第31話 遠くまで

 名古屋市営地下鉄栄駅を降りた時には夕方と言える時間になっていたが、まだ辺りは明るかった。先ほど雨が降ったからか、夕焼けの光が黄色く空気ごと染め上げるようだった。大学の試験は午前中に終わったところで、クラスメートたちは夏休み早々にテーマパークやら旅行やら、遠くまで出かける計画を立てていたが、礼央は以前から今日の予定を決めていたのでそれらの誘いを断っていた。

 芸術文化センターの扉をくぐると、冷房のきいた空気が半袖の肌を包んで心地よい。入り口には傘を入れるためのビニール袋が備え付けられていたが、礼央は幸運にも先ほどの夕立には降られず、ビニール傘は乾いたままだった。四階のコンサートホールに通じるスロープを上りながら、鞄を探ってチケットを取り出した。クラシックのコンサートに来るのは初めてだった。

 穣と知り合ってから、たまにクラシックを聴くようになった。良さが分かるとまでは言わないが、案外退屈はしないと感じるようになった。県内の私立大学に進学した今はアルバイトも始めたので、コンサートのチケットを自分で買ってみようと思い立った。同じクラスにたまたま大学のオーケストラに所属している学生がいたので、初めて聴きにいくならどこがお勧めか聞いてみたところ、えらく熱心にあれこれと蘊蓄を語った後に今日の演奏会を紹介してくれた。どうやら、その学生が過去に所属したことのあるオーケストラらしく、今は団員じゃないから割引できなくてすまん、としきりに謝っていた。礼央はもともと定価で買うつもりだったから一向に構わないと返し、ついでに連絡先も交換した。今日の感想を後で送って、教えてくれたお礼がわりにしようと礼央は思った。

 ホールの入り口でチケットを提示すると、たくさんのチラシが挟まれたプログラムを渡された。本体より、チラシの枚数の方が分厚そうだ。ホワイエでは差し入れの受付を行っており、団員の知り合いらしき老若男女が花束や何某かの入った紙袋やらをスタッフに預けている。それらを横目に見ながら階段を上り、二重扉を開けた先がいよいよ客席だった。

 今日のコンサートは全席自由らしい。例の大学オーケストラのクラスメートは、どこが良席かまでご丁寧に教えてくれた。一階席の中央付近はやはり狙い目なのか、早々と来た人たちでそれなりに埋まっているが、所々にわずかに空席がある。連れがいると選ぶのにやや困りそうな空き具合だったが、礼央は一人なので目についた席にさっと座った。鞄を足元に置き、チラシを注意深く抜き取ってプログラムを開く。

 今日の曲目の一曲目は、チャイコフスキーの弦楽セレナーデ。初めて聴く曲だ。穣は演奏したことがあるのだろうか。今度穣に会うことがあれば、今日のコンサートの話もしたい。礼央はそう考えながら、開演五分前を知らせるブザーを聞いた。

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【文披31題】ふみよむつきひ 藍川澪 @leiaikawa

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