第30話 握手
朝、予備校の教室に着いた時点で、穣はもうこの先に目を向けているんだなと礼央は思った。雨の上がった今日は、楽器ケースにカバーをかける必要はない。つややかなブルーのケースが足元に置かれていた。
「おはよ。今日もレッスン?」
「うん。おかげで来るとき暑くて暑くて」
なるべくいつも通りに過ごした。講義を受け、昼食を共にし、午後の眠気と格闘し、帰りの時間になった。礼央は今日は自習室が閉まる時間まで居残るつもりで、テキストなども用意してきていた。教室を出て、帰路につく生徒たちの人波から少し離れたところで立ち止まる。
「じゃあ、俺今日は自習室に残っていくから。レッスン……いや、音大受験、頑張って」
礼央は右手を差し出した。穣はその手を握り返した。指が長く、少しだけ体温が低い。穣はありがとう、と微笑んだ。
「楊井くんも、頑張って。応援してる」
「お互いな」
穣は出口に向かって歩き始めて、一度だけ振り返って手を振った。その背中に収まったブルーのヴィオラケースが見えなくなるまで、礼央は廊下に立って見送っていた。
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