第6話 北条朝時 2
時氏の葬儀が十八日の深夜、執り行われた。
日頃、神仏など鼻にも引っかけない俺ではあるが、訃報を受けた際、冷や水を浴びせられたような畏れを感じた。
よりにもよって、時実の命日に、時氏まで息を引き取ろうとは。
天というやつは、人が想像する以上に皮肉屋であるらしい。
倅たちと馬で兄上の屋敷に駆け付けると、門前にはすでに幕府の高官含め大勢の弔問客があふれていた。彼らは一様に不安な目を見かわして、天罰であろうか、祟りであろうかなどと疑わし気に互いの腹の内を探り合っていた。
そのささやきを聞くにつけ、思わず失笑してしまった。これまで兄上の治政は素晴らしい、鎌倉は今後も安泰だなどと散々お追従を述べていたくせに、何か事が起こるとすぐこれだ。中には俺たちを見つけて、わざわざ人込みを縫って挨拶に来る者までいた。北条の嫡流が今後こちらに移る可能性を考えて顔を売っておこうという腹だろう。そんな魂胆の見え透いたお世辞でいい気分になっているらしい倅どもの顔を見るにつけ、苦々しい思いは強まった。
だが、そんな雑音も門が開き、兄上の家族が姿を見せるとぱったりと止んだ。
松明を持つ下人たちの後から、棺が人足によって運び出される。野辺送りが始まった。
日頃は決してかがり火を絶やさない大倉御所脇の横大路さえ、この日は闇に包まれていた。ましてその先に伸びる六浦道は元より人家がまばらなことも相まって松明の先導なしではとても歩めたものではなかった。
山深い道を奥へ奥へ、点々と続く灯りが寂しい魂のように上っていく。このところの異常な寒さに狂わされたのか、早くも秋の虫が鳴きだしていた。
大慈寺に到着すると、参列者は堂内へ案内された。その間に兄上たちは裏山へ穿たれた横穴に棺を埋葬しに行かなければならない。
住職が用意してくれた白湯を一同で回し飲みしていると、しばらくして兄上の家人や北の方が泥と夜露にまみれ、疲れ切った面持ちで戻ってきた。
ところが、肝心の兄上がいつまで経っても帰ってこない。それで、堂内はちょっとした騒ぎになった。慌てた家人たちがふらつきながら探しに出ようとするので、俺は強いて押しとどめた。
憔悴しきった者が出て行ったところで、行方知れずが増えるばかりだ。
代わりに探してくると告げて、俺は寺の境内へ出た。
冷たい夜気を吸い込んで、ようやく胸の内が広がる気がした。
あんな心ここにあらずの得宗家を見るのは、とてもじゃないが耐えられない。
俺が得るはずだったもの、得られなかったものを全て持っている兄上。
だが、そんな兄上が幸福に過ごしていることで、俺はどこか救われていた。
正しい人間が、正しい生涯を送っている。兄上が報われるのであれば、俺にもまだこの世が捨てたものではないと思えた。
下人から借りた松明の灯りを頼りに、裏山の入り口まで歩いていく。念のため、道中兄上の名を呼んでみたが、返事はなかった。
まさか足を滑らせたんじゃないだろうな。
この静けさで人が一人滑落すれば、同行者が気づかないはずはないが、周囲の自失したようなあの様子を見るに、何があったとしても不思議ではない。
悪い想像に堪らなくなり、俺は山を登り始めた。久々の激しい運動で右足の古傷が痛み出す。
思えば、若いころあんなに凝っていた狩りをふっつりと絶ったのも、この足に傷を負って以来だった。
動かなくなったわけではない。この傷を意識する度に屈辱的な記憶がよみがえるからだ。
傷を負ったのはあの和田との合戦の時だ。当時、俺は勘当されていたところを兵士の頭数としてだけ呼び戻されたのだ。
勘当の理由は単純で、実朝公の御台所付きの女房に言い寄ったことが原因だった。その女は都の貴族の生まれで、御簾の隙間から見える打ち垂らした髪の、何とも艶めかしい女だった。
俺は我を忘れて言い寄ったが、女は田舎の武者風情に見せる顔などないと拒んだ。そこで諦めれば良かったものを、俺はついつい逆上して腕ずくで御所の外へさらっていこうとした。そこを発見され、親父と実朝公双方から直々に厳しいお叱りを受けた。
正直俺は自分の行いと将軍の権威で都から無理矢理御台所を連れてこさせた実朝公とは大差ないと思っていた。その無反省な態度が透けて見えていたのだろう。俺は鎌倉を追放された。
それからしばらくの間はほとんど山賊まがいに田畑を襲って糊口をしのいだ。そんな俺にとって、降ってわいたあの戦は正しく渡りに船だった。
なるべく大きな手柄をと焦った俺は、和田の猛将と名高い朝比奈義秀に挑みかかった。
まるで手も足も出なかった。軽い一突きで馬上から落とされ、右足の腱を断ち切られた。
朝比奈は俺が動けなくなったのを見て取ると、興味を失したように、また別の兵へと突進していった。
こうなれば恥も外聞もない。俺は死んだふりをしながら、地面を這い、築地の陰に身を隠した。俺の帰還を演出するために縁者がしつらえた派手な鎧などはすぐに捨てた。
行きかう雑兵たちの言葉によれば、和田方は三浦の裏切りに遭い、御所を包囲する計画に失敗したものの、戦況は拮抗しているとのことだった。
戦が長引くのは好ましくなかった。思った以上に受けた傷が深く、いくら縛っても流れ出る血が止まらなかったからだ。武功を立てなければ未だに勘当状態なのには変わりない。そんな者の姿が見えないからといって、命がけで探しに来るやつなどいないだろう。
くだらない欲などかくものではなかったな。俺はいよいよ愚かな自分に愛想が尽きて、薄く笑った。
そんな時だ。
「……朝時っ! どこだぁー!」
そう叫ぶ声が聞こえたのは。
「朝時、どこにいる!」
再び同じ呼び声が聞こえて、ようやく俺を探しているらしいことに理解が追いついたものの、困惑せざるを得なかった。
聞き間違えようもなかった。平素、これほど激した声を上げるところは聞いたことがなかったが、それでも共に育った兄上の声だ。
馬鹿なのではないか? あの人は。
大真面目にそう疑った。
北条の嫡男がのこのこと戦場の只中に出てきて大声を上げていれば、敵からすれば格好の獲物だ。
第一、俺がすでに討ち取られるか、声も出せない状態になっていたとしたら、どうするつもりだったのか。
案の定、北条泰時がいるぞと呼ばわる声が聞こえ、またぞろ兵どもが集まってくる足音がした。
呆れて物を言う気にもなれなかった。
それに、俺の中の冷静な俺が、これは好機だとも囁いていた。このままなら、いずれ兄上は討ち取られる。そうしてやり過ごして俺が生還すれば、北条の家督を継げる可能性はぐっと高まる。
しかし、兄上が三度目に、
「二郎っ!」
と幼い頃の呼び名を叫ぶのを聞くと、頭の中のそんな細かい計算は消し飛んでしまっていた。
俺は隠れ蓑にしていた死体を払いのけ、それを踏み台に、左足の力だけで築地をよじ登ると、衝動任せに、
「兄上! ここだ!」
と叫んだ。
当然矢が雨あられのごとく降り注ぎ、体中に突き刺さった。それでも俺は安心しきっていた。こちらを目指し猛進する蹄の音を確かに聞いていたからだ。
築地の下にくず折れた俺に群がる兵を払いのけ、兄上は自分の馬の背に俺を引き上げた。
「無事か、二郎」
「なわけがあるか」
すると、兄上は一瞬目を丸くし、
「確かに、その通りだな」
と破顔した。
それがあまりに邪気のない表情だったので、俺もつられて笑ってしまった。
兄上は返り血と泥とを一身に浴びて、一軍の将とも思えぬ身なりだった。それだけ捨て身でここまで探してくれたのだと思うと、知らず涙がこぼれてきた。
俺は自分で驚いた。長らくやくざな暮らししかしてこなかったために、まだ涙なんてものが自分に残っているとは思っていなかった。
兄上はそんな俺にあえて気づかぬ振りをし、
「しがみつけるか? 帰るぞ」
と言って、片腕を俺の胴に回し、一散に馬を走らせた。
馬が地面を蹴る度、全身を激痛が走ったが、それ以上に幸福な思いの方が強かった。俺たちは兄弟であるとあれほど強く感じた折はない。
しかし、我ながら奇妙なことだが、生きて御所に帰ってみると、そんな感動は露と消え、心の中に偏狭な壁が戻ってきていることに気が付いた。
兄上は戦の後も、動きの不自由な俺のことを気にかけ、何くれと世話をしたがった。その様子を見て、幕府の宿老連中は兄上の献身ぶりに感じ入り、美談じゃ美談じゃと誉めそやした。それを耳にするたびに俺の中に行き場のない反感が募っていった。
気恥ずかしかったのだろうか? 確かにそれもあろう。
みっともない姿を晒す自分に腹が立ったのか? それもある。
だが、それ以上に、何事につけ付きまとう、あの兄上の美々しさが、どうしても肌に合わないと感じてしまった。
あの人は頼みもせぬのに手を差し伸べてくれようとする。その度に俺たちは疎々しくなる。
そうして突き放してばかりきたからこそ、こんな夜に限ってあの人を探す羽目に陥っているのだろうか。
汗だくになりながらも、山を登る足は止めなかった。
しばらくすると、道がなだらかになり、木立ちもまばらな場所に出た。恐らくは時氏を埋めた横穴もこの辺りだろう。そう考えて灯りをかざすと、闇の奥に呆然と立ち尽くす人影が現れ、総毛だった。
それは確かに兄上であった。だが、その顔には生気がなく、わずかな間にどっと老け込んだように見えた。いつも立て板に水で政務を片付けている兄上とはまるで別人だった。
「そんなところで何やってんだ。皆、心配していたぞ」
呼びかけると、兄上はこちらを見た。しかし、その目は虚ろで、果たして俺だと分かっているのかも定かではなかった。
「……昨日までは変わりなかったんだ」
「あぁ?」
「容体も落ち着いていて、少し話も出来た。だから、尋ねたんだ。どんな祈祷も効かないのは、胸の内に秘めた悩みがあるからではないのか、と。すると、あの子はこう言った。父上にはかかわりないことです、と」
俺には兄上が今にも崩れ落ちるのではないかとさえ思えた。
子を持つ父親の気持ちは俺にも分かる。自分はそれほど頼りない父であったのか。それほど息子の信頼を失っていたのか。いくら自問してみてももはや答えは返ってこない。
立ち尽くす兄上の姿は、あまりに痛ましかった。俺は叶うことなら、その肩を強く抱いてやりたかった。
しかし、そんな親しみを示すにも、俺たちの間にはあまりに隔たりがありすぎた。
俺には時氏の気持ちも何となく分かるような気がしていた。
あいつは兄上を心の底から尊敬していた。だからこそ、何も打ち明けず逝くことを選んだのだ。
たった一粒の、一族の玉を守ろうとして。
だが、だとすれば、兄上、あなたはあまりにも独りだ。
空は深々と冴えわたり、星々の光は凍てついている。
震える兄上を見つめながら、俺は嗚咽に変わりかねない感情を必死に押し殺し続けていた。
瑕疵なき人 柴原逸 @itu-sibahara
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