動くからガタが来てる」

 アーマーゲドンが苦悶の声をあげた。

「重たいだろうよ。鎧は着ると重心が上がる。バランスを取るのは一朝一夕にはいかないぜ」

 木戸が両脚を締め、重心を後ろに移動させる。アーマーゲドンの身体がぎしぎしと軋む。

 木戸流は、あらゆる事態に対応できる戦闘術として考案されていた。甲冑の弱点は教え込まれている。

 引き倒してからとどめを指す。もう数ミリ重心を動かせばアーマーゲドンは重力に負ける。木戸が三本貫手をにぎり込む。

「ああっ」

 氷川が驚きの声をあげた。

 木戸は初めて異変に気がついた。

 アーマーゲドンは弓形になったまま、静止していた。本来崩れるはずの体勢のまま奇妙なオブジェのように固まっていた。

 臼田直義の並外れた体格と、怨霊と化した畑一族の成し得た奇跡だった。

「ぬぉおおお!!」

 アーマーゲドンがばね仕掛けのように身体を戻す。微妙に捻りを加わり遠心力を伴う。殺人的な重さが木戸を捉える。

 木戸が兜から離れようとした。アーマーゲドンの腕が脱出を許さなかった。

──まずい

 爆発音にも似た轟音が、屋上を揺らした。

 コンクリートの砕けた跡は隕石のクレーターを思わせる。

 粉塵でまともに前が見えない中、氷川が固唾を飲んで見ていた。

 パラパラと破片を散らしながら、人影が立ち上がる。

 夕焼けの光が差し込む。土煙の中から現れたのはアーマーゲドンだった。

 鎧の重さを合わせれば、アーマーゲドンは150キロは超えているように見えた。そんなものに押しつぶされてしまえば、木戸もひとたまりもない。氷川は目の前の現実に教えられた。

「次は貴様だ……。鉄の墜児コンスタンツェよ……」

 唸り声を混じらせ、アーマーゲドンが言った。叫び声が空を裂く。手から黒い槍が生成された。

 がしゃん、がしゃんと一歩ずつ氷川との距離を縮める。

 槍が妖しく光る。

「待て」

 アーマーゲドンの歩みが止まった。

「あんたは殺さずに次の獲物を殺るのか」

 アーマーゲドンの胸に腕が生えていた。背後には木戸が立っていた。血に染まった赤色の三本貫手が胸甲を貫いている。

「甲冑の管理には気をつけな」

 兜が赤く濡れている。氷川は木戸に目を移す。腹が赤黒く血に染まっている。

 あの一瞬で、木戸は貫手で腹に穴を開け、兜についた絵の具の水と滑らせて脱出していたのだ。

 生存にかける恐ろしいまでの策略に氷川は戦いた。

 兜の空気穴から一筋の血が垂れた。瞬く間に滝をつくり、鎧を染めた。

 木戸が貫手を引き抜く時だった。

「……絶対不滅のエリクシアよ」

 アーマーゲドンが呟く。黒い瘴気が手甲にまとわりつき、三本貫手を握りつぶした。

 木戸が苦悶に顔を歪ませる。

 短く咳き込むと、アーマーゲドンは崩れ落ちた。

 抜き去った木戸の指は無惨に千切れていた。

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