第4話

 木戸の合図と重なるように、空気を裂く音がした。

 玄昌の指が塚本の鳩尾に沈む。

 嗄れた声が塚本から絞り出される。肺が真空パックのように潰れ、全身を圧搾器で潰される苦しみが塚本を襲った。

 木戸が塚本を支えて立たせた。

「六指獄は本来なら、一指までの六つの段階を踏んで会得する」

 玄昌が構える。視線は塚本の脇腹その一点に注がれていた。玄昌の指先から脇腹へと不可視のレールが敷かれている。確実に脇腹を抉る。玄昌の強い意志が見て取れた。

「今お前が受けているのは、指強しごうという。先生の指を避けられたなら、お前は二指に値するだろう」

 一日でやれるような稽古ではない。六指獄の経験がない塚本が指強を行えば、最悪死に至る。只人ならこの理不尽さに逃げ出してしまいかねない。

──塚本お前はどうだ

 木戸は塚本を密かに見た。

「例えば」掠れた声で塚本が呟いた。

「指を受け止めたなら」

 塚本は挑発している。

──この男はやる気だ

 杞憂だった。木戸は自分が笑っているのに気がついた。

 塚本の口角がきゅっと上がる。目が細まると目尻に妖艶さが浮かんだ。彼は右肘を肩まで上げて、脇腹を玄昌に晒した。

「……一指だろうな。俺と同じだ」

「約束してよ。もし俺が脇で挟んじゃったら、木戸くんの師匠と告白しに行く」

「……」

「木戸流は心を殺す……なら、お爺さんが死んでも心は動かないってことだ」

 この男は、木戸の大事なものを瞬時に見抜いたらしい。木戸の父と母はとっくに死んでいた。

 厳しい顔のまま稽古をつける祖父は、木戸にとって生活の一部だった。

「木戸、俺の身体を傷つけるなら、君にも相応の覚悟を求めるぞ」

「……やるといい」

 動揺を隠すのに必死だった。

「決まりだ」

 脇腹を開き、塚本が待つ。

 厳しい玄昌の顔は、石仏のように無表情だった。

 二人の間の時間が硬直していた。一瞬が永遠に感じられた。

 風が唸り声をあげた時だった。

「すぅっ」

 玄昌の右手が消えた。塚本の身体が一度震える。玄昌の右手が塚本の脇にめり込んでいた。

 玄昌の指が脇から引き抜かれる。脇腹は弾力を忘れたかのように、指の痕が残ったままだった。塚本が白眼を剥く。

 木戸は息を吐く。安堵していた。祖父は若くして零指になった天才だった。三指ですらない塚本に遅れをとるなどあり得なかった。

 その瞬間だった。ばちん、と音がした。

 塚本の脇が締まっていた。

 木戸は目を見開く。玄昌の中指から血が出ていた。黄土色の爪が半分ほど取れかかっていた。

 木戸は何が起こったのか整理がつくまで数秒かかった。木戸ですら玄昌に傷を負わせたことがなかった。それなのに、塚本が爪を剥がすなどありえるのか。

──本物なのかもしれない

 塚本の意識はとうに失せており、膝から崩れ落ちていた。浅い呼吸を繰り返そうと塚本の背中が小刻みに動く。その様は、死にかけのハムスターのようだった。

「今日はここまで……」

 木戸は絞り出すように言った。

「身体もぶち殺すに限る」

 玄昌が低く呟いた。その言葉に応じるように地鳴りのような音がした。


「彼は本物です」

 照明の落とされた道場で木戸と玄昌が向かい合い、正座している。塚本を帰らせた後だった。檜の香りの代わりに、線香のような匂いがした。

おおおお……

 木戸の言葉に応じるように、地面の下で風が唸った。

 玄昌が笑みを浮かべている。目はうつろで洞穴を思わせる。玄昌は唇を動かすことなく呟いた。

〈木戸の悲願。此度こたびこそ成就させよ〉

 地を這うような声だった。

「必ずや……」

 木戸は頭を伏せた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る